第5話 涙編4
今部屋にいるハイコ、チヒロ、エリザベス、社長が、じっとこっちを見つめているのが分かる。
その視線にハルカが耐えられなくなってきた時、
「……いいんだ。無理に話さなくても」
時間が止まった。そんな気さえする程ハイコの声は優しかった。低く、甘く、穏やかで。ハイコはハルカの背中をそっと撫でながら、
「ただ、助けを求めて欲しかったなって思って」
ハルカの、強張っていた両手や体の緊張がだんだんと解けていく。
「ちょうどハルカが久しぶりに学校に来た日だよね。その日の放課後、二度目に会った時ハルカはこのネックレスをしていた。あの時貰ったんだよね……。ということはあの日学園に……“来ていた”んだよね。ごめんね……気付いてあげられなくて……」
ゆっくりと静かに話すハイコは、悔いているように見えた。
ハルカは布団を見つめながら、そんなことはないと首を横に振る。
「……エミリオ君に貰ったのだろう? 私に言ったら、何か酷いことをするって、脅されたのかい?」
ハルカは数秒黙り込んだ後、ついに頷いた。まるでそんなハルカを褒めるように、ハイコが微笑って、「そうかい」と頭を撫でてきた。
「辛かったねハルカ。誰にも言えずにいたんだもんね……。それなのに授業も学園祭も準備も、よくがんばってたよね。ホントに偉かったね」
「……っ」
ハルカはいつの間にか、小さく肩を震わせ、声を殺すように静かに泣いていた。
ワイシャツの袖が涙を吸う。ハイコの温かく大きな手が髪を滑る。エリザベスが膝の上に舞い降りた。チヒロが社長を抱えながらベッドの端に座った。
皆何も言わない。しかし不思議と居心地は悪くなかった。
やがてハイコがしゃべり出す。若干明る目の口調で。
「もっと大人を信じて欲しいな。傷付けるだけではない、助けてくれる人もちゃんといるから、心配しないで大丈夫だよ。もっと頼って、甘えたっていいのだよ? 15歳なんてまだまだ子供なのだから。恥ずかしがることなんて全然ないのだよ?」
15歳どころか、ハルカはまるで自分が幼児にでもなった気分になっていた。誰かの前でこんなに泣くなんて。しかも同じ日に2回も。同じメンバーの前で。
もちろん恥ずかしかった。しかし心から何かが抜けていくのが分かった。それはきっと黒くて重くてどろどろしたものだ。今までハルカの心に纏わり付いて離れなかったもの。光りを遮っていたもの。
大人に頼る、甘えるということを“知ら”なかった、“知れ”なかったハルカが、その意味を少しだけ理解できた瞬間だった。
それこそが、足りなかったもの、奪われたもの、諦めたものの答えだったのかもしれない。
目の前にいる大人──ハイコが、この世界のことをなんでも知っている、全知全能で完全無欠の魔法使いのように思えた。この人の傍にいれば、何も怖いことはなく、不安もなく、穏やかな毎日を送れる──大袈裟だがそんな気がした。
そしてその時初めて気付いた。大人とは、子供を無償で守ってくれる存在だということを。
まるで白夜だった。永遠の太陽──世界を照らす沈まない光りは、ずっと傍に在り続ける。
やがてハイコが気が抜けたようにふっと笑い、
「一人でどうにかしようと思ったのかい? まったくハルカ嬢は大人ぶっちゃって。か~わいっ」
せっかくハイコを頼れる大人として見直していたハルカだったのに、最後の一言と“その行為”とですべてが崩れ落ちた。あろうことかハイコはハルカの前髪にキスをしてきたのだ。
ハルカは咄嗟に、「いやっ」と拒絶の声を発してベッドの隅へ避難した。生粋の日本人にとっていきなり欧米風のスキンシップ──らしきものは刺激が強すぎたのだ。
ハイコは相当ショックを受けたようで、雷にでも打たれたような顔で悲劇のヒロインの如く固まっていた。
「……ハ、ハイコ先生ってなんで“こう”なの? 半分ドイツ人だから?」
びくびく動揺しつつもハルカは眉を潜め、ハイコではなく“あくまでチヒロに”訊いた。
チヒロは楽しげに、背中を丸めてくっくと笑い、「さぁ? “ハルカちゃんだから”じゃない?」と言う。ハルカはますます眉を潜めた。ますます意味が分からない。
人生という長い旅の途中で、致命的な何かを落としてきてしまったような──逆に余計なものを拾ってきてしまったような──子供のような大人、ハイコの碧い瞳を無表情に数秒見つめたハルカは、不意に大事なことを思い出し、勢いよく立ち上がった。そして呟く。
「大変……かもしれない」
「……かもしれない?」
チヒロが首を傾げる。もう笑いは引いたようだ。ハイコはなにやら一人で頬を染めていた。それに気付いたハルカは、はっとなってしゃがみ、下半身だけ布団に潜る。チヒロがふざけた口調で、「社長! 変態には正義の鉄槌だっ! くらえ! 10トン猫パーンチッ!」と言って社長の前脚ごと自分の拳をハイコの左頬にヒットさせていた。ついでエリザベスがハイコのプラチナブロンドをくちばしでつっつく。「おまえ最悪だよ地獄に堕ちろ!」というかわいいかわいい悪態付きで。
