第5話 涙編1
第2化学準備室に、いわゆる化学の実験器具や薬品、あるいは生物のホルマリン浸けなど、“いかにも”なものは無かった。それらはすべて“第1”化学準備室にあるのだ。“第2”は教員達の休憩所となっている。ソファーもあればデスクトップパソコンや薄型液晶テレビ、コーヒーメーカーに2ドア冷蔵庫まである。
「ハルカ、何か飲むかい? あっ、なんならアイス買って来ようか? 何味が好きなのかな?」
「……」
とりあえずソファーの隅に座ったハルカは、下を向いて膝の上でエリザベスを撫でた。
「ハルカちゃんその格好かわいいね。俺も学園祭見たかったなぁ」
「……」
ハルカはそっぽを向いたまま、猫耳付きヘッドドレスをむしるように剥ぎ取った。
「ハルカどうしたの?」
「なんでもない」
エリザベスにだけは言葉を返すハルカ。エリザベスは特別だったから。ハルカの中で。
「ハルカちゃん? 俺達に訊きたいことたくさんあるよね? 今なら出血大サービス! なんでも答えちゃうよ?」
牧野チヒロは向かいのソファーでゴッドファーザーの如く、社長という名の巨大な三毛猫を膝の上に乗せて撫でていた。……指輪とマフラーはさすがにしていなかったが。
訊きたいことは確かにたくさんあった。ハイコに“どこまで”話したのか。それは父親の意思なのか。しゃべる動物を飼っているということは──牧野チヒロも“アレ”なのか。
しかしハルカは、今ぼんやりと浮かんだことを訊いた。
「膝、痺れない?」
牧野チヒロの頬が若干引き攣る。社長の目がぎろりとこっちを見た。ハイコが咳ばらいをした。エリザベスがハルカの手の中でくすりと笑った。
「社長~、やっぱダイエットしよう? なっ? おまえホントはハルカちゃんみたいにかわいくて若い女の子に抱かれたいっ──とか思ってんだろ? だったらとりあえずさっき踏み付けたこととっとと謝っちゃえよ?」
社長は、ハルカの手首よりも太そうなしっぽをゆらゆら揺らし、こっちを見てやっと一言。
「ご、ごめん」
またふいっと牧野チヒロの方を向いてしまった。
社長に謝られてもハルカの機嫌が直る訳がなかった。そんなこと始めから怒ってないのだから。そもそもハルカは怒っている訳ではない。ただ、“秘密”を知られたショックで口をききたくないだけだった。ふて腐れているともいう。思春期にありがちな安っぽい感情だった。
「ハルカちゃんが訊かないなら俺から話すよ?」
牧野チヒロはひょいと社長を床に降ろすと、真面目に話し出した。社長はのしのしと数歩歩いて、牧野チヒロとハルカの間にあるテーブルの下で丸まった。
「まず、ハルカちゃんが誰にも知られたくないと思っていた、“小1から中2まで続いた事件”のことなんだけど、さっきここにいる──」
そう言いながら牧野チヒロが窓際のデスクトップパソコンの前に座るハイコを視線で示した。
「ハルカちゃんの担任の朝倉先生──ハイコに、すべて話したよ。“何が起こったか”、できるだけ具体的にね」
ハルカの肩がぴくりと震えた。
「ハルカちゃんにとっては、何このカウンセラー勝手なことしてるの?──とか思っちゃうだろうけど、これはすべてハルカちゃんのお父さんが言ったことなんだ。俺はお父さんに雇われてる訳で、つまりお父さんには逆らえない立場にある。担任の先生にだけは事情を話して、理解してもらいたい──というのがお父さんの意見だよ。なかなか日本に帰れない自分に代わって、俺とハイコがハルカちゃんの父親代わり──のようなものをやって欲しいと、お父さんは遠回しにそう言っていた。いくらハイセキュリティーマンションだからって、15歳の女の子が一人暮しすることを、お父さんは心底心配していたよ? ハルカはもともと少食だから、ちゃんと食べているか──とか、昔のことを思い出して夜一人で泣いていないか──とか。これらのことは大丈夫? 急に不安になったり、突然涙が出てきたりしない? ちなみに今日の朝は何を食べたかな?」
ハルカは下を向き、頑なに黙り込んだ。それだけが“武器”だとでも言うように。
「……分かった。お父さんには朝からステーキを2枚食べた──とでも報告しようかな」
ファイルを広げた牧野チヒロは、そこにボールペンで何かを書き込んだ。
冗談に付き合う気はまったくなかったが、この牧野チヒロというカウンセラーは今までと何かが違うとハルカは思った。
今までのカウンセラーは父親を絶対としていた。あからさまな嘘の報告をする人なんていなかった。皆ハルカに媚びを売り、無理にでもあれこれ訊き出した。その裏にはお金があった。カウンセリング料とは別に、父親がカウンセラーにお金を渡していたことをハルカは知っている。
