第5話 涙編3
「──だから──!」
ふと聞こえてきたのは抑揚のある声だった。くぐもってはいるが言い争いの声だ。対面キッチンカウンター横の扉の奥から聞こえてくる。ハルカはさっそくその扉に近付こうとベッドから降りようとしたが──
(……え!?)
着ていたものに仰天した。上下共下着は付いていたが、それ以外は白のワイシャツ1枚だけだったのだ。エーデル祭の黒い衣裳を着ていたはずなのに。
誰のものかも分からないワイシャツは、小柄なハルカにとってはワンピースになった。両手は完全に隠れ、肩の位置は二の腕部分にきている。
(どうしよう……)
ベッドから降りたハルカは心細くなり、そわそわしながら、言い争いの声がする扉の前をそっと静かに通り過ぎ、そのまま廊下を進んで玄関の扉に向かった。
特に逃げるという思考が働いていた訳ではないが、足が自然とそちらに向いたのだ。
暗い廊下を進み、玄関前まで来た時。
ぶに。
(……っ!?)
素足の裏の妙な感触に心臓が止まりそうになるハルカ。自分はいったい何を踏んだのかと、ハルカが足元を確認したのと同時に、
「勝手に出て行くのかよ?」
社長という名の巨大な三毛猫がハルカを見上げていた。
「べ、別に」となんでもないことを言いつつ、ハルカは社長を発見したことでこの部屋が安全な場所だと認識し、ほっとした。
不意に社長が大声で、
「おーい! 起きたぞー?」
その時勢いよく対面キッチンカウンター横の扉が開いた。
「まじで!?」
出て来たのは、癖のある黒髪に黒いスーツ(ネクタイは緩められていた)を着た若い男──牧野チヒロだった。
「ハルカちゃん。訊きたいことは山ほどあると思うけど、実は“俺達”にもあるんだ」
言いながらチヒロはどんどんこっちに近付いてくる。
「もう10時だし、お腹空いたでしょ? とりあえずごはん食べて──」
「来ないで!」
玄関ポーチまで後ずさったハルカはついに声を上げる。理由はたった一つだった。チヒロの両手は血まみれで、顔や長い前髪、スーツにも血がたくさんついていたから。……まるで今さっき人でも殺したみたいに。
何がなんだか分からなくなり気が動転したハルカは、咄嗟に踵を返して急いで玄関扉を押し開けた。「ちょっ、待っ──!」というチヒロの声も、「おいっ! おまえなんか勘違いしてるぜっ?」という社長の声も振り切って外の通路を裸足でひた走った。
西洋風のこ洒落たエレベーターホールの雰囲気を楽しむ余裕はもちろんなく、ハルカはボタンを連打した。そしてエレベーターに乗り込もうとした瞬間、“足音もなく”現れたチヒロに後ろから抱きしめられた。
「違うんだってば! ハルカちゃん俺が殺人犯とか思ってるでしょ? ほら──」
早口のチヒロがハルカに両手を見せてきた。
「洗ってきたから」
確かにチヒロの手にもう血は付いていなかった。だからといって何の証明にもならない。ハルカは、「放して!」とひたすらもがく。
「こっ、こんな格好で外出たら目立つよ? それにどうやって帰るの? ここ麻布だよ? レインボーブリッジ歩いて渡る気? 裸足で?」
そんなこと言われても麻布がどこなのかハルカには分からない。自分のマンションがある台場からどのくらい離れているのか。
「パトカーに拾ってもらうからいいっ」
「ってこらこら。そりゃもう10時だし、未成年の女の子がこんな格好でうろついてたらお巡りさん心配で寄ってくるけどさ、パトカーはタクシーじゃないぞ? いろいろきかれて面倒なことになるよ? ハイコに迷惑かけるしお父さんに連絡行くよ?」
そこでハルカはもっともだと思いぴたっと抵抗をやめる。父親に連絡がいくのだけは避けたかった。
「とりあえず落ち着こうか?」
ほっとしたようなチヒロの台詞が終わると同時に、ハルカとチヒロは先程の部屋に戻っていた。“1歩も歩かずに”。
「いやー、ごめんねっ? 普通はびっくりするよね、いきなりあんなの見たら」
ハルカに向き直ったチヒロは苦笑している。
「ハイコのやつが“なかなか飲まない”からさ、無理矢理飲ませようとしたんだよ。そしたら軽い乱闘の末零しちゃって」
チヒロは対面キッチンカウンター横の扉(また閉まっていた)を振り返り、
「ちなみにあそこは脱衣所ね。今ハイコが綺麗にしてるよ」
ハルカは警戒しながら上目遣いでチヒロを見、
「ここは、牧野先生の家?」
「残念。ここはハイコの家。俺の部屋で熱帯魚なんて飼えないよ。みんな社長が食べちゃうし」
突然表情を明るくしたチヒロは、
「てゆーか先生って呼んでくれるの!? 嬉しいなぁ」
「いちおう、“先生”だから……」
ぽつりと言うハルカに、チヒロは、「下の名前で呼んでくれたらもっと嬉しいなぁ」なんてことを言う。
