第4話 5
すっきり片付いたハルカの下駄箱に、エミリオは何食わぬ顔で自分の手紙を入れた。
ハルカにちょっかいを出されるのは困る。
人間は淫乱だ。もしもハルカが汚されてしまったら、せっかくの“味”が落ちてしまう。それだけはなんとしても避けたい。
奇跡的に見つけた、トリプルSかもしれない人間なのだから。もし違っても、“上手く育てれば”本物になるかもしれない。
貴重な人間、相澤ハルカ。
たとえハルカがトリプルSランクの人間でなくとも、エミリオは生かしておくことを決めた。ここで切るにはもったい人間だったから。
用も済んだし、シフトして帰ろうとしたエミリオだったが、あることに気付き暗い廊下を歩き始めた。下駄箱にあったということは机の中にもあるかもしれない。
探して、全部燃やしてやる。
ハルカに手を出す奴は……皆殺しだ。
◆
ハイコの担当教科は化学だった。外国語だと勝手に思っていたハルカは、……なんというか、意外さに驚いた。
簡単な、液体窒素を使った実験のレポートを早々に書き終えたハルカは、専用容器の中の液体窒素から発生する白い煙りの向こうに見える担任を観察した(暇潰しに)。
ハイコは人間そのものだった。ヴァンパイアなら牙がありそうだがそれもない。太陽の下も普通に歩いている。クラスの集合写真にもしっかりと写っていた。この分だとニンニクや聖水、はたまた十字架さえも平気そうだった(試してみようとは思わないけど)。
今日は銀縁で楕円形のシンプルな眼鏡を掛けていた。化学の教師らしく白衣も着ていた。プラチナブロンドの髪はハルカが初めて見た時と同じように、今日も赤いリボンで纏められていた。本人に言うと失礼だろうけど、ハルカはそれが──なんというか、マッドサイエンティストに見えて仕方なかった。いつも暗い実験室で怪しい実験を繰り返し、一人でにやにやしているような変人。
そんな変人にハルカは今日、タイミングを見計らってお礼を言うつもりだった。助けてくれてありがとう。心配してくれてありがとうと。
昨日冷たい態度を取ったけど、本当は嬉しかった。しかし優しさに慣れていないハルカは、どんな風に言ったらいいか分からなかった。結局また冷たい態度を取ってしまうかもしれない。
なんだかんだ言ってもう8限目だった。あと10分程で放課後だ。
……どうしよう。やっぱり放課後言うしかない。ではなんて言って話し掛けよう……?
ハルカが悩んでいる最中、クラスのみんなはまだレポートを書いているようだった。化学室はしんとしている。ハイコは、黒板の前の大きな教師用の机の上に出ている実験器具を静かに片付けていた。
暇を持て余したハルカは、今朝自分の下駄箱に入っていた1枚の手紙をバッグから取り出した。高級そうな白い封筒に差出人の名前は書いてなかった。たぶん中に書いてあるんだろうと思ったハルカは、丁寧に少しずつ開けてみた。
不思議な、きらきら光るダークブルーで書かれた文字は、色も字体もとても綺麗だった。
Dear Ms.Haruka
これを見た日の放課後、大聖堂横の時計台に一人で来て下さい。一番上で待っています。
面倒事は嫌いなので、ヴァンパイアにこの事を言ったらHarukaのクラスの誰かを殺します。
From. Emilio
(…………え)
部活動の勧誘か何かの手紙だと何となく思っていたハルカは、予想外の内容に固まってしまった。
周りの時間が止まってしまったようになった。真っ白で、何も聞こえない。
差出人の名前はアルファベットで書かれており、本文と違ってかなり崩れていたが、何度見ても“エミリオ”と読めた。
エミリオ……。ハルカの血を吸った、白髪赤眼の少年ヴァンパイア。
ハルカの心臓は激しく胸を打ち、呼吸は小さく乱れ始めた。
嫌なことを思い出してしまった。
左隣のモモや斜め向かい側のユカリに気付かれないように、ハルカは深呼吸をしてなんとか自分を落ち着けた。そして便せんを畳み、封筒に入れてバッグに戻した時だった。
「……ハルカ、気分悪いのかい?」
いきなり至近距離で囁かれたのでハルカはびくっと肩を震わせた。振り仰ぐと、ビーカーケースを持ったハイコが心配そうに覗いていた。
ハルカ達の机のすぐ近くに第1化学準備室へと繋がる扉があった。ハイコはビーカーケースを戻そうとしてハルカの近くを通ったら、ハルカが深刻そうな顔をしていたので気になったのだろう。
「だ、大丈夫……」
目は合わせないで緊張しながら答える。
ハルカは手紙の内容の、“ヴァンパイアに言ったらクラスの誰かを殺す”というのを思い出していた。ハイコに言ったら、その途端いきなり誰かが死ぬかもしれない。エミリオがそういう能力を持っていない保証なんてどこにもない。
