第5話 涙編8
顎に手を当てたハイコが、
「うーん……。ばれなければいいと思っているのかな? でも、エミリオ君がハルカのことを黙っていてくれるなら、それはそれで助かるよね?」
「確かに。日本でトリプルSが見つかったってことがドイツに知れたら──」
チヒロが恐る恐るといった具合でこっちを見た。そして真面目な顔で“ドイツ”のことを説明し出した。
ヴァンパイアにとってドイツとは、人間でいう国際連合本部のようなもので、常時各国のヴァンパイア達が待機しており、重要な議題を話し合ったりしている大事な場所らしい。
ハイコやチヒロなど、“出来損ない”の烙印を押されたヴァンパイア達にとっては、いわゆる“敵の本拠地”だそうだ。
「それでトリプルSっていうのは──」
チヒロが話し出す。
「エミリオにも聞いたかもしれないけど、ありえないくらい貴重なものなんだ。10億人に1人とか、そんなバカみたいなレベルな訳で──。しかも飲んだら不老不死になれるとか物凄い力が手に入るとか金持ちになれるとか──胡散臭い伝説までついてる。それでも今も昔もドイツはトリプルSを希求してるんだよ。だからもしハルカちゃんがドイツに見つかったら──……」
チヒロは黙ってしまった。しかしハルカはその後続くはずだった言葉が分かった。
ドイツに見つかったら──。
“何人ものヴァンパイアが日本に来て、ハルカちゃんを捕まえようとするよ……”。
“回し飲み”──。
その言葉を妙にリアルに感じてしまったハルカは、今にも見知らぬヴァンパイア達が大勢押し寄せて来るのではないか──という急激な不安に襲われた。
「ど、どうしようチヒロ! エミリオ君がドイツに言ってしまったら!」
チヒロの両肩を激しく揺さ振って訊くハイコは、ハルカ以上に動揺しているようだった。
「おっ、落ち着けって! ハイコがそんなんじゃハルカちゃん余計不安がるだろ! バカ!」
電池が切れたおもちゃみたいにぴたっとおとなしくなったハイコに、チヒロが続ける。
「エミリオがドイツに言うってことは、“自首”するってことだぞ? 上級ごときがトリプルSを一瞬でも匿おうとしてたのがばれてみろ? どうなるかくらいハイコにも分かるだろ?」
頷くハイコ。
「だからそんな危ないことエミリオはしないって。案外エミリオは本物のトリプルSにビビって、ただ居場所だけ把握しつつ放置してるだけかもしれないぞ?」
そこでチヒロがハルカを見た。
「ネックレス付けられた時、エミリオはなんか言ってた? 何か約束事を言われたり、次はいつ来るとか言ってなかった?」
ハルカは、エミリオに渡されたやってはいけないことややった方がいいこと等が書かれた小さなノートの存在や、手の傷が治る頃に来る──といった約束、それからペットにされたことを頭の中に思い浮かべた。
しかし元々寡黙でしゃべることが得意でないハルカは、どれをどんな風に言ったら良いのか分からなかったので、結局エミリオが次に来る時期についてだけ話した。
その後は気分が悪くなり、膝を抱えてうずくまった。
自分がトリプルSとかいう非常に稀な存在だということを、ハルカはまだ理解できずにいた。
気持ち悪かった。怖かった。自分の血を飲みたがっている者達が数え切れない程いるなんて。
しかしいつしかそんな感情も麻痺し、人形のように無表情になったハルカは、ふと一人になりたくなって、いろいろ話し合っている二人に向かってぽつりと言った。
「わたし、帰る」
立ち上がってふらふらと、まだワイシャツ一枚という格好のまま玄関に向かおうとしたら──
「待ってハルカ! こんな時間に未成年が一人で外に出てはいけないよ! し、しかもそんな格好で……!」
進路にハイコが回り込んで来た。なにやらまた頬を染めていた。後ろのチヒロは、「──んなこたどうでもいいんだよ! つーかそれを与えたおまえが照れるな!」と突っ込み、
「話し合いの結果、今ハルカちゃんは一人にならない方が絶対いいと思います」
ハルカはげんなりする。しかし表情に変化はなく、傍から見たら無反応な人形だった。
「帰る」
淡泊に言う。
ここで泣きながらしおらしく、帰りたい、一人にさせて──と言ったら、二人はどうするだろう。そんなことも考えたが、ハルカはそんな気色の悪い女にはなりたくなかった。
「分かったよ」
ハイコの意外な言葉に、ハルカはぴくっと顔を上げ、“まるで人間のような反応”を示した。
「ただし、やっぱり一人にするのは心配だから、エリザベスを連れていってもらうよ?」
ハルカは上目遣いに頷いた。そんな時チヒロがさらりととんでもないことを言う。
「てゆーか俺泊まろうか? ハルカちゃん家」
カーテンが掛かった、エリザベスの眠る鳥籠へ向かっていたハイコが、お笑い芸人が顔負けするような嘘っぽいこけ方をした。
ハルカは眉間に皺を寄せて冷静に、
「嫌」
「だよねー、あははっ! 言うと思ったぁ」
軽いノリのチヒロは続ける。
「でも真面目な話し、俺がいたら心強いと思うんだけどねー。俺はハイコと違って“雷属性”っていうやつだから、エミリオに普通に攻撃効くし。ハルカちゃんのこと近くで守ってあげられるよ? それでも嫌?」
ハルカは迷った。確かにチヒロがいれば心強いと思った。しかし会ったばかりの他人を家に泊めるなんて……落ち着かなくなるので嫌だった。朝起きてリビングに行ったら他人がいる──なんて状況は想像するだけで眩暈がする。
(わたしは、わがまま……?)
