第4話 8
エミリオもハルカの隣でビンの中の様子を見つめていた。その顔は真面目で、何か反応が起こるのを待っているようだった。それがどんなものかはハルカには分からない。
「……まだ?」
思い切ってきいてみた。
「もう少し……」
エミリオはビンから目を離さない。
やっていることはクレイジーでも、一つのビンを見つめて何かを待つ少年少女は、夏休みの自由研究をしている小学生のようだった。
エミリオはどんな風に育ったのだろう。どこに住んでいるのだろう。学校は行ってないのだろうか?
ハルカがエミリオに興味を持ち始めた時、ちらりとエミリオが赤眼をこっちに向けた。
「心配しなくても大丈夫です。消毒液も包帯も、ちゃんと買ってありますから。僕が手当てしてあげます。だってハルカは、今日からペルツァロッタ家のペットになるんですから」
「え……」
ハルカは目を丸くして固まった。そして頓狂な声を上げる。
「えぇっ!?」
ペッ、ペット!? びっくりしたハルカが左手をビンの上から離してしまうと、「あぁっ! 垂れてるんですけど!」と、エミリオはらしくない動揺の声を出し、「もったいないからやめてください」とハルカの左手を掴んだ。その下にビンを持ってくる。
「……ごめん」
つい癖で謝ってから、ハルカは出来るだけ落ち着いてきいてみた。
「あの、ペットって……?」
「ペットとは、日本語で“愛玩動物”のことです」
「そうじゃなくて」
「それともドメスティック・アニマルって呼ばれる方がいい? 僕はペットの方がいいと思ってそう言ったんだけど?」
ドメスティック・アニマルとはつまり“家畜”のことだ。確かに“ペット”の方がましだがそういう問題ではない。
「違くて……」
なんだか話しが噛み合ってない。
二の句が継げないでいるハルカから不意に視線をビンへ落としたエミリオは、「やっぱりハルカはトリプルSだ……」と夢見るように呟いた。
「トリプル……S?」
前にも聞いた気がする。
「味のランクです。G、F、E、D、C、B、A、S、ダブルS、トリプルSの全10段階になってるんです。8割りの人間がC~Gのまずいのばっか。トリプルSなんてヴァンパイア史上3人目ですよ? すごいよハルカ。ほら見て──」
エミリオはビンをハルカの目線の高さまで持ち上げて、
「白く光ってるでしょう?」
本当に光っていた。ハルカの血がたくさん混ざったにもかかわらず、液体は無色透明のままで、まるでおとめ座のα星──スピカのように力強く白く輝いていた。
ハルカはエミリオの赤眼を見てこくと頷いた。今のエミリオは怖くなかった。普通の、同学年の友達みたいに思えていた。まったくもっておかしな話しだが。
「無色透明で白く光るのはトリプルSだけなんです。他のは──Gランクにいくにつれ、ヘドロみたいな色でどんより不気味に光るんです」
「へぇー……」
ハルカが不気味な光りというのを想像していると、エミリオはビンの蓋を閉めてトートバッグの中に戻し、そこから何か取り出した。
「はい。首輪です。やっぱりペットといえばこれでしょう。わざわざ僕が選んで買って来てあげたんですから、大事に扱ってください?」
ハルカに差し出されたものはどう見ても首輪ではない。普通の、アクセサリーショップに売ってそうなネックレスだった。繊細な銀色チェーンにぶら下がっている小さなヘッドは、よく見ると太陽系の惑星──土星の形をしていた。球体部分は青色透明で、深い宇宙を思わせた。輪の部分はシルバーだった。
「え、え? な……」
動揺を隠しきれないでいるハルカにエミリオが、
「犬や猫に付けるような革の首輪がいいんですか? 現実的に目立つでしょう。人間にはこれがいいと思うんですけど?」
もういっぱいいっぱいなハルカは、とりあえずぽかんとした。
上手く飲み込めない。なぜハルカがエミリオのペットなんかにならなくてはいけないのだろう。
エミリオがネックレスのフックを外した。そしてハルカの首に付けようとする。
反射的に、座ったままずるずる逃げようとしたら、
「……っ」
胸倉を掴まれた。
エミリオは冷徹に、
「生態系の頂点であるヴァンパイア様に逆らわないでください。逆らえばハルカのせいで人が死にますよ? いいんですか?」
一気に湧いてきた恐怖に身を強張らせるハルカ。しかしすっとエミリオの手が離れた。
「そんなに構える必要はありません。僕はこれでも忙しいので、基本ハルカは放し飼いです。自由ですから。ただこの首輪にちょっとした魔法をかけさせてもらうだけです。人間的に言うと──発信機ですね」
