第4話 3
ぱたぱたという渇いた音を立てながら、どうやらカーテンを閉めようとしているらしい空色の小鳥がふとこちらを向いた。
「ハルカァー! ハルカハルカァー!」
小鳥は嬉しそうな声を上げ、ハルカの周りを飛び始めた。
「もう大丈夫? どこも痛くない? 待ってて! 今みんな呼んで来るから!」
慌てたように言った小鳥は扉の隙間から出て行った。
「……」
一時ぼーっとしたハルカは頭を整理しようとした。
今着ているのは冬物の紺色パジャマだった。まだ熱帯夜が続いているというのにこれを自分で着たとは思えない。……いったい誰が。それより今日は何日だろう。ずいぶん眠ってしまっていた気がする。しかしなぜそんなにも眠ってしまったのか。確かハルカはマンションの屋上にいたはずだった。蒸し暑かった。“少年”の手も熱かった。少年──。
「……っ」
ぞくりと鳥肌が立った。あの白い髪。あの赤い目。忘れたかったがハルカは鮮明に覚えていた。少年に首を噛まれて血を吸われたことを。
ハルカが恐る恐る、あの時激痛が走った辺りに手を伸ばそうとした時──扉が開いた。
「ハルカ……」
プラチナブロンドを赤いリボンで束ねた男──ハイコはハルカを見るなり立ち止まり、小さく呟いた。すると突然駆け寄って来た。一瞬、なぜか殴られると思って首を縮めたハルカだったが──ハイコはハルカを包み込むように両手で抱きしめてきた。
(……!)
当然驚いてもがこうとしたハルカだったが、ハイコが震えた声で何度も何度も「良かった……。ごめんね……」と謝るので、どうしていいか分からなくなってしまい、固まってしまった。
(どうして謝るの?)
口には出せなかった。声をかけるのも忍びない程、ハイコの声が悲しげだったから。
「はいはい。感動のハグはそのくらいにして、あたし達をそのかわいらしいレディーに紹介して下さらない?」
「あのっ、お邪魔してますハルカさん」
いつの間にかハルカの部屋にはハルカの知らない人が二人いた。
「あぁっ! すまないっ」
慌てたように言ってハルカを放したハイコの頬は、ほんのりと色付いていた。大胆なことをするくせにそれ自体に動揺するなんて、本当にハイコは変な人だ。
「ハルカ、右の背の高い女性のような男性がチャーリー・スティーブンソンというピンチを救ってくれた人物で──」
「元恋人よ」
チャーