第4話 9
「そう言ってくれて嬉しいです。あんなのは気持ち悪くて気色悪くて最高に不潔なだけです。その上血の味ランクがスリーは落ちる、最悪なおまけ付きです。ハルカがAランクに落ちたら、その瞬間僕は一滴残らず吸い尽くします。もう取っておく価値は失くなりますから。死にたくなかったらセックスは絶対にしないこと。いいですね? これはやってはいけない項目の一番重要なところです。ノートにもそれだけ赤ペンで書いておきましたから」
ハルカはノートを見てみた。ぱらぱらとめくって、すぐに見つけた。本当に赤ペンで書かれていた。他の字より大きく。
「うん。分かった。そんなのやらない」
ハルカは本気で思っていた。そんなのはやらない。
自分の命が惜しいからではなく、そんなものにはじめから興味は無かったし、なによりエミリオに怒られるのが嫌だったから。きっとエミリオのことだ。ハルカを殺す前にたくさん叩いたり蹴ったりするだろう。そんなのは嫌だ。
「物分かりが良い人は好きです。さすが家のペットです」
包帯を巻き始めたエミリオの機嫌は良さそうだった。
「でも気をつけてください。男子高生の頭の中なんていかがわしいことでいっぱいなんですから。この学園は女子が少ないみたいですし、ハルカはかわいいし、油断してたら酷い目に遭いますよ? 自分の魅力を自覚して、思わせ振りな行動は謹んでください」
自分のことをかわいいなどと思ったことはないが、ハルカは今までいろんな人にそう言われて来た。母親に、誰がそんなにかわいい顔に生んであげたと思ってるの! と怒鳴られたこともある。そして今エミリオにまで言われた。
ハルカは自惚れないように、調子に乗らないように、自分の心を強く持った。そして、「分かった。気をつける」と真面目に冷静に答えた。
「まぁ、でも、ハルカに手を出そうとするしつこい奴は僕が殺してあげますから、遠慮なく言ってください。襲われてからじゃ遅いんですよ? ペットは飼い主に守られるものなんですから」
「そっ、それは困る」
「なにが?」
エミリオが包帯を巻く手を止め、ハルカを見た。
「だって、人を殺すのはダメだよ」
「それは“人”の法律でしょう? ヴァンパイアにそんな法律はありません。だから“僕が”殺してあげるって言ってるんです。犯罪者になるの嫌でしょう?」
エミリオは再び包帯を巻き始めた。
「それでもダメ」
尚も言うハルカに、
「大丈夫です。自殺ってことにして、ちゃんと遺書も書かせますから。ハルカが警察に疑われるようなことにならないように、上手くやります」
ハルカは困り果てて黙ってしまった。またもや会話がいまいち噛み合っていないような。
ヴァンパイアだろうが人間だろうが、自分の不利益になるからといって人の命を奪うのは、結局周りが見えていない幼稚で傲慢な自己中だと思う。今すぐそういう性格は直した方がいい──ということを伝えたら、エミリオは怒ってハルカを叩くだろうか?
そんなことを考えていたら。
「きゃっ」
突然エミリオに押し倒された。乱暴に。
まだ何も言ってないのに。エミリオは怒ったのだろうか?
しかしどうやらそれは杞憂だった。エミリオはハルカを叩こうとしないし、「例えば──」という口調も穏やかだった。
「こんな風に乱暴に押さえ付けられたとします」
エミリオが馬乗りになってきた。そしてハルカの両手をハルカの頭の上で一つにした。
「ハルカがどんなに暴れても、ハルカの力では逃げられません。どんなに叫んでも、ここは──そうですね、何十年も放置された孤島の廃墟なので意味がありません。敵は5人。ナイフを持っています。ハルカは1人。何も持っていません。さぁ、どうします?」
エミリオの表情は真剣そのものだった。子供に大事なことを教える時の大人みたいに。
息が掛かるくらいの距離にエミリオの顔がある。エミリオの肌は髪に負けないくらい白く、きめ細やかだった。近くで見る赤眼は、怖いというよりは神秘的で、その奥の方に純粋な何かが眠っているように見えた。
「うーん……自分じゃどうにもならないから──」
考えながら言ってみた。こんな状態なのに、ハルカは落ち着いていた。エミリオに殺されないことは分かっていたからだろうか。
「嵐が来て、雷が5人に当たるのを待つ。みんなナイフを持ってるから、上手くすればわたしには当たらないかもしれない。もしかしたら、5人のうち一番強い人が、やっぱりこんな酷いことはやめようって言い出すかもしれないから、それを待つ。それから──廃墟なら床が抜けるかもしれないから、それを──ひだいっ!」
台詞の途中で片頬を抓られた。
「バカバカバカバカバーカ」
一方的に罵られる。びっくりしたハルカは口を半開きのまま固まる。
「待つ待つって……その間にやられるに決まってるでしょう」
頭痛でもしたのか、エミリオはハルカの手を放し、額を押さえて小さく首を振っていた。
「それになんですか、その奇跡みたいな呑気な発想は。ハルカって楽観主義者だったんですか? それにもしかして天然? というか──男の怖さを分かってない? 今までこういうことされなかったんですか?」
自由になった手で抓られた頬を押さえながら、ハルカはゆっくり答えた。
「女子校、だったから……かな……? それに男子と遊ぶと──……」
そこで言葉を切ったハルカは、伏し目がちに、「なんでもない」と言う。
男子と遊ぶとお母さんに怒られたから。
小学生の頃、公園で、いつものように男女10人くらいで鬼ごっこをした日。帰って玄関の扉を開けた途端、母親は荷物みたいにハルカをバスルームまで引きずった。
成績悪いくせに何男なんかと遊んでんのよ! 男はすぐ裏切るの! お父さんを見れば分かるでしょう! 誕生日もお正月もクリスマスも、帰って来ないじゃない! だからハルカも男なんかと遊んじゃダメなのよ!? 分かった!?
