第6話 2
スピードから察するに走っているようだった。……ということは。まずい。気付かれた。向こうも検索をかけたのだ。しかしハイコは検索を使えない。つまり使い魔も一緒という訳だ。厄介だ。
せめて今すぐここにシフトして来ないことを祈るしかない。
今のエミリオではハイコに勝てる自信がなかった。せっかく見つけたハルカ(正確にはハルカの方から現れたのだが)を取られる訳にはいかないのだが。
早く札幌へシフトしないと。しかしまだヴィジョンが定まらない。後3分はかかりそうだ。
目の前にいるハルカの──トリプルSの血を飲めばこの問題は解決するかもしれないが、今口を付けたら吸い尽くしてしまいそうだった。それではなにもかもが無駄になる。
エミリオはハルカの手をしっかり掴んだまま机に肘を付き、そのままうなだれ、ヴィジョンを定めるのを一時中断して考えた。ハルカを奪われることなく、かつハルカに逃げられることなく、3分間乗り切る方法を。
「ねぇ」
不意にハルカが話し掛けてきた。
「誰にこんな酷いことされたの?」
ハルカは無表情で、何を考えているのか分からない。ただ、若干怯えているように見受けられた。
エミリオは運が回ってきたと思った。こんなに“良い質問”をハルカの方からしてくるなんて。
“混乱”を誘えばいいのだ。
含み笑いを上手く封じ込めた時、勢いよく教室の両開き扉が開いた。
教室の扉が開いた瞬間、ハルカは心臓が止まりそうになるくらいはっとして、ストレートの黒髪を舞わせながら急いで振り返った。
「エミリオ君! ハルカから離れるんだ!」
プラチナブロンドのハルカの担任──ハイコだった。肩には空色の小鳥──エリザベスが。
「ハルカ……。“悪魔は人間の振りをして船に乗る”んです」
苦しそうにうなだれていたエミリオがやっと口を開いたと思ったら、ハルカには意味の分からない言葉だった。
「ハルカ……? 何の話しだい?」
そんなこと言われても分からなかったハルカは、ハイコをちらっと見た後曖昧に首を横に振った。
エミリオは話し出す。
「優しそうに見えるけど、“こんなこと”を平気でやってしまうんですよ。だから上辺に騙されてはいけません。だって、“彼等”は……」
そこでエミリオが激しく咳き込んだ。たくさんしゃべったからだろうか。ハルカはぎこちないながらも背中をそっと摩ってあげた。見てるこっちが苦しくなる程、本当に苦しそうだったから。
「ヴァンパイアなんですよ? 優しい笑顔のその奥では、いつも、いつだって、人間の血のことしか考えてないんです……っ……」
今度は左目を押さえて呻いた。
ハルカはだんだん、エミリオの言っていることが分かってきた。
誰にこんな酷いことされたの?
あの質問の答えを言おうとしているのだ。
「ハルカの血が飲みたい、ハルカが欲しい──そんなことを思いながら、日々ハルカに優しくしているんですよ……。甘い言葉を囁き、懐柔しようとしているんです。なんといっても、“彼等”は臆病ですから。“合意”ならいいと思ってるんですよ」
「な、何を言っているんだい……? エミリオ君……?」
ハイコはハルカがした質問を知らないはずなのに、なぜか動揺しだした。
「ハルカ、さっきの質問の答えは──」
それは、ハルカにとってまったくもって信じがたい答えだった。
「牧野チヒロと……ここにいる、ハイコ……ヴェインリッヒです……」
言い終わると、エミリオは左目を隠していた布を指で持ち上げて、ハルカにだけその中を見せた。
「──っ!」
ハルカは、エミリオと繋いでいない空いている方の手で、すぐに口を覆った。声にならなかった。あまりにもグロテスクで。
瞼は窪み、完全に閉じられていない空虚な穴からは、ぐちゃぐちゃの、赤い寒天のような物体が覗いていた。右目にある、少し怖いけれど神秘的で綺麗な赤眼は見当たらない。
エミリオはなんて酷いことをされたのだろう。こんなことをする人は頭がどうかしてる。狂ってる。
ハルカは、エミリオが左目を自分に見せた理由をこう見た。
こんなに残酷なことをやった“答えの二人”を信じてはいけない。
再び布で左目を隠したエミリオは、まるでハルカの心を読んだようなことを言った。
「……そうです。本当に狂ってます。だからハルカ、一緒いてはいけません」
そう言いながら立ち上がったエミリオに、左頬を包むように触られた。その手には汗とは別の、何かぬるりとしたものがこびりついていた。
ハルカが混乱と不快と恐怖に目を閉じてびくびくしていると、
「やめるんだエミリオ君っ。怖がっているではないか!」
ハイコがエミリオの手首をちょっと乱暴に掴み、ハルカから引きはがした。
