第4話 6
ずっと眠っていたハルカが目覚めてくれて本当に嬉しかった。ハルカの為に何かしたかった。ハルカの笑顔が見たかった。それなのに、あんな言葉を言われてしまっては、為す術が失くなってしまった。
どうすれば彼女の笑顔が見れるのだろう。
例えば、倉田モモという個性的な女子生徒の場合なら、ハイコが眼鏡を掛けるだけで笑顔になる。
例えば、間宮リュウトというやんちゃな男子生徒の場合なら、プライベートな愚痴を放課後遅くまで親身になって聞いてやると、ありがとうと言って微笑ってくれる。
相澤ハルカは……どうすれば笑顔を見せてくれるのだろう。
真剣に考えたハイコはあることを思い出した。
……あ、つい……。やめ……て。……ごめ……なさい……。
ハルカの寝言。エミリオに何かされている夢にしては“ごめんなさい”は少しおかしい。たかが夢だしこれは考え過ぎかもしれないが──ハルカは誰かに熱を使った暴力を振るわれたことがあるのかもしれない。いじめか? 虐待か? 分からない。ハルカが過去通っていた学校──小・中・高すべてから資料を取り寄せてすでに全部に目を通していたが、そんな事実は記されていなかった。
しかし揉み消される可能性の高いネタなので資料は宛にならない。だからといって本人にきくなんて残酷なことはしたくない。知ったところでハイコに何が出来るのだろうか。きっとハルカは今さら慰めなんて望んでいないだろう。
仮にいじめや虐待が事実だったとして、では今のハルカが望んでいることとはなんだろうか。それが分かれば、ハルカを笑顔にしてあげられるかもしれない。
◆
ハルカは時計台を目指して進んでいた。やたら広い高等部エリアを。
ヨーロッパ風の石畳を歩いていたと思ったら、いつの間にか薔薇の垣根に囲まれた芝生の上にいた。しかもさっきから同じところを何度も何度も回っている気がする。
(ここって……)
もしや。まさか。
ハルカの疑いは確信へ変わろうとしていた。
迷路だ。
最悪だ。
なにゆえ学校に迷路なんかがあるのだろう。しかしハルカにとってはそれよりも重要な問題があった。
あまり認めたくないが、方向音痴だった。
……どうしよう。
小さいハルカは、残念ながらジャンプをしても迷路の先を窺うことは出来なかった。
途方に暮れたハルカは意を決して垣根を掻き分け始めた。壁といっても所詮は植物。密度の薄い部分なら何とか向こう側へ通り抜けられそうだった。邪道だろうがなんだろうがハルカは迷路に参加した覚えはないので、問題ないと思った。
出来るだけ薔薇を傷付けないようにして四つん這いに通り抜けたハルカは、時計台の方向を確認しながら幾つもの垣根を通り抜けていった。時々薔薇の刺が剥き出しの肌を引っ掻いたが、無理矢理気にしないようにして進んだ。もしかしたらハルカが1秒遅れたせいで、クラスの誰かが死んでしまうかもしれないから……。
悪戦苦闘しながら一際分厚い垣根を通り抜けた時だった。顔を上げたハルカが見たのは、三角錐の白い屋根がかわいい、4本の円柱に囲まれた小さな休憩所のような場所だった。そこのベンチに長い足を組んで座っていたのは──ハルカの担任、ハイコだった。なぜこんなところにいるのか。
まだ腰から向こうは垣根の中なハルカだったが、四つん這いのままきょとんと首を傾げてハイコを見上げた。
「ハッ、ハルカ!?」
ハイコはハルカを発見するなり碧い目を見開いて近寄って来た。
「どっ、どうしたんだいこんなところで!?」
ハルカの目の前にしゃがんだハイコは心底動揺しているようだった。
エミリオからの手紙に時計台に来いって書いてあって実際に行こうとしたら知らない間に迷路にいて方向音痴だからずるして垣根を通ってる真っ最中なんです──なんてこと言える訳ないので、ハルカは平静を装って、「……別に」と言い、ハイコが差し出してくれた手を無視して立ち上がった。
「まっ、まさか誰かに追い掛けられたとかじゃないよね……?」
「……」
その言葉にカチンときたハルカは黙って歩き去ろうとする。
誰かに追い掛けられた──。つまりハルカがいじめにでも遭っているのではとハイコは瞬時に思った訳だ。
そんなに自分はいじめられっ子っぽい顔をしているのだろうか。
自尊心が傷付いてしまったハルカはもうハイコなんかと会話したくなくなってしまった。……こんな調子では一生ありがとうなんて言えないかもしれない。……どうしよう。
「待って待って!」
案の定、ハイコはハルカの肩を掴んで引き止めてきた。何か言われる前にハルカは急いで言った。
「今一人冒険の真っ最中なんです。邪魔しないで」
こんな冗談を真顔で言う自分自身にハルカは少し驚いていた。つまらなくて面白みのかけらもない自分なんかに、ユーモアらしきものがあったなんて。
「あっはは! そうかそうか冒険かぁ。冒険はいいよねぇ。うんうん」
