第5話 恋編8
「大丈夫……」
ぽかんとしたまま答えるハルカ。
「なになにどしたの?」
その時第2化学準備室の扉が開いた。そこから出て来たのは、高級そうな黒のスーツを着た20代後半くらいの男だった。
癖のある黒い髪に涼しい顔立ちをした、一見して女性受けしそうな優しい雰囲気の男だった。毛が長くて人懐っこそうな黒い犬にどこと無く似ていた。
「また社長がなんかやらかしちゃった?」
「しゃ……ちょう……?」
ハルカは立ち上がりながらぼんやりときく。
「この猫くんの名前さ」
ハイコが答えてくれた。あの三毛猫を軽そうに持ち上げて。その時ハルカは改めて自分の非力さを思い知った。
「変な名前だろう?」
「変じゃねぇ!! 降ろせホモッ!!」
三毛猫はハイコの腕の中でじたばたもがいている。明らかにしゃべって。その声音は典型的な昭和のガキ大将だ。
「なっ!? チヒロ~。いつになったら社長は勘違いに気付いてくれるんだい?」
泣きそうなハイコ。その様子から、スーツの男とハイコが知り合い以上の関係であることをハルカは悟った。
「いや~、俺に言われても困っちゃうな」
男は半笑いだ。ちっとも困ったようには見えない。
「さーわーるーなっ! 気色悪いんだよこのホモッ! 地獄に堕ちろ!」
狂ってる。しゃべってる。猫が──。
またもやハルカはへたり込んだ。小鳥やハコフグがしゃべるのを見てきたハルカだが、やはりまだ慣れなかった。動物がしゃべることについて。
「悪態なんかついたらハルカに嫌われ──ってハルカ!? 大丈夫かい!?」
「平気……」
よろりと立ち上がり天井を見上げる。そして、「おいでエリザベス」と優しく呼ぶ。エリザベスは数回ぴょんぴょんと向きを変えてもじもじした後、「うわーんハルカァ」と言いながら、すーっとハルカの手の中に降りて来た。ハルカは三毛猫から守るように大事に大事にエリザベスを両手で包んだ。エリザベスが、“猫は大嫌い”と言っていたのがこの時よく分かった。
「驚いたな……。“あのエリザベス”が人間に懐くなんて」
そうぼやいたのはスーツの男だ。男はハルカに向き直って言う。
「こんにちはハルカちゃん。俺の“使い魔”が失礼しました。お父さんから名前きいてるよね? 俺の名前は牧野チヒロ。思い出したかな?」
男は不快感の無い笑顔を見せた。目は細くて微笑うと線になった。
(まきの……ちひろ……)
ハルカはおとといの夜父親と電話で話したことを思い出していた。
牧野チヒロ──つまり父親が寄越したハルカの新しい心理カウンセラーだ。
◆第5話『恋編』◆
◆END◆