ヒステリックに騒ぎ立て、母親はハルカを服のまま湯の張られた浴槽に突っ込んだ。男に触られた服は汚いからもう捨てましょ、と言い、綺麗にしなきゃとうわごとのように呟いて、母親はハルカの身体をタワシで血が出るまで何度も擦った。その夜は仰向けになっても俯せになっても横向きになっても痛くて眠れず、結局朝まで起きていた。
ハルカが母親との淀んだ暗い日々を思い出していたら、
「男子と遊ぶと──何?」
きかれて内心どきっとしたハルカだったが、エミリオが、「まぁいいや」とすぐに諦めてくれたのでほっとした。
「日本は平和でいいですね。ハルカみたいな子が治安の悪い国のスラムを歩いたら、3歩目を踏むことなく裏路地の地面に──ってこの話しは置いといて。とにかく、男の欲望を甘く見ないでください。最初は優しく近寄って来て、だんだん馴れ馴れしくなって、最後には強引な手に出る──だいたいそうです。なので、馴れ馴れしくなって来た奴がいたらすぐに僕に教えてください。いいですか? この首輪は──」
エミリオが土星のようなネックレスヘッドに触れた。
「ハルカの居場所は僕に分かっても、どんな状態かまでは分からないんですから、手遅れになる前に知らせてください。これは飼い主としての命令です。返事は?」
「は、はい」
鋭い眼光に、思わず二つ返事で頷いてしまったが、ハルカは自分のせいで人が殺されるのだけは承知できなかった。ハルカは男子と親しくなり過ぎないように気をつけて、地味にこっそり学園生活を送ることにした。はじめからそのつもりというのもあったが。
「オッケー、ハルカ。長い間失礼しました」
エミリオがハルカの上から退いた。そして手を差し出してくれた。その手に掴まって立ち上がったハルカは、ふとここに来る前にも手を差し出されたことを思い出した。無視したことも。
“あの人”に謝らないと。ありがとうを言わないと。
その前に手当てをしてくれたエミリオにもありがとうを言わないと。……原因もエミリオだけど。
「あ、ありがとう。手当てしてくれて」
少し引っ掛かったが、目を見てちゃんと言えた。
「……慣れてるから」
赤眼が一瞬曇った。なんだろうとハルカが瞬きしたら、額をぱちんと弾かれた。黒い前髪が跳ねる。
「ん~……」
小さい音のわりにかなり痛くて、ハルカは両手で額を押さえながら目を閉じて唸った。
“あの人”に、自分が同じことをしたことも思い出した。あの時“あの人”は冗談っぽくしていたが、本当は両手で押さえたい程痛かったのかもしれない。あの時“あの人”の両手は塞がっていた。
「傷を作った本人にありがとうって……」
ため息混じりの脱力感漂う呆れ声だった。
「やっぱりバカですハルカは。それに油断し過ぎです。3回は見えましたよ……。数えてる僕もなんだかなぁって感じですが。その制服作った人は変態ですね。短すぎです。私服はもっと長いのをはくように」
ハルカはとっさに制服のスカートを押さえたが、後の祭りだった。……見られていたのか。しかし過ぎたことは仕方ない。
エミリオの言う通り、ハルカはいろいろと油断し過ぎなのかもしれない。もっとしっかりしなければいけない。もう高校生なのだから。
「じゃあ僕はもう行きます。この傷が──」
エミリオがハルカの左手を触る。
「治る頃にまた来ます。今度はハルカを家に連れて行きます。もちろん外国ですが、シフトで行くのでパスポートは用意しないで大丈夫です。ハルカの血をたくさん飲ませたいヴァンパイアがいるんです。だから献血なんてしたら殴りますよ? それ──」
床にある赤い表紙のノートを指差した。
「読んでおいてください。暗記する勢いでお願いします。残った治療用具はあげます。何か質問は?」