「……そうかい?」
名残惜しそうな目をしたハイコは準備室に入って行った。一旦ほっとしたハルカだったが、すぐに焦りが襲ってきた。
どうしよう。行ったら何をされるのだろう。また血を吸われるのだろうか。痛い。気持ち悪い。怖い。もうあんなのは嫌だ。でも、行かなかったらどうなるのだろう。やっぱりクラスの誰かが殺されるのだろうか。その方がもっと嫌だ……。
ハルカが吐きそうになりながら暗く考え込んでいると、
「ねぇねぇハルカたん」
レポートを書き終わったらしいモモが小声で話し掛けて来た。モモは今日も、ハルカが初めて見た時と同じに、ツインテールにくるくるの巻き毛だった。色はもちろんミルクティー(この学園の校則はいったいどうなっているのだろう)。なにやら素敵な報告をするみたいに、うきうきと楽しげだった。
今のハルカとは正反対に、果てしなく平和そうだった。
「どう? ハイコ先生の眼鏡アーンド白衣は?」
「え……?」
意味が分からない。
「萌えないっ? 実は眼鏡は、モモのアイデアなのっ」
「え……。じゃあ度が入ってないってこと?」
「そうそう。ハイコ先生視力は2.5もあるから、本当は眼鏡必要ないの。でも化学の先生っていったらやっぱ白衣でしょ? 白衣っていったらもう眼鏡しかないじゃないっ?」
どうしてそういう繋がりになるのだろう。モモの世界は難しい。
「だからぁ、授業の時だけ特別に眼鏡掛けてってお願いしたのぉ。そしたらほんとに掛けてくれたのっ! ハイコ先生って変わってるけど優しいよねぇ。もう、ちょーサイコー! 萌えーっ!」
モモは少し興奮気味だった。
「くーらーた」
向かい側のユカリが窘めるように言った。
「ハルカ困ってるでしょ? あんたの趣味を押し付けないのっ」
ユカリはしっかり者の姉のようだ。憮然とした様子だったが、モモはすぐに「……ふぁーい」と返事をした。この二人には上下関係が出来上がっているのだろうか……?
その時ハルカの後ろをハイコが通った。ハルカの視線は自然と眼鏡にいった。たった一人の生徒の趣味の要望なんかにいちいち応えるなんて。
ハイコは優しい。そしてきっと教師という職業が好きなのだろう。
教師は楽しいから辞めないよ。
この間ハイコが言っていたことを思い出した。生徒のこともきっと好きなのだろう。
良い先生かもしれない。しかし変に生徒思いな教師より、ハルカは冷めた教師の方が好きだった。冷めてるといっても授業は手抜きすることなく真面目に熟す人。でも生徒のプライベートには一切無関心な人。そんな教師が好きだった。ハイコはどうやらハルカの好みのタイプとは違う教師のようだった。授業はまぁまぁだったが、ハイコはハルカのことを気にかけ過ぎている。まぁ、自分のせいで1週間も寝込んでしまった生徒を気にかけるのは普通かもしれないが。
それにしても、ハイコがヴァンパイアだとモモが知ったらどうなるのだろう。無邪気に喜ぶかもしれない。しかしハルカはハイコがヴァンパイアだということを誰かに話すつもりはなかった。
誰だって隠しておきたい秘密はあるだろうし、もちろんハルカにもあったから。それにハイコは自分がヴァンパイアであることに誇りとか自尊の心とかを持っていない気がするから。自分が誇っていないことを大事にしている存在に知られるのは、耐え難い苦痛だろうから。そんな非道なことはしたくない。
化学室の時計は後3分で放課後だということを示していた。モモに話し掛けられて一時忘れてしまっていたが、ハルカはもう決心していた。時計台に行くことを。恐怖が消えた訳ではないけれど、取り返しのつかないことが起こってからでは遅い。だから、怖いとか思っている場合ではない。行かなければ。自分が行くことで、クラスのみんなに迷惑が掛からないで済むのなら、それで……。
◆
放課後。セント・エーデルワイス学園高等部エリアの一角。
園芸部至高の傑作──“迷宮の薔薇園”にハイコはいた。園芸部顧問という訳ではないが、何となく美しい薔薇に囲まれていたかった。
迷宮の薔薇園はその名の通り薔薇の垣根で出来た迷路になっている。所々には屋根付きの小さな休憩所がある。薔薇の蔦が絡む4本の白い柱の上に三角錐の屋根が乗った、西洋風の休憩所が。そこのベンチに座って足を組んだハイコは、目を閉じて物思いに耽った。
……なんにもいらない。
昨日ハルカが言った言葉が忘れられなかった。彼女にとっては深い意味は無かったのかもしれないが、心に突き刺さるようだった。この世界に何の希望も見出だしていないような、切なさ。物事に対する興味の希薄さ。
酷く物悲しくなって、涙が出そうになった。




