第4話 10
数え切れない程あったが、ハルカは反射的に首を横に振っていた。
「そうですか。ではまた……」
音もなく、エミリオは消えた。残ったのは床の治療用具とそれが入っていた茶色い紙袋、それから赤い表紙のノートだけだった。
ハルカはしゃがんで、治療用具を紙袋に入れ始めた。消毒液のプラスチックボトルに書かれていた文字は、日本語でも英語でもなかった。ハルカはその文字に見覚えがあった。ドイツ語だ。エミリオは主にドイツで生活しているのだろうか。この間、“あの人”をドイツに連れて行こうとしていた。ヴァンパイアにとってドイツは何か特別な国なのだろうか。ヴァンパイアといったら普通ルーマニアではないのか。いや、伝説や言い伝えは嘘だとエミリオは言っていた。
ヴァンパイアのことがもっと知りたい。
物事に対する興味や関心が希薄なハルカだが、今確かに好奇心らしきものが湧いていた。
◆
……なぜ来ない。
間宮リュウトは、学園内一般共用カフェ“ツチノコ”で、一人貧乏揺すりをしていた。
ツチノコ特製秋季限定モンブランパフェはとっくに食べ終わり、コーラを2杯おかわりしていた。
告白する相手が来ない。絶対来ると思っていたのに。
「まさかっ!」
突然の叫びに、ほぼ満員の店内の視線が間宮リュウトに集まる。
そんなのお構いなしに間宮リュウトは急いで千円札を財布から2枚引き出し、テーブルに叩き付けるように置くと、ダッシュでカフェを後にした。
相澤ハルカは手紙を読んでいない。読まなかったのではなく“読めなかった”。なぜなら邪な心を持った誰かが相澤ハルカの下駄箱に入っていた大量の手紙を捨てたから。自分の手紙を目立たせる為に。
そんな推理をした間宮リュウトは、こうなったら直接相澤ハルカ本人を見つけて告白してやる──と意気込んだ。
(まだ帰ってませんように!)
間宮リュウトは祈りながらセントラルエリアの石畳を走り、とりあえず近くの大聖堂と時計台をチェックしてから高等部エリアを捜すことにした。
◆
シフトはそんなに便利なものではない。今のエミリオでは一度に1500キロメートル程が限界だし、実際に目で見た場所にしか行けない。
ロシア連邦、西部の田舎町。雑木林の上空約3000メートルで目を閉じたエミリオは、ドイツへ帰る為の次のシフト地点、モスクワの景色を頭に思い浮かべている最中だった。
そして目を開けてシフトしようとした瞬間。
「あっ」
忘れてた。ハルカに言うのを忘れていた。同じクラスにいる、間宮リュウトという男子には気をつけろということを。手紙は燃やしたがしつこい奴は結局どこまで行っても果てしなくしつこい。
しかしエミリオはハルカを信じ、大丈夫だと思ってモスクワへシフトした。少し──いやかなりバカなハルカだが、そんなに簡単に騙されない気もする。月並みの甘い言葉に酔ってしまうような、低俗で愚かな雰囲気はなかったから。
エミリオはハルカの黒い瞳に、深く孤独な気配を感じ取っていた。世界と自己とを隔てる見えない壁を作り、その内側で冷静に他者を観察する術を持っていそうな。
だからハルカは、あんなに冷めた目をしているのかもしれない。それに、まったくと言っていい程彼女は笑わなかった。
◆
眩暈がした。
目の前がテレビの砂嵐のようにチカチカして、視界が半分以上見えなくなった。
時計台の、大蛇のような螺旋階段を降りたハルカは、しばし手の平で両目を押さえ、砂嵐が去るのをじっと待っていた。
「相澤さん!」
すると誰かに呼ばれた。
「良かったぁ。まだ帰ってなくて!」
息を切らしながら近寄って来た声の主は、ハルカのクラスメイトの男子だった。名前は知らないが、ハルカはこの男子の顔を微かに覚えていた。確か今日、日本史の授業前、宿題を忘れて大騒ぎしていた人物だ。
その人物は制服を崩して着ていた。ワイシャツの裾はダークグレーのスラックスから全部出ていたし、ボタンは全開だし、中にオレンジのTシャツを着ていたし。もちろん指定の紺色リボンは付けていなかった。
髪は茶色くて毛先はつんつんと尖っていた。身体が動く度にふわふわと揺れている。
見かけで判断するのは良くないが、見かけから伝わる情報もある。この男子生徒から静謐な空気は感じられない。快活でフランクそうな男子だった。
そういう雰囲気の人と会話が弾まないことは明白だったし、係わり合いになりたくなかったので、ハルカはとりあえず人形のように黙っていた。それに男子とは親しくならないことを決めたばかりだし、嫌われてもいいと思っていたので。
「なになに? もしかして気持ち悪いの? 大丈夫!? 保健室連れてってあげようか? 相澤さんってもしかして病弱? だから何日も休んでたの?」