「発信機?」
「そうです。ヴァンパイアは人間の検索ができないので、代わりに魔法をかけるんです。ペットの居場所を把握するのは飼い主の義務ですから」
言いながらエミリオはあっという間にハルカにネックレスを付けた(わざわざ髪を外に出してくれた)。そして土星のようなネックレスヘッドに触れ、呪文のようなものを唱え始めた。
「リル・ハモノークス・アナチハ・レ・イオハ」
目が眩む程だった。ネックレスが青白く光り始めた。生暖かい風がハルカとエミリオの髪や服を揺らした。幻想的な光景だった。
「……これでオッケー」
エミリオがネックレスヘッドを放した。光りも風もおさまった。
ハルカは何がなんだか、ただ目を丸くするだけ。
「あと、これ読んでおいてください」
手の平サイズの、赤い表紙のノートがハルカに差し出された。
「右手でも読めるでしょう? その間に僕は左手を消毒します──とその前に、もったいないのでちょっと舐めてから」
エミリオがハルカの左手の傷を舐め始めた。痛みと不快に顔を歪めたハルカはすばやく手を引っ込めた。するとすかさずエミリオの平手が頬に飛んできた。この前程ではなかったが、やっぱり痛い。
今日のエミリオは優しいのか怖いのか分からな過ぎる。
混乱していたが、ハルカは第ニ波を恐れ、ただ黙って大人しく、叩かれた左頬をそっと摩った。ふとハルカは床に置かれた赤い表紙のノートが気になり、片手で開いて読もうとしたが──
「痛っ!」
左手に飛び上がる程の激痛が走った。反射的に引っ込めると、
「いちいちリアクションしないでくださいっ」
エミリオの言い方は、怒っているというよりは呆れているようだった。まるで漫才の突っ込み役の人がやるみたいにハルカの頭をぱしんと叩いた。
「消毒液なんだから染みるに決まってるじゃないですか」
エミリオは何食わぬ顔でハルカの左手を取り、消毒を続けた。
ハルカはまたもや混乱した。果たしてエミリオはハルカの敵なのだろうか? 敵だったらなぜ手当てなんかしてくれるのか? ペットだから? 血が美味しいから? ……分からない。
第一印象は悪魔のような人(人間ではないが)だったけど、エミリオは本当は優しい心の持ち主なのだろうか。……すぐ手が出るけれど。
エミリオがプラスチックの消毒液ボトルを床に置き、今度はハサミでガーゼを切り始めた。本格的な手当てをしてくれるみたいだった。
切り傷の痛みにも、誰かに手当てをされるのも、両方に慣れていないハルカは、だんだん居心地が悪くなってきていた。そこでハルカは赤い表紙のノートに右手を伸ばした。最初のページを指で上手く開き、さっそく読み始めようとしたら、
「そこには、血の味を落とさない為にした方がいいことや、してはいけないことが書いてあります。僕がいちいち書いたんですよ? ちょーめんどくさかったです」
“ちょー”のところだけうんざりするようにエミリオは言った。
「そうなんだ。ありがと」
……ん?
なぜ自分はお礼なんて言っているのだろう。ハルカは自分の順応力の高さにびっくりした。そしてあることに気付き大きな声を出す。
「あっ」
「今度はなんです?」
「……なんでもない」
意気消沈してぼそっと言うハルカ。
どうして本当にありがとうを言わなくてはならない人達に言えなくて、こんな時にさらっと言えてしまうのだろう。
自分の不器用さを、ハルカは心底嫌悪した。
「そうですか」
小さくため息をついたエミリオは、さして気にした風もなく作業を続けた。
ハルカは沈んだ心でノートに書いてある文を読んだ。手紙と同じような、きらきら光るダークブルーで書かれた日本語は、やっぱり綺麗だった(どこで習ったのだろう)。
・甘いものを多めにとること。
・適度な運動をすること(激しすぎるのはNG)。
・すっぱすぎるものや苦すぎるものは食べないこと。
・太陽の光りに当たりすぎないこと。
・笑いすぎないこと。
・楽しいことを考えすぎないこと。
まだまだたくさん書いてあった。一つ一つ理由をききたかったが、次のエミリオの台詞にそれは吹っ飛んだ。
「ハルカ、セックスってやってみたいと思います?」
ガーゼをハルカの傷の上に置きながら、エミリオは淡々と、明日の天気の話しでもするかのように言った。
具体的に何をするかなど、経験もないし興味もないし考えたこともなかったハルカにはまったく分からなかったが、その単語を聞いてしまったこと自体が恥ずかしくて、エミリオから目を逸らした。そして軽蔑するように一言。
「嫌」




