第5話 涙編6
「違うと思う……」
この重い気持ちはそんなことが原因ではない気がする。
人間に恋を“してしまった”時。その恋人に正体を明かした時。なんの連絡もない日々を一人で過ごした時。そんな時の気持ちに似ている。
ハルカへの気持ちなど消してしまった方が楽になれるのは分かっていた。しかし一度ついてしまったものを消すのは難しい。なにより、ハイコは“この気持ち”を消したくないと思っていた。自分の気持ちに気付かない振りをするのはそろそろ限界だった。
ハイコはハルカがいる脱衣所の扉を見つめた。そして確信する。
(私は……ハルカが好きだ)
◆
案の定、リュウトはハルカのことを酷く心配していた。リュウトが怒濤の如く後夜祭後のことをしゃべり続けるので、ハルカは電話を切るタイミングを何度も逃した。心配してくれた相手に不快な思いをされてはいけないと、ハルカはちゃんを相槌を打って熱心に聞き続けた。
『あっ、なんか俺しゃべり過ぎ? ──ってもう12時じゃん! ごめんねっ?』
リュウトは必死そうだ。ハルカは努めて穏やかに、
「ううん。平気」
『じゃあ──そろそろ切るね。明日──ってゆうか今日? って、エーデル祭の片付けだけだよね?』
「うん。そうだよ」
『で、火曜から月曜の体育の日まで、1週間ずっと休みなんだよね?』
「うん。テスト勉強の為の休み」
『うわ、そっかぁ。もうすぐ中間かぁ──ってごめん! 切るとか言っときながら俺ってば! じゃ、今度こそ切るね? お、おやすみ!』
最後の言葉だけ、リュウトは緊張しているようだった。ハルカの方は極めて冷静に、
「うん。おやすみ」
終話ボタンを押したハルカはゆっくり立ち上がった。ずっとお尻を床に付けずにしゃがんでいたので、足が痺れていたのだ。
「──っ!?」
よろけたハルカは、思わず近くにあったバスタオルの山に掴まった。
ほっと息をついたのも束の間、真っ白なバスタオルから覗いた“赤黒いもの”に、ハルカは目を丸くした。
それは血液パックだった。病院で輸血に使う──まさしくそれだった。
ハルカは端を摘んでゆっくりと目線の高さまで持ち上げた。
表記内容によるとこの血液はA型らしい。
(……)
自分もA型だということに気付いたハルカは、理由の分からない恐怖に襲われた。しかし同時にハイコのことが浮かんだ。ここに“これ”があるということは、ハイコは“これ”を飲んでいないのだ。
“ひと月飲まなかったら死ぬ”ってこと、まさか忘れた訳じゃないだろ?
不意にチヒロが言ったことを思い出した。ハイコはまだ3週間とちょっとらしいから、猶予はある。しかしやはりハルカは心配になってきた。
そもそもなぜハイコはヴァンパイアなのに飲むことを避けているのだろう。美味しくないから? もしかして……太るとか……。
そんなことを考えつつも、ハルカはこれだという理由を見つけた。
(ハイコ先生は、人間が好きなんだ……)
恐らくハイコにとって人間の血を飲むということは、例えばハルカがエリザベスの前で鳥肉を食べるのと同じくらい、残酷な行為なのだろう。
どうして今まで気付かなかったのだろう。
ハルカは今まで自分の闇しか見えていなかったことに気付いた。ハイコにだってあるのだ。ハルカより何年も多く生きてるのだから、それは当たり前のはずなのに。
ハルカは血液パックを見下ろして考えた。どうすればハイコがこれを飲んでくれるかを。でもそれは難しかった。ハルカだってエリザベスと親しくしながら鳥肉を食べるなんてこと絶対にしたくなかったから。
そこでハルカは考え方を変えてみた。もし自分が、エリザベスになんて言われたら鳥肉を食べる気になれるかを。
それはきっと本気の懇願ではないだろうか。
気にされること自体が嫌だから、どうか気にせず食べて欲しい。
そんなことを本人に言われたら、食べる気になれるかもしれない。
しかしハルカはため息をついた。この場合ハイコにとってハルカは、ハルカにとってのエリザベス程大切な存在ではないと思うし、血は鳥肉とはちょっと違う。
