第5話 恋編7
鬼ごっこは残り80分。ハルカはエリザベスの助けを借りて特別教室がある校舎の方に移動してきた。しかしすぐに失敗だったと悟る。人の気配が多過ぎる。
「やっぱり外に出ようか」
ハルカが迷っていると、
「全然見つかんねーじゃん」「目撃情報も無いってどーゆーこと?」「実は生徒会が匿ってたりして」「えぇー?」という雑談が西階段の下の方から聞こえてきた。ハルカは反射的に西階段を上るのをやめ、そのまま3階の廊下に出た。そして小走りに進む。しかしすぐにぴたと立ち止まる。西階段と東階段に挟まれた中央階段に差し掛かったところだった。また数人の雑談が聞こえたのだ。
もし最初の雑談の主達が3階に来て、さらに中央階段からも参加者達が来たら完全に挟まれてしまう。そうなる前に東階段まで走り切ってしまおうか。それとも来ないことを信じてここにとどまっていようか。どうしよう。
しかしハルカが迷って左右をキョロキョロしてる間に、雑談は大きくなっていた。そして、「3階チェックいってみよーう」という決定打。ハルカは慌てて近くの特別教室の扉に手をかけた──が開かない。パソコン室も化学室も鍵がかかっていた。
「ハルカ、ここなら開いてるぞ!」
エリザベスがトイレの前で羽ばたいていた。トイレに隠れるのは反則に近いが、この際気にしてられなかった。絶対に捕まりたくなかったから。
女子トイレの高級そうな木製扉を開けようとしたが、「ねぇねぇ、相澤さん見つけたらどうやって捕まえる?」「やっぱ多少荒っぽくなっちゃってもいいよね? だって生徒会メンバーの誰か一人を一人占めできる券なんて、この先一生手に入らないよ?」「だよねー。会長さんかっこいいしぃ」「えー!? 普通副会長でしょ!?」という話し声にハルカは瞬時に飛びのいた。……いる。女子の参加者がいる。
そうこうしてる間に廊下の雑談が近付いてきた。
「ハルカ! こっちは?」
エリザベスが小声で示したのは……どこからどう見ても男子トイレ。
ハルカは小声で素早く抗議した。
「やだよ!」
しかし他に隠れる場所が無い。ハルカは不本意ながらもそーっと男子トイレの扉に耳を近付けた。……静かだ。恐らく誰もいない。綺麗に磨かれた金色のノブを恐る恐る下げる。そして引く。……誰もいない。
ほっとしたのも束の間、流しを挟んで向こう側──女子トイレの扉が開いた。「早く早くっ」ハルカはエリザベスに急かされるまま、人生で初めて男子トイレという未知の空間に足を踏み入れた。
どれくらい経ったろうか。5分──いや10分。
ハルカは男子トイレの個室内で立ったままじっと耐えていた。女の自分が“こんなところ”にいるという事実に。
廊下の方が静かになったのでそっと個室から出てみた。男子トイレは意外にも綺麗で広かった。女子トイレと同じく、雑談用に高価そうなソファーやテーブルが備え付けられていた。さすが、入学金が半端じゃない都会の私立──といった具合だ。
ふとハルカは、高級ホテルのスイートにあるような洗面台の鏡に映る、自分自身と目が合った。
(……どうしたの?)