崩れるように椅子に座ったエミリオが下を向き、背中を丸めて激しく咳き込んだ。ハルカは思わず、ショックと軽蔑の入り混じった声で、「やめて先生!」と叫ぶように言い、繋いだままだったエミリオの左手をぎゅっと握った。縋るのと守るの──両方含んだ行為だった。その時、エミリオがダッフルコートのフードの下でにやりと含み笑いをしていたことにも気付かずに……。
「エ、エミリオ君……? なんて酷い怪我をしているのだ! いっ、いったいどうしたんだい!?」
ハイコは、まさかエミリオがこんな大怪我をしているとは思っていなかったように、目を丸くして慌てて言っていた。しかし混乱していたハルカにはもう何が真実か分からなくなっていた。
なにもかもが演技かもしれない。
せっかく昨日信じられそうになったのに。
(もうやだ……。わかんないよ……)
裏切られたような気持ちになってしまったハルカは、自分の感情が、心を守る為に麻痺していくのを感じていた。無表情になり、瞳から光りが消えて行く。
「とどめを刺しに来たんですか?」
エミリオの問いに、
「な、何を言ってるのか分からないよ」
ハイコは言葉通りの様子だ。
「わ、私はただ、チヒロから、エミリオ君が学園にシフトしたかもしれないという連絡が入って、そしたらエリザベスが、エミリオ君が教室にいるというから、驚いて来てみただけで……」
そこでハイコは弾かれたように、
「そっ、それより! 早く手当てしなければ!」
「触るな!」
その、空気を震わせるような怒鳴り声にも、ハルカは無反応だった。
「自分でやっておきながらなんですかその台詞は。ハルカの前でだけ良い人ぶるなんて最悪ですね」
蔑むような言い方のエミリオ。エリザベスが憤慨したように、
「ハイコがこんなことする訳ないだろぉ!」
ハイコは、まるで映像を一時停止したみたいに固まっていた。やがてハルカの方を見て静穏に、しかしどこか悲しげに、
「ハルカ……? まさか信じてしまったのかい? こんな簡単な嘘を?」
ゆっくり首を横に振り、ハルカは思ったことをそのまま、なぜか泣きそうになりながら言った。
「わかんない……」
その曖昧な反応のせいで、今度は自分がハイコを裏切ってしまったような気分になった。
どうしたらいいか分からずに、ただエミリオの左手を握った時、ハルカの視界は歪んだ鏡みたいにぐにゃぐにゃになっていった。
異変がおさまった時、ハルカは札幌の、大通りに面した雑居ビルの屋上にいた。ハルカの目に残像として残っていたのは、薄暗い教室で伏し目がちに俯くハイコの、やけに悲しげな碧い目だった。
「けほっ! ごほっ!」
隣でエミリオが咳き込んだ。
ぼんやりしたまま、大丈夫?──と訊こうとした時、今度は家屋がぽつぽつと並ぶ、どこかの田舎まちの廃工場の敷地にいた。道路標識や車のナンバープレートから、ハルカはここが外国で、ロシアだということをなんとなく理解した。
(不法入国……しちゃった……)
そんなことを麻痺した感情のまま上の空で思っていると、また景色が変わった。エミリオは血反吐を吐いていた。
ハルカはされるがまま、エミリオに連れられて次々とロシアを横断していった。制服のまま。何も持たずに──いや、混乱という感情を持って。
◆
“森と湖の国”という謳い文句に虚偽はなく、フィンランドという国は緑豊かで水に恵まれていた。エミリオが言うにはこの国が終着点らしい。なんとなくドイツだと思っていたハルカは少し驚いた。
ハルカはエミリオと手を繋いだまま、しばし呆然と辺りを見渡していた。ここはかなり田舎のようで、見えるものといったら氷河に削られて形成された湖と、針葉樹で出来た森、あとは草原くらいだ。地形は比較的平坦だった。風は乾いていて穏やかだ。
空は明るい。時差の影響でフィンランドはまだ午前中らしかった。
「──っくしゅ!」
耐えられず、ハルカはくしゃみをした。天気は良いが、なにしろフィンランドは緯度が高い。まだ積雪はなかったが、ミニスカートの制服だけという格好のハルカにとってはかなり寒かった。白い息が出る。
エミリオが突然、着ていたダークグレーのダッフルコートを脱ぎ始めた。
「──どうぞ」
差し出されたコートを一時ぽかんと見つめていたハルカだったが、すぐにはっとして慌てて、
「いいよいいよ。だってエミリオ怪我してるし。ワイシャツぼろぼろだよ? わたしは平気だから」
半ば無理矢理連れて来られているのに、エミリオに気を遣っている自分を、ハルカは不思議に思った。しかし今のエミリオは恐怖の対象ではなかった。それはきっと弱っているだけが原因ではない。