ヴァンパイアのことを何も知らないハルカなんかにいきなり飲めと言われたら、さすがのハイコもハルカには関係ないと言って怒るかもしれない。
この問題はハルカなんかが容易く踏み込んでいいものではないのかもしれない。
しかし、ハルカは勇気を出して言ってみることにした。怒られるかもしれないという恐怖はあったが、なぜか前より引いていたから。泣いてしまった時に優しくされたことで、ハイコのことを前より身近に、温かく感じることができていた。
ハイコ先生は絶対叩いたりしない──。
それを信じれることで、ハルカは前に進む原動力を得ることができた。
背中に血液パックを隠しながらゆっくり脱衣所を出て、ハイコに子機を返し、そのまま床に正座した。
「なっ!? どっ、どうしたんだいハルカ!?」
「ハ、ハルカちゃん?」
案の定、ハイコもチヒロもぎょっとしていた。エリザベスと社長はもう眠っているようだった。
「ハイコ先生、あの、お願いがあるんだけど……」
下を向いたまま血液パックをそっと膝元に置き、緊張しながら話し出す。
「ヴァンパイアにとって人の血は、生きる為の薬なんでしょ? 飲まなきゃ死んじゃうんでしょ? ……そりゃ、わたしだって、例えばだけど、エリザベスと仲良くしながら鳥肉食べるの嫌だし、ハイコ先生が飲みたくないっていうのも分かるけど……でも、ハイコ先生の場合は飲まなきゃ死んじゃうから……。死んじゃ……嫌だから……。だから、飲んで、下さい……。お願いします」
最後にいくにつれぼそぼそとかすれてしまい、聞こえにくい声になってしまった。
「ハル──」
その時ハイコが何か言おうとした。
「いきなり勝手なこと言い出してごめん!」
しかしハルカは怒られると思い、小さくびくついて早口に弁解し始める。ずっと下を向いたまま。
言い終わったら走って逃げようと思った。東京だし、大通りに出ればこんな時間だってタクシーがつかまると思った。マンションのカードキーはかばんの中だが、管理人に言えばなんとかしてくれるかもしれない。
「ぐ、偶然見つけちゃって、それで……。わたしは人間だし、だから何も知らないわたしなんかに言われたくないってことは分かってるけど、でも、心配で、だって──!?」
突然目の前が“陰った”。ハルカは反射的に、「ごめんなさいっ」と声を上げ、急いで頭を庇うように抱え込んだ。
それはもう身体に染み付いた癖だった。心では相手を信じていても、身体が勝手に反応してしまう、悲しい癖だった。
(──!?)
手首に感じた他人の手の感触にハルカはびくついた。
「何もしないから。そんなに怯えないで?」
ハルカの前にしゃがんだハイコは、どこか悲しげに微笑んでいる。
「とりあえず降ろそうか?」
ハルカはハイコを見上げたまま、おとなしく腕を降ろした。
「死んじゃ、嫌だなんて……嬉しいな……。ありがとう……」
なんとハイコは泣き出した。小さく、はらはらと。碧い瞳から零れる雫は、とても綺麗で美しかった。
ぎょっとしたハルカは、「せんせ……?」と、ほとんど無意識に呟いた。
「謝るのは私の方だよ。ハルカはもう十分いろんなものを抱えているのに……余計な気苦労を負わせてしまったみたいで……ごめんね」
涙を拭いたハイコは血液パックを拾い、ラベルに表示された“A”の部分を親指でゆっくり擦りながら、申し訳なさそうに、「こんなの見つけてしまって……怖かったよね……」と言う。それはもうハルカがA型という事実を知っているとしか思えなかった。
少し怖かったが、ハルカはゆっくりと首を横に振った。言葉は出なかった。
「ハルカちゃんは気にしなくていいのに」
ふと、黙っていたチヒロがしゃべり出した。この微妙に重い空気を軽くするように、微笑って。
「本来なら“その役”は親友である俺の務めのはずなんだけど、ハルカちゃんに取られちゃったなぁ」
自分はチヒロの“役”とやらを奪ってしまったのか──と思い、焦ったハルカは、おどおどと「え、あ、ご、ごめんなさい……」と言う。
チヒロは楽しげに笑った後、「いいのいいの。結局俺じゃダメだったってことだから」と言い、「ほら──」とハイコを立ち上がらせた。