いくら貰ったの?──訊こうとした瞬間だった。
「貰ってないからね。俺は」
思わずハルカは顔を上げた。牧野チヒロは真顔だ。その黒い双眸は射抜くように鋭い。
「個人でやってるし、家政も若干頼まれてるから値段は高いけど、“余計な分”は貰ってないよ。これは信じて欲しいな。“今までの”と一緒にしてもらっちゃあ困るなぁ。──ねぇ社長?」
牧野チヒロはテーブルの下の社長をずるずると引きずってまた膝の上に乗せた。社長は、「にゃ~ん」と“猫みたいな”声を発した。
「あと二つ、ハルカちゃんが興味を持ちそうな話しをしようかな。一つは──もう気付いてると思うけど、しゃべる猫関係のこと。もう一つは──ハルカちゃんのお母さんのこと。どっちからききたい?」
ハルカは迷わず後者を選んだ。
「お母さんのこと」
牧野チヒロは少し残念そうに、
「やっぱりね。今さら猫がしゃべってもそんなに驚かないか」
いや、十二分に驚いた。そんなことを思ったがハルカは黙って牧野チヒロを見つめた。早く聞きたい。
「実はね、俺昨日お母さんに会って来たんだ」
エリザベスの背を撫でるハルカの白く細い繊細な指がぴくっと震えた。
「長野の病院まで行って来た。もちろん個室にも入って話しもしてきた。あんまり美人だからびっくりしちゃったよ。ハルカちゃんはお母さん似なんだね。……それにしても“うまく合わせるの”大変だったなぁ」
疑問符をぶつけるようにハルカは眉を潜めた。
「これを聞いたら、ハルカちゃんはきっと傷付くことになる。それでも聞きたい?」
ハルカは一瞬迷った。傷付くのは怖い。真っ暗闇の海に堕ちるのはもう嫌だ。しかし見舞いに行けないハルカが母親の情報を得る数少ないチャンスでもあった。
ハルカは下を向いたまま小さく頷いた。「偉いね」そんな言葉が聞こえた。
「ハルカちゃんのお母さんは、ハルカちゃんを愛してるよ」
それのどこが“傷付くこと”なのだろう。ハルカは訝る。しかし次の言葉で息を飲む。
「“ハルカという名の日本人形”をね」
ぎしっと、キャスター付きの椅子が軋む音がした。ハイコだ。
「お母さんは毎日“ハルカちゃん”に話し掛けてるそうだよ。“ハルカは綺麗ね。まるでお人形さんみたいね。頭もいいし、さすがは私の娘ね”って。髪をとかしたり、服を──」
「チヒロ、もう……」
控え目に制止をかけたのはそれまで黙っていたハイコだ。理由はきっと、両耳を両手で覆うハルカを見たからだろう。
「大丈夫……。続けて」
ハルカはゆっくりと手を降ろして膝の上のエリザベスを包んだ。
牧野チヒロは一旦息を吐いた後にしゃべり出した。
「俺は、“なかなか学校に来ないハルカちゃん”の担任ってことになってるよ。お母さんの中では。だから話しを合わせるのに苦労したよ。即興にしては上手くいったと思うけど、真実を教えた方が良かった? 病院側からは止められてるけど」
ハルカは首を横に振った。“言わないでいい”と伝わるように。母親が“ハルカ”を愛してるならそれでいいと思った。記憶の中の“ハルカ”を愛してるなら、それで……。それでいい。それで……──イヤ、チガウ。ホントウハ……。
「お母さんは──」
ハルカはぽつりと呟いた。
「微笑ってた?」
「うん。微笑ってた。とても幸せそうだったよ」
それを聞いたハルカは心の底から安堵した。少なくとも母親は“叩かなくてはならない心理状態”に陥ってはいないのだ。不安も孤独も恐怖も感じていない。それはハルカが望んでいたことでもあった。
「でも俺はずるいと思うな」
牧野チヒロのそんな言葉にハルカはびくりとする。母親の悪口を言う人間は、誰であろうと“敵”になるから。
「傷付いたハルカちゃんは未だに苦しんでいるのに、傷付けた本人はとっとと忘れて幸せそうに生きてるなんてさ。理不尽にも程があると思わない?」
ハルカはそっぽを向きながら、
「思わない。悪いのはわたしだから」
「お母さんが決めた小学校や中学校に受からなかったから?」
一瞬待って……ハルカはこくりと頷く。
「ハルカちゃんは真面目過ぎると思うな。全部自分で抱え込もうとしてる。俺が思うに、ハルカちゃんが酷い目に遭った原因は、お父さんとお母さんの確執にあると思うよ? ハルカちゃんはとばっちりを受けたに過ぎないんだよ。だからあんまり自分を責めないで、もっと気楽にいこう? とりあえず“にこっ”て微笑ってごらん? 気持ちが軽くなるよ?」
牧野チヒロはハイコを見て悪戯っぽく、
「ハイコだって見たいんじゃないの? 天使の微笑み」
いきなり振られたからか、ハイコは慌てたようになって、
「もっ、も、もちろん! 見たいともさっ」