せっかくチヒロが守ってくれると言っているのに……。
急に自分が嫌いになってしまったハルカは、廊下の壁に背中を付け、俯いて押し黙った。
こういう態度をとると、だいたい人は貧乏ゆすりをしたりこれみよがしなため息をついたりして苛々したようになる。そして“意志を示せ”とか、“ずっとそうしているつもりか?”などと言ってきて、終いには自分の愚痴を話し出す。
チヒロはどんな愚痴を話すのか──そんなことをぼんやり考えて時間を潰していても、チヒロはつま先を小刻みに動かさないしため息もつかなかった。それはエリザベスを手に乗せたハイコも同じだった。
そんな二人にハルカの方が戸惑っていると、エリザベスがぱたぱたとハルカの肩に舞い降りた。
「ごめん! 実は起きてたんだ。オレ全部聞いてた!」
潔い打ち明けに、ハルカもハイコもチヒロも一瞬呆気に取られた。そんなのもお構い無しといった具合にエリザベスは幼く明るい声で話す。
「チヒロなんかいなくたって大丈夫だよ! オレがハルカを守るから! ずっとハルカの傍にいるよ!」
首筋に擦り寄って来るエリザベスがくすぐったかった。優しさはもっとくすぐったかった。
小さなエリザベスを手の平に乗せて、その穢れなき抜けるような空色の羽根を撫でたくなったが、ハルカは何もしなかった。
その時ハルカの足の脇をふかふかで巨大なものが通った。その巨大なものは照れ臭そうに、
「実はオレも起きてた」
「なんだよ社長! おまえもか!」
チヒロは巨大なもの──社長という名の三毛猫を、しゃがんでわしゃわしゃと撫でた。
「おまえらギャーギャーうるせぇんだよ! 何時だと思ってんだよまったく!」
社長は悪態をついてるものの妙に嬉しそうだった。チヒロに顎の下を撫でられると目を細め、気持ち良さそうに喉をごろごろいわせていた。
素直で明るいエリザベスと、不器用だけどどこか憎めない社長を見て、なんとなくハルカは、どちらもかわいいな──と思っていた。それに比べて自分はなんてかわいげのかけらも無い存在なんだろう──と嫌悪した。
善意を跳ね返し黙り込んで困らせて。あげく優しさを無視した。
いったい自分は何をしたいのか。何が欲しいのか。それすらも分からなくなってきていた。
「そうだね。もう12時過ぎてるし、明日も学校だし、とりあえずハルカ、マンションまで送るよ」
ハルカが下を向いたまま黙っていると、屈んだハイコが覗いて来た。その顔は真剣だ。
「どうしたの? やっぱり不安かい?」
声も低くて真面目だった。
「なんでもない。早く帰りたい」
そっぽを向いてそっけなく言う。
「ハルカの家にはエリザベスの結界が効いてるから、エミリオ君は入れないけれど……本当に一人で大丈夫かい? 女性のヴァンパイアを何人か護衛につけようか?」
「“そんなの”いらない」
たぶん酷いことを言った。それはハルカ自身も分かっていた。ずきりと胸が痛んだから。
……そんなこと言うつもりなかったのに。自分で自分のコントロールができない。
これでさすがに愛想を尽かされ、罵られて怒られるかと思ったハルカは、縮こまるように身を固くした。しかしハイコもチヒロもエリザベスも社長も、誰もハルカを責めなかった。
ただ、ハイコは悲しげに微笑んでいた。それにはいろんな感情が詰まっているようだった。
「シフトで送ってあげるよ。シフトっていうのは一度目で見た場所でないと行けないんだ。だからこれから何かあった時の為に、一度チヒロも連れて行くよ?」
ハイコが不意に手を延ばしてきた。ハルカは反射的に腕をクロスさせて身を守った。
手を引っ込めたハイコは、
「今すぐには無理かもしれないけれど、信じて欲しいな。私はハルカを叩いたりしないよ? もちろん怒鳴ったりもしない。だから、そんなに怯えないでよ。ねっ?」
にこりと柔らかく微笑うハイコに少しだけ安心したハルカは、軽く警戒しつつもゆっくりと腕を降ろした。そして、「ごめんなさい」と言う。
「何がだい?」
「わかんない」
ハルカはなぜか泣きそうだった。そして自分はまだまだ子供だということを思い知る。
何がしたいのかも分からない、気に入らないことがあると説明もしないでただ大人を困らせる──幼稚園児と一緒だ。
こんなだから母親はハルカを叩いたのかもしれない。




