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My Fair Vampire  作者: 九重ゆえる
第5話 『はじまりの……』涙編
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第5話 涙編2

 ハルカはエリザベスを、おにぎりを握るように両手で包み込むと、すっと立ち上がった。

「これでも忙しいので失礼します。それから父親代わりなんていりません。“もう15”ですから」

 他人行儀っぽく事務的に言い、ヘッドドレスを拾って第2化学準備室を出ようと歩き出したハルカだったが──テーブルを踏み台に社長が飛び掛かってきた。

「コラ、社長!」

 叱咤する牧野チヒロ。ハルカは思わずエリザベスを持つ手を高く上げた。エリザベスは怯えた声を上げながら飛んでいった。

 ハルカの方は社長の覆いかぶさるような体当たりをまともにくらってしまい、耐えられず床に崩れる。その時背中を棚の側面に思い切りぶつけてしまい、上からペンやらプリントやらが大量に降ってきた。ペンの中には極太の油性黒マジックもあり、偶然にもその蓋が衝撃で開いてしまい、落下ざまにハルカの白い手に跡を残した。

 右手の甲の、中指の付け根から手首にかけてまっすぐ延びる黒い線を、ハルカは座り込んだままぼんやりと見つめた。そしてその目はだんだんと恐怖を帯び、見開かれていく。心臓は激しく脈打ち、呼吸は乱れ始め、肩で息をしだした。

「──ハルカちゃん?」

 ハルカの異変に最初に気付いたのは牧野チヒロだった。

「なんでもない」と言って立ち上がろうとしたハルカだが、膝が勝手に震えてうまく立てない。その上吐き気までする。

「大丈夫?」

 近くに屈んだ牧野チヒロがマジックを拾った。その姿が母親と重なってしまった為、ハルカは恐怖に泣きだしてしまった。昔母親にマジックで全身に“死ね”と書かれた時のことが鮮明に思い出されていた。

 ハイコやエリザベスの心配そうな声が聞こえる。しかしハルカは壊れた録音機みたいにひたすら「ごめんなさい」を繰り返し、耳を塞いで背中を丸め、震えながら泣き続けた。

 許して。もう悪いことはしないから。良い子になるから。嫌わないで。怒らないで。ぶたないで。許して。お願い。お母さ──

(……っ!)

 突然のことにびくっと思考を停止させるハルカ。牧野チヒロが縮こまるハルカを包み込むようにぎゅっと抱きしめていた。

「大丈夫、大丈夫だよハルカちゃん」

 牧野チヒロは言い聞かせるように、

「落ち着いて考えてごらん? ハルカちゃんは“もう15歳”だ。ここは東京。“あの人”は長野だ。もう終わったことだよ。二度とあんな怖いことは起こらないよ。だから安心して。ゆっくり息してみようか?」

 ハルカは牧野チヒロの腕の中でスーツのボタンを涙で濡れた半眼で見つめながら、ほとんど無意識に従った。たくさん吸ってたくさん吐いた。息と一緒に不安も恐怖も全部出ていけばいいのに──と思いながら。

「そーう、良い子だ。じゃあもう1回。……吸ってー──」

 ゆっくり息を吸う。牧野チヒロの声はハイコ程甘くないにしても、とても優しかった。染み入るように心に響く。

 ふとハルカは、もしこんな兄が昔から家いたら──と夢想した。“母親のこと”を助けてくれただろうか。相澤家を救ってくれただろうか……。

「吐いてー」

 声に合わせてゆっくり息を吐く。気休めなのは分かっていたが、応急処置としては効果があった。涙は止まっていた。呼吸も脈拍も正常へ戻っていた。安らぎと共に襲ってきたのは眠気だった。昨晩もハルカは晩くまで勉強していたのでほとんど寝ていなかったのだ。

 “泣き疲れて眠る”なんて子供じみたことしたくない。心はそう言ってるのに身体は言うことをきいてくれない。

 完璧な空調設備にコーヒーの柔らかな香り。人前で泣いてしまい緊張と警戒が緩んだ心。大人に守られているという安心感。

 牧野チヒロがハルカの頭を一撫でした時、ハルカの瞼は勝手に下りた。そしてその居心地の良さに、まるで“泣き疲れた子供”のように眠ってしまった。






「……いつまでそうしているんだい?」

 いくらやましい気持ちが無くたって、10分近くも大人の男が無防備な少女を抱きしめていては、さすがのハイコも何か一言言いたくなった。

「だってハルカちゃんて予想以上にかわいいんだもん。“もう15”とか言ってたけど、まだまだ子供じゃん」

 小声で言いながら腕の中の少女──ハルカをさらに抱きしめる友人──チヒロに、ハイコはいても立ってもいられなくなり、おもちゃを取られた子供のようにチヒロの腕を引っ張って、