一人で納得したように頷くハイコに白けた雰囲気はなかった。表情も明るくフレンドリーだった。
「若者は常に冒険心を持ってないといけないよねぇ。アリスも常に冒険心を持っていたからこそ、あんなにワンダーな夢が見られたのだからね。おぉ! アリスといえば、今のハルカは本当にアリスかと思ったよ。ハートの女王の庭に迷い込んでしまったかわいいかわいい小さな黒髪のアリス──。いや、かわいいかわいい迷子の子猫ちゃんにも見えたかなっ? この麗しき薔薇園で逢えたのも何かの運命……。もしかして私という優艶で雅量溢れる稀有な存在に惹かれて導かれてしまったのかなっ?」
なんというか、ハイコは一人芝居をしているようだった。大袈裟な挙動に劇的な表情。すべて嘘っぽいが、こっちを馬鹿にしている感じはなかった。そして無駄なくらいに甘く魅力のある声だった。昨日の去り際の声が嘘のようだ。
相変わらず顔は整っていたしプラチナブロンドは艶やかだったし──。きっとハイコを好きだと言う女の人はたくさんいるのだろう。しかしハルカの心が動くことはなかった。特別な感情らしきものはまったく湧かない。
「──案ずることはない! 今日この良き日の逢瀬のことは誰にも言わずにおきましょう。二人だけの秘密さ……」
いつまでこの寸劇が続くのか。どう反応したらいいか分からなかったハルカは、とりあえず淡々と冷静に言った。
「アリスでも猫でもないし。てゆーかかわいくなんてない。……でも、なにもかも夢オチになるんだったら、アリスもいいかもね……」
今見ているものすべてが夢だというのなら、今すぐ覚めて欲しい。小学校の入学試験を受けるひと月前くらいに目が覚めるのなら、もっといい。今までの記憶も思い出も何もいらないから、どうか今すぐ覚めて欲しい。今度こそ、きっと上手くやるから……。
「待って……! そんな悲しいこと言ってはダメだ……」
立ち去ろうとしたらまたしても呼び止められた。早く時計台に行かなくてはならないのに。痺れを切らしたエミリオは、何をするか分からないのに。
しかしハルカは立ち止まって振り返った。さっきまでの甘さはどこへやら、ハイコの声は自信なさげで、どこか掠れていたから。二重人格なのではないかと疑いたくなる程に。
「ハルカ……傷だらけだよ……」
ハイコの表情は痛ましげだった。
茨道を通って来たから傷だらけなのは分かっていた。しかしハイコの言い方は、まるで“心”の方を言っているようだった。なぜそう感じたのかは分からない。なんとなくだった。
ハイコはハルカの髪や制服に付いた薔薇の花びらと葉っぱを取りながら、
「冒険は一時中断だ。今すぐ保健室に行って消毒しよう。連れて行ってあげるから」
勝手にハルカの手首を引っ張っていくハイコ。
「ちょ、まっ、待って!」
そんなことをしている場合ではない。焦ったハルカは少し強めに、突き放すように言ってみた。
「触らないでっ!」
その瞬間、ハイコは火傷でもしたみたいに、ハルカの手首をぱっと放した。
「ご、ごめん……」
傷付いたような表情で俯いたハイコは、ハルカの手首を掴んでいた自分の手の平を見下ろしていた。そこには小さな赤い染みがいくつかあった。ハルカの血だ。それに気付いたハルカはハイコに掴まれていた自分の手首を見てみた。薔薇の刺で出来た引っ掻き傷からは鮮血がじわじわと溢れている最中だった。もう一度ハイコの手を見た。ハイコは拳を作っていた。その手は小刻みに震えていた。
ハルカは視線を上げてハイコの顔を見てみた。碧い目と一瞬目が合った──がしかしすぐに逸らされた。
なんだか気まずい空気だった。
ハルカが怒らせてしまったのだろうか? “触らないで”という言葉はハイコを怒らせるには十分過ぎる言葉だったのだろうか?
「──ごめんなさいっ」
怒っている人の傍にいるのは耐えられなかった。怒鳴られる前に、叩かれる前に、ハルカは駆け出した。逃げるように。
怖かった。優しそうなハイコだが、怒った時暴力を振るわない保証なんてどこにもないから。それにここは密室も同然だ。余計怖い。
ハルカは逃げながら思った。
いつか、目の前の恐怖から逃げないでいられるような、強い自分になれるのだろうか。
過去の傷なんかに負けず、立ち向かって行けるような、勇気ある強い自分になれるだろうか……。
ハルカは謝罪の言葉を残すと、まるで逃げるように去って行ってしまった。酷く怯えているようにも見えた。
取り残されたハイコは握り締めていた右手をゆっくりと開いた。そこにはまだしっかりとハルカの血が付いていた。
こんなに美味しい血は初めてです。“Sランク以上”は確実です……。
Sランク……。
あの時のエミリオの言葉に一瞬でも心が揺れてしまい、今まで一度も飲んだことがないSランクの血を、飲んでみたいと思ってしまっていたハイコは、こんな自分見て欲しくなくて、居心地が悪くなって、故にさっきは思わずハルカからあからさまに目を逸らしてしまった。




