第5話 涙編9
「ん?」
ハイコは首を傾げているが、苛々している様子はなかった。こちらの話しを真摯になって聞こうとしている姿勢だ。
「ごめんなさい」
ただ謝りたかった。
「わたし、わがままで……」
自分の気持ちが上手く伝えられない。
「何言ってるんだい。そんなことないよ?」
穏やかな優しい声にハルカは不満げな顔で首を横に振る。
「先生を困らせた」
「困ってないよ?」
「迷惑かけてる」
「かけてない」
「本当は怒ってる」
「怒ってない」
「めんどくさいって思ってる」
「思ってない」
「嘘……」
「嘘じゃない」
「酷いこと言っ──!?」
子供じみた会話に埒があかなくなってきた時。ハルカは口を塞がれるような形でハイコに抱きしめられた。
「もういいよ。もういいから……」
意味が分からなかったが、低くて甘い声は、ハルカの子供っぽいぐちゃぐちゃな感情を静めるには十分だった。
ハルカは、ハイコの胸に顔を埋めるでもなく背中に腕を回すでもなく、ただじっとしていた。伏し目がちになり、唇を噛んで涙を堪えていた。
しばらくするとチヒロがからかうように口を開いた。
「いつまでそうしてるつもりかにゃ~?」
「ちっ、違うのだ! これは──えっとつまり──そう! シフトをするには相手の身体に触れなければならない訳でして──」
頬を染めてあわあわ言い訳をするハイコは一度ハルカを放したが、また触れてきた。今度は両手で片手を。
「とっ、いう訳で! さぁ、チヒロも!」
ハイコが片手をチヒロに差し出した。チヒロはにやにや笑いをしながらその手を掴む。
ハイコが目を閉じた。
「ちなみに使い魔は触れないでも一緒にシフトできるんだよ?」
チヒロが説明しながらウインクをした。
ふとハルカはエーデル祭の衣裳はどこかと部屋を見回した。明日モモに返さないといけないから。
そんなハルカに気付いたのか、チヒロが紙袋を掲げて、「これ?」と言う。その中身はエーデル祭の衣裳だ。「うん」ハルカがそれを受け取ると、目を開けたハイコが、
「行くよ? しっかり掴まって?」
「にゃ~にが“しっかり掴まって”だ。本当は髪の毛1本でも十分なのに。ハルカちゃんが何も知らないからって自分に好都合な知識吹き込むなよ。へんたーい」
ハルカはハイコにしがみつこうと今まさに動きかけていたのだが、チヒロの楽しげなその台詞に足が止まった。そして自分の黒い髪を摘み、上目遣いでハイコに差し出す。
ハイコは何も言わなかったが、非常に悔しそうに、涙など出ていないのに目を擦って鳴咽を漏らしていた。
マンションのリビングに着くと、ハルカはまず自分の部屋に向かった。そして重ね着カットソーとスカートというシンプルなものに急いで着替えて、またリビングに戻った。
「ワイシャツは洗濯してから返すから」
「えっ!? いいよいいよそんなの」
「ダメ」
ハルカは頑として引かない。するとハイコは観念したように、「分かった」と言った。
「ハルカちゃん家って広いねぇー。いーなー。うらやましいー」
チヒロは額に手を翳してリビングを見渡している。
「ハルカお腹空いてないかい? 結局何も食べてないよね?」
確かに食べてない。お腹も空いている。しかしそれ以上に眠い。
「もう寝るからいいよ」
分かってはいたが、やはりハイコはしょんぼりとなった。
「ねぇハルカちゃん? 社長も置いていっていいかな? 何かの役には立つと思うんだよね。よく食うけど」
チヒロが社長という名の巨大な三毛猫を抱えて苦笑いした。社長はふて腐れたようにそっぽを向いて、
「育ち盛りなんだよ悪いか!」
ハルカはそんな社長の耳を撫で、
「エリザベスのこといじめない?」
「オレはいじめてねぇーよ! あいつが美味そうなのが悪いんだよ!」
俺様主義な社長。
ハルカは左肩のエリザベスがびくつくのを感じた。
「エリザベスのこといじめない?」
まったく同じことを、今度は目を見て言った。
「ほら社長」
チヒロが社長の身体を揺らして促した。社長は目を逸らして、「どっ、努力する……」と言った後、チヒロの腕から降りてハルカの足に太いしっぽを絡ませて来た。
ハルカがそのくすぐったさを我慢していたら、
「ではエリザベス? 社長? ハルカを頼んだよ? ハルカ、明日また学校でね」
「社長? ハルカちゃんにあんま迷惑かけるなよ? じゃあハルカちゃん、またね」
ハイコとチヒロは最後に、「おやすみ」と言い、消えた。
ハルカは明日の朝お風呂に入ることにし、今日はもう寝ることにした。いろんなことがあったので眠れないかと思ったが、意外とすぐに瞼が下りてきた。
エリザベスは枕元に、社長はそのまま床で丸まった。しかし朝日が昇る頃、社長はハルカの隣で眠っていた。
◆
どういうことだ。