その言い方は軽い感じではなく、本当にハルカを心配しているようだった。
「まだ具合悪いんじゃないの? 俺としては学校来てくれた方が嬉しいけど、無理しちゃダメだよ? なんなら家まで送ってあげようか? 相澤さん家ってお台場方面でしょ? モモ達にきいたよ。俺もなんだ。てゆーかその前に左手どうしたの? 化学ん時には何もなくなかった? それに時計台に上ってたの? 何か用事? あっ! なんかよく見たら腕とかも傷だらけじゃん! どうしたの? ダメだよほったらかしにしちゃあ。女の子なんだから。ちゃんと消毒しに行かなきゃ──ん? でも左手は包帯してるし、消毒はしたの? まぁいいや。絆創膏貼りに行こう?」
怒濤の如く次から次へと繰り出される質問攻撃に、ハルカはぐるぐると別の眩暈に見舞われていた。
何から答えようか、いっそ全部無視してみようか──と考えていたら、
「ほらおいでって。俺これでも将来外科医志望ですから。保健室誰もいなかったら俺が手当てしてあげるっ」
にこっと微笑ったその顔に、不純なものは混ざっていないように見えた。
不意に手首を掴まれたハルカははっと我に返って、
「あのっ、大丈夫だから」
手首を少し引っ張ると、相手はすぐに放してくれた。そしてばつが悪そうに、
「あ、あのさ、いちおうきくけど、俺の手紙読んだ? 俺、間宮リュウトっていうんだけど──。相澤さんの下駄箱に入れておいたんだ」
この男子生徒は間宮リュウトというらしい。リュウトは、「やっぱり誰かが捨てちゃったのかなぁ……」と頭をかいてぼやいていた。
手紙……。下駄箱……。
まさか。
単純な連想であの少年の顔が浮かんだ。
「ごめん」
ハルカは癖で謝ってから、
「たぶん捨てた──っていうか燃やしたんだと思う」
エミリオが。あの魔法みたいな青白い炎で。
「えっ? たぶん? てゆーか誰が? もしかして相澤さん彼氏いんの!?」
最後の質問だけリュウトは必死そうだった。
「……別に。いないよ。いたこともないし」
「良かったぁー」
胸に手を当てて安堵したように息を吐いたリュウトは、急に驚いたように、
「えっ? 誰とも付き合ったことないの?」
「うん」
「超意外! ということはっ! 俺ってばすっげぇ発見!」
きらきらと瞳を輝かせたリュウトは、拳を作って陽の傾いてきた空を見上げた。
「ここで俺が相澤さんと付き合うことになれば、つまり俺は相澤さんの彼氏第1号になれる訳じゃん!? それって超ラッキーじゃん! 俺、相澤さんが俺のこと好きじゃないとか全っ然気にしないからっ。むしろ好きにさせていく過程すら楽しんじゃうタイプだから! だから俺と付き合おう!──ってああっ!」
失敗を悔やむように額をぱちっと押さえたリュウトは、急に消沈したように、
「なんか用意してた台詞全部吹っ飛んだし……。あー……何やってんだ俺。勢いで言っちゃったよ」
ハルカの頭の中は冷静だった。
これはいわゆる告白というやつだろうか。ナンパをされたことはあったがちゃんとした告白はされたことがなかったので、ハルカはなんとなく、物珍しくリュウトのことを見ていた。
「なっ、なんつーの? えっと、一目惚れ? みたいな?」
リュウトは照れたようにしゃべり出した。
「謎が多そうで、不思議そうな感じに惹かれたんだよね。深いオーラが出てるっていうか。それにすっげぇかわいいじゃん。相澤さんってモデルかアイドルのたまご? モモやユカリもかわいいけど、相澤さんの方が断然かわいいよ! まだ性格はよく分かんないけどさ、クールなんだけど実は優しそうみたいな? マジ最高なんですけど! ほんと好きです相澤さん。俺と付き合ってください! 絶対毎日を楽しくします! お願いします!」
リュウトは顔の前で両手を合わせた。
明るい声で邪気は感じられなかったし、嘘を言ってはいないこともなんとなく分かった。リュウトの熱意は嫌という程ハルカに伝わって来た。
自分のことをまっすぐに好いてくれるのは不快ではないが、強すぎる気持ちはかえって苦痛になる。
親しくしないと決めたのに彼氏なんて言語道断だ。
もちろん断るつもりのハルカだったが、どう言えばいいのか分からず悩んだ。
こういうことを無下にする訳にはいかない。相手を傷付けないように、邪険にすることなく、真摯に対応しなくてはならない。
「……ごめんなさい」
ハルカは静かに謝った。結局これしか思い浮かばなかった。
小さく頭を下げたハルカはゆっくり歩き出した。しかしすぐに、「待って!」と声をかけられてしまう。
やはり簡単には諦めてくれないのか。