なんとなく、理由もなく、そうききたくなった。そしてふと悲しくなった。鏡の向こうのハルカも悲しい目をしていた。
何かが足りない。自分には何かが足りてない。だから、そんな不満そうな顔をする。
いつからだろう。生まれた時には確かにあったはずの、何かを奪われてしまったのは。いつからだろう。それを取り戻すことを諦めてしまったのは……。
「……ハルカ?」
エリザベスが肩にとまり、気遣わしげな声をかけてきた。洗面台に身を乗り出して鏡に手を触れていたハルカは、その手でエリザベスの背を撫でた。
「なんでもないよ。もう出よう」
扉を押して外に出た瞬間だった。
(う、わ……)
ある意味男子トイレに入っていたことを一番知られたくない人物だった。思い切り目が合ってしまった。“碧い瞳”と。
なぜエリザベスは扉の向こうにいる自分のマスターを感じ取れなかったのだろう。探そうと意識しないと分からないものなのだろうか。
ハルカがそんなことを考えていたら、ハイコが口を開いた。
「ハ、ハルカ!? エリザベス!? い、いったいどうし──」
相手がしゃべっているのも構わず、ハルカは頬を微妙に染めて脱兎の如く逃げ出した。
「ちょ、ちょっと待ち給え!」
ほんの5メートル走ったところで急に腕を掴まれ、ハルカの視界はがくんと揺れた。あまりに強く掴まれたので、さすがにちょっと怒ったハルカは腕を引っ張りながら、「痛いっ」と抗議する。
「あっ、ごっ、ごめん!」
すぐに放すだろうと思っていたら、なぜかハイコはまだ放さない。ただ掴む位置を腕から手首に移動させただけだ。直接肌が触れ合い、ハイコの温度を感じた。ハイコの手は温かくて乾いていた。
「ハルカを探していたのだよ。お客様がお見えでね。さっきまで応接室にいたのだけれど、校舎を見たいというから今そこの第2化学準備室にいるのだよ。というか……」
そこでハイコは気まずそうに目を泳がせ、
「放送で呼び出す前にちょっとトイレに行こうと思ったら……なんでハルカが“こっちから”出てくるんだい?」
さっぱり分からないというようにハイコは眉間に皺を寄せていた。
「あのね今お──」
「なんでもないからっ」
慌ててエリザベスを手の平で覆うハルカ。“鬼ごっこ”のことが教師にばれたら大変だ。危ない危ない。
「まさか、な、中で誰かと……!? リュ、リュウトとか……。ふ、ふたふた、ふたりで……──」
頬を染めてもごもごと意味不明なことを言うハイコに、ハルカはきょとんとする。
「リュウト?」
なぜリュウトの名前がここで出てくるのか。まったくもって分からない。
「誰もいないよ?」
「……本当に?」
疑いの眼差しを向けられたハルカはむすっとしてぶっきらぼうに言う。
「じゃあ見てくれば?」
「お、怒らないでくれハルカ。私は別に疑ってるとかそういうのではなく──」
「じゃあ何? 言ってる意味が分かんないんだけど。その前にお客さん待たせてるんでしょ? いいの?」
「あっ、そうだったね。行こう」
ハルカの手を引いて廊下をぎくしゃく歩き出すハイコに、
「あのさハイコ先生──」
「な、なんだい?」
「こんなところで迷子にならないから」
言いながらハルカは手を引っ張る。“放してくれ”と。
「そっ、そうだね」
やっと放してくれたハイコにハルカは素朴な疑問をぶつけてみた。
「あのさハイコ先生──」
「な、なにかな?」
「結局トイレは大丈夫なの?」
ハイコは、「あっ」と小さな声を漏らすと、恥ずかしそうに男子トイレへ入って行った。
ハルカはさっさと、客がいるという第2化学準備室へ向かった。今日のハイコは一段とおかしい──と思いながら。
扉を開ける前にエリザベスに小声で、「エリザベス? せめて後1時間半、ハイコ先生に鬼ごっこのこと言っちゃダメだよ?」と念を押した。エリザベスはハルカと秘密が共有できて嬉しいのか、「わかった! 言わないよ!」と言ってハルカの小指を甘噛みした。そしてふと何かに気付いたように、「──ん? なんであいつがあんなあんなところにいるんだよ!? もしかしてこの扉の向こうにいるお客さんて──?」
その時一瞬微かにエリザベスの瞳の奥が小さく光った。
「やっぱりだ! チヒロがいるよ!」
「……チヒロ?」
きょとんと首を傾げた瞬間だった。
「な~ん」
それは低めの鳴き声だった。甘えているようにも聞こえた。ハルカの足元にはいつの間にか“そういう柄のクッション”みたいに大きな大きな三毛猫がいた。革製の赤い首輪がめり込んでいるように見える。
巨大な三毛猫は物欲しそうな目でハルカを──というよりは肩に乗るエリザベスを見上げていた。
「なっ、なんだよ! “猫みたいな声”出して。やっ、やるのか?」
威勢は良いものの、エリザベスはどこかびびっているように見えた。そのエリザベスがハルカの肩から離れた瞬間だった。狙っていたのか、三毛猫が“ハルカの膝や腹を踏み台にして”エリザベスに飛び掛かった。
「きゃ」
三毛猫のあまりの体重に耐え切れず、へたり込むハルカ。そんなハルカの額を最後の踏み台にした三毛猫は一瞬宙に浮いた──がしかし、エリザベスに前脚が掠ることすらなくすぐに落ちた。着地時は小さな地震が起きたかと思うくらいだ。
「ハルカ!? 大丈夫かい!?」
完全に仰向けに倒れるハルカに近付く足音と声。むくりと起き上がると、ハイコが三毛猫を押さえ込んでいるところだった。エリザベスは遥か天井の柱の縁にちょこんととまっていた。