「別にいいよ、チヒロ先生」
あっさりと呼んだ。担任のハイコだって苗字で呼んでいる訳ではないし、チヒロだけ苗字で呼ぶことにこだわる理由なんてなかったから。
「なーんか、あっれー? あっさりし過ぎて有り難みが無いとゆーか──」などとチヒロがぼやいている背後で扉が開き、ハイコが出てきた。カジュアルな私服に血痕は無い。肩には空色の小鳥──エリザベスが。
「あっ、ハイコ! ……“飲んだ”だろうな?」
後半は低い声音で脅すように詰め寄るチヒロ。しかしハイコはチヒロをさりげなくかわしてハルカの前に来た。ハルカはなんとなく半歩後ずさる。
「ご、ごめんねハルカ。“そんなもの”しか……無くて……その……“あの衣裳”のままじゃ寝づらいと思ったものだから……えっと……」
頬を染めたハイコが気まずそうに目を泳がせながら言っている。ハルカはワイシャツ1枚という自分の格好が今さらながら恥ずかしくなり、後方のベッドに駆け寄って飛び乗り、布団を顎まで捲くり上げた。
膝を折ってぺたんと座りながら居心地が悪そうにそわそわしていると、慌てた様子のハイコが、
「もっ、もちろん! 着替えさせたのは私でもチヒロでもないからねっ?」
「……当たり前だろ?」
チヒロが呆れたように口を挟む。
「セシリアだよ。ハルカちゃんは一度会ったことあるんだよね?」
確かにハルカはセシリアという名前の女性ヴァンパイアに会ったことがある。エミリオに噛まれた傷を治してくれた人物だ。
ハルカは頷きながら、
「女の人」
「そう。俺達は断じて何も見てない。ずっと脱衣所にいたしね。だからその辺は安心して?」
その後ハイコとチヒロは、第2化学準備室で眠りこけたハルカをこの部屋に連れて来た経緯を話してくれた。
二人はどうやら午後9時まではあの部屋でハルカが起きるのを待っていたらしい。しかしそれ以上はさすがに無理と判断し、担任であるハイコの家に連れて来たという訳だ。もちろん他の教職員達には一切内緒にして。ヴァンパイアお得意の瞬間移動──“シフト”で。
なぜ起こさなかったのかと訊いたら、ハルカがあまりにも気持ち良さそうに眠っていたから──だそうだ。それを聞いたハルカは自分が心底情けなくなった。
何をやっているんだろう。
そう虚しく自問した。
「さっきの血は……なに?」
今度はハルカが口を開く番だった。
「3週間以上も“飲んでない”無謀なハイコの為に、わざわざセシリアが持ってきてくれたんだよ。あとはさっきも言った通り。思いっきり零しちゃってさ」
チヒロはハイコを疑いの目で見ながら詰め寄り、
「おまえホントに飲んだのか? “ひと月飲まなかったら死ぬ”ってこと、まさか忘れた訳じゃないだろ?」
「──もういいではないかその話しは」
チヒロからふいっと顔を逸らし、明らかに“逃げた”風のハイコは、
「それよりハルカ、訊きたいことがあるのだ」
ハルカは若干怯えながら上目遣いで慎重に、「なに?」と訊く。その時のハイコの表情は真面目で、どこか怒っているように見えたから。ハイコの癇に障るようなことを気付かない内にしてしまったのかと思い、緊張した。
「これ──」
ハイコがそう言って翳した物に、ハルカは一気に全身がぞわりとした。
「誰に貰ったんだい?」
“それ”は、ハルカがエミリオから貰った首輪という名のネックレスだった。
ハルカは急いで自分の首周りを触ってみた。
無い。どうがんばっても、道具を使っても外せなかったあのネックレスが無い。
ベッドサイドに膝をつくハイコ。そして黙り込むハルカを覗きながら、
「“普通の”ネックレスではないよね?」
その声は控え目で穏やかだった。ハルカを責めている風でもなければ問い質している風でもなく、力になりたい、誰かに話せば楽になるかもしれない──という、労りの思いが詰まっているようだった。
ハルカの心の中にはざわざわと悪い予感が充満していた。
エミリオに居場所を教える為の発信機であるネックレスが外れた。ということは掛かっていた“魔法”も消えてしまったのだろうか。
その魔法を消せるのがヴァンパイアだけだとしたら。“消えた”ということをエミリオが察知していたら。
エミリオは、ハルカが他のヴァンパイアにすべてを話して助けを求めた──と勘違いしてしまったかもしれない。
そうだとしたら、勝手なことをした腹いせに、ハルカのクラスの誰かを殺すかもしれない。いや、もしかしたらネックレスが外れた瞬間に誰かが死ぬよう、“タイマーのような魔法”が掛かっていたのかもしれない。
(どうしよう……!)
酷く怖くなり軽いパニックに襲われたハルカは、両手で耳を塞ぐように髪をぎゅっと握った。