「なっ、なんで! 違うって! ちょっ、ちょっと待っ!」
一人と二匹にリンチされているハイコを無視し、ハルカは“あくまでチヒロに”訊いた。
「チヒロ先生もヴァンパイアなんでしょ? エミリオってさ──……」
そこまで言った時、急におとなしくなった皆に見つめられたので、ハルカは思わず気圧されて黙る。
「うん。俺もヴァンパイアだよ? で、エミリオって?」
チヒロに促され、ハルカはなんとか言葉を紡ぐ。
「えっ、えっと、エミリオ──っていうかヴァンパイアって、ひ、人を離れた場所からでも、こ、殺せる魔法──みたいなの使えるの? 使えるんだとしたら、ネックレスが外れたことで、エミリオが怒って、ク、クラスの、誰かを、こ、殺し……た、かも……しれない……。わたしの、せい……で、誰か……し、死んじゃった……かも、しれない……」
舞い降りた沈黙に、ハルカが出す衣擦れの音だけが響いた。ハイコとチヒロが真顔で目配せをした。ハルカがどきどきしながら二人を交互に見つめていると、チヒロが、
「遠隔殺人魔法は確かにあるけど、姿も見えない、ましてや何千キロも離れた相手を殺すなんてことはできないよ。それにエミリオはネックレスが外れたことすら気付いてないよ。何を隠そう、“俺も上級”ですから。“同じ魔法”使えちゃうから。ちょっと“細工”するくらい楽勝楽勝。攻撃系ではエミリオに勝てないけど、細工系は断然俺の方が上だし」
最後にチヒロは、「だから大丈夫だよ」と念を押してくれた。
「ハルカはそれを心配して今まで言えなかったんだね……。でも、チヒロがいろいろやってくれたからもう大丈夫だよ。それにもし万が一最悪のことが起こっても、それはハルカのせいではないよ。勝手に外した私達のせいさ。だからハルカは自分を責めないで? ねっ?」
変態に笑顔で、ねっ? と言われてもいまいち安心できない。故にハルカは確かめてみることにした。まだ10時。今どきこんな時間に眠る高校生は都会にいないはず。生きてることを確認したい。
「ハイコ先生電話貸して。後みんなの携帯番号分かる?」
「分かるけど──クラス全員にかけるのかい?」
ハルカは下を向き、難しい顔をして、「……だって……」と口ごもる。非常識なのは分かっていたが、何かせずにはいられなかった。
「分かった。手伝うよ」
ハルカはちょっとびっくりしてハイコを見た。その後ハイコはなぜか落ち着かない様子で、
「で、でも、こんな時間にハルカみたいにかわいい、お、女の子から電話がかかって来たら──その……男の子は──えっと……つまり──」
「男の子は──」
そこから先は、“しょうがないなぁ”というようにチヒロが続けた。
「もしかしてハルカちゃんって俺のこと好き!? とか“勘違い”して調子に乗っちゃうから、せめてメールで、もちろんハルカちゃんからっていうのは伏せて連絡して欲しい──ってハイコは言いたいんだよきっと」
こくこくと頷くハイコ。チヒロは続ける。
「じゃないと明日学校でハルカちゃんは“勘違い”した男子達に囲まれることになっちゃうからね。男っていうのは単純な生き物なんだよ」
チヒロが、“分かった?”というようににこりと微笑んだ。
ハルカはつい感心してしまった。そんなこと思いもしなかったから。危うく明日とんでもない目に遭うところだった。
ハイコが生徒に人気のある教師で助かった。なんとハイコはクラス全員分のメールアドレスを知っていたのだ。
送るメールの内容はチヒロが考えてくれた。チヒロは、できるだけ違和感が無い方がいい──と言い、まずハイコにパソコンのメールアドレスを変えさせた。そして新しいメールアドレスを添付したメールを、携帯電話から生徒達に送った。
パソコンの方のメールアドレスが変わった──という極普通の内容で。
返信を強要していないにもかかわらず、すぐにパソコンと携帯電話に了解したという内容のメールが届いた。最初の15分でほぼ全員から返信が来た。そして30分後それは全員に。
ハルカは胸を撫で下ろした。つまり全員無事ということだ。
その後ハルカは、非通知に設定してもらった電話機の子機でユカリの携帯電話に電話をかけた。内容を聞かれないように脱衣所で。
ここにきてハルカは、生徒しか知らない秘密の後夜祭がいったいどうなったのか気になり始めていたのだ。もう11時になる。まさかまだ探している──なんてことはないと思ったが、やはり念の為。
それに、どうなったにしろ勝手に帰ったことはやっぱり謝らないと。