「いい加減離れるのだチヒロ」

 チヒロは立てた人差し指を口の前に持って来て、

「しーっ! 分かったってば起きちゃうだろ」

 ハルカを大事そうに抱えたチヒロは、そのままソファーにそっと寝かせた。なんだか機嫌が良さそうだった。

「ねぇチヒロ。どうしてハルカは泣いてたの?」

 そうきいたのはテーブルに舞い降りた空色の小鳥──エリザベスだ。ちなみに社長は“お仕置き”としてさっきチヒロが部屋から追い出した。

「マジックだよ」

「マジック?」

 舌足らずの幼い声がきき返す。

「黒の油性マジック。ハルカちゃんは昔母親に、マジックで全身に“死ね”と書かれたらしいんだ。さっきはそのことを思い出して、悲しくて──苦しくて──泣いちゃったんだよ」

 伏し目がちに語るチヒロは、ハルカの右手の黒い線を見つめていた。そしてエリザベスを振り返り、

「エリザベス。ハルカちゃんが起きたら、いつも通り接してあげようね? 心配されるのは好きじゃないだろうから」

 エリザベスはこくりと頷いて、

「うん。分かった!」

「ハイコもだぞ? ハルカちゃんは“知られた”ってだけでかなりのストレスを感じてるはずだから。“気にかけ過ぎず気にかける”んだ。難しいかもしれないけど、失敗したら自殺するかもしれないぞ?」

 自殺──。その言葉に、ハイコは氷を大量に飲み込んだくらい全身がひやりとした。そして事態の逼迫さを実感する。

「可能性の話しだけど、ありえないとは言い切れない。ハルカちゃんは誰かに頼ったりしないで、なんでもかんでも内に溜め込む傾向があるから。誰にも何も言わないし助けも求めないタイプだよ。……以前こういうタイプのクライアントが、ある日突然自殺したことがある。笑顔も見せるようなって、カウンセリングも必要なくなった矢先のことだったよ。俺は今まで何をやってきたのか分からなくなった。自分のやってることの無意味さを思い知った。でもさ、いろいろ考えて、やっぱり続けることにしたんだ。こんな俺にありがとうって言って微笑ってくれた人もいるんだ。だから──」

 言いながらチヒロはハルカの前髪を撫でた。

「俺はハルカちゃんを助けるよ。ハイコだってそう思ってるだろ? 助けたいって」

 チヒロがこっちを見る。その目は真面目だ。

「好きなんだろ? ハルカちゃんのこと。一人の女として」

「なっ、何を突然……」

 頬を染めたハイコは口ごもる。“女”という言葉が妙になまめかしかった。

「おいおいしらばっくれるなって。何年一緒にいると思ってんだよ? なんかハイコいつもと微妙に違ってたしさ。ピンときちゃったよ」

「い、いや、ハルカは大事な生徒の一人で──まだ15歳だし──それに──って何してんのチヒロ!?」

 チヒロはハルカに覆いかぶさるようにソファーに手と膝をついていた。そしてだんだんと腕を折っていく。今にも唇と唇が重なりそうな距離になったところで。

「──うわぁっ! やめてやめて!」

 ハイコは急いで引きはがした。

「あれー? 好きじゃないならなんで止めるのかにゃー?」

 意地悪っぽい言い方だ。

 ハイコは平静を取り繕って、

「ちゃ、茶化さないでくれ給え。だいたいハルカを助けるとか言っておきながらこんな──」

「おい、ハイコ!」

 鋭いチヒロの声に遮られる。

「なっ、なんだい?」

 警戒しながら訊き返す。

「このネックレス。ハルカちゃんはいつからしてる?」

 チヒロはハルカの首にかかるネックレスの、土星をモチーフにしたと思われるヘッド部分を摘んで訊いてくる。

「えっ? えっと──……確か2週間とちょっと前くらいかな。でもどうして?」

「これ……ただのネックレスじゃなくね? “何かが掛かってる”ような──」

「え?」

 眉をひそめるハイコ。そして次の言葉に目を丸くする。

「あのガキの──エミリオの気配がするんだけど?」







 ……どこだここは。

 そこはベッドの上だった。

 むくりと半身を起こしたハルカは寝ぼけ眼で辺りをキョロキョロ見回した。

 淡いブルーのカーテンにグレーの布団。2~3人用のソファーに木製テーブル、テレビ、パソコン──。対面キッチンカウンターの向こうには電子レンジや冷蔵庫が見える。“一つの部屋”におよそすべてのものがあった。

 完全にハルカの部屋ではない。

 長方形でかなり広めのワンルームだった。

 掃除はよくしているようでほどよく綺麗だ。インテリアは派手ではないが個性的だった。なぜか中世ヨーロッパ風の甲冑が置いてあったり、お金を入れて取っ手をひねると球状のガムが出てくるいかにも業務用なプラスチック容器があったり。

 一般的なもので目を引くのは、1メートル以上はある大きな水槽だ。中では色とりどりの小さな熱帯魚達が泳ぎ回っていた。暗い部屋で青く光るそれは幻想的で美しかった。

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