熊のような大男──ヴァンパイア元帥であるシュナイダーの、威圧的な重低音に最初に問い詰められてから、もう数時間が経過していた。
人間の血液ランクを調べる為の薬──エリクシルを、特別区域から盗んだことがばれてしまったのだ。
エミリオは、石造りの狭苦しい拷問部屋の壁に磔にされていた。まるで磔刑に処せられた救世主のように。しかしエミリオはまだ救っていない。たった一人の妹──アナを。
早くトリプルSの人間の血──ハルカの血をアナに飲ませてあげたい。そうすれば、きっとアナは声を取り戻せるのだから……。
今すぐハルカがいる日本にシフトしたかったが、ここはヴァンパイア国王のお膝元。
ドイツ南西部の地下に広がる膨大な空間には、あらゆる場所にシフト防止の魔法陣が施されている。地下空間内でシフト出来る場所は居住区など──極限られたエリアのみなのだ。
しかもこの拷問部屋には、シフト防止魔法陣の他にヴァンパイア能力使用不能魔法陣も施されている。エミリオに為す術はなかった。
「言え!! エミリオ! トリプルSは何処にいる!」
シュナイダーが叫ぶように言い、エミリオの顎を片手で握り潰すように強く掴んできた。硬い爪が白く柔らかい頬に食い込み鮮血が滲んだ。
「ぐっ……!」
痛みに声が漏れるエミリオ。
シュナイダーはもはや、エミリオがエリクシルを自分に内緒で盗み出していて、しかもそれが上層部にばれてしまい、その責任を取らされて昇格話しが無しになった──ということよりも、エリクシルを白く発光させる原因となった、トリプルSランクの人間の名前を、中々言わないエミリオに怒りを覚えている──という感じだった。
部下の失態を責めて憂さ晴らしをするよりも、貴重なトリプルSを自分のものにしたいという欲の方が勝ってきたのだろう。
「言えと言っている!!」
左右の二の腕を掴まれた。ギシギシミシミシと嫌な音を立てて、腕は今にも身体からもぎ取られそう。
「う゛っ……ぐぁ……」
顔を歪ませ、エミリオは小さな声で呻いた。痛みに耐える為に噛んだ唇から血が流れる。
数時間前のシュナイダーは氷のように鋭く怒っていたが、今はその面影すらなく、炎のように激しく怒っている。
早くトリプルSが誰なのか知りたいのだろう。焦らされるのは好きじゃないらしい。
はだけたぼろぼろのワイシャツから覗く、白い肌についた幾つもの切り傷や酷い痣も、爪が何枚か剥がれて血だらけの指も、すべてシュナイダーが原因だ。
シュナイダーの暴力には慣れていたエミリオだが、さすがにきつかった。こんなに激しい仕打ちは今まで受けたことがない。
「もう一度訊く」
二の腕を放したシュナイダーが、熱せられ、オレンジ色に光る鉄製の棒を握った。言わなければどうなるか──簡単に想像がつき過ぎて吐き気がする。
「エトワールは何処にいる?」
ドイツ所属のヴァンパイア──特に大人達は、トリプルSを時々エトワールと呼ぶことがある。エトワールとはフランス語で、花形、人気者、という意味。つまりただの言葉遊びだ。
ここでエミリオにある名案が浮かんだ。“あえて”ハルカのことを教えるのだ。
しかしシュナイダーだけに話すのでは意味がない。出来るだけ多くのヴァンパイアに話すのだ。
出来るだけ多くのヴァンパイアがハルカを追うように仕向ける。そうすればハルカは、“味方をしてくれる強いヴァンパイア”を頼りにせざるをえなくなる。ヴァンパイアのくせに血を飲むのが嫌いな出来損ない──ハイコ・ヴェインリッヒなんかではなく。
エミリオは、これならハルカをハイコ達から簡単に奪うことが出来ると思った。いちいち戦ったりせずに。
多くのヴァンパイアに追われる原因を作るということは、ハルカの日常を殺すことになる訳だが、エミリオの心は痛まなかった。トリプルSの人間はヴァンパイアに出会ってしまった時点で、日常など本来死んだも同然だからだ。
せめて、ドイツに幽閉され、大勢のヴァンパイアに回し飲みされないだけましと思ってもらうしかない。
エミリオが黙ったままぐったりしていると、
「聞こえないのか!」
熱せられた鉄製の棒の、鞭のような一撃を左腕にくらった。
「うあっ……!」
痛みに一瞬意識が飛びそうになったが、エミリオはなんとか持ちこたえる。首は動かせたが、悪臭を放つ自分の腕など、とても見る気にはなれなかった。
シュナイダーや自分の様子を見に、やじ馬達がたくさん来るのを待たなくてはならない。そいつらが来たらハルカのことを話そう。ただし、もう抵抗する気がないと思わせる為、わざと弱々しい殊勝な声で言わなくてはならない。話した瞬間殺されては元も子も無いから。
賭けに近い作戦だ。相手にひとかけらの慈悲があることを信じるしかない。
そして見張りが手薄になったらさっさと逃げよう。
早く。早く来い。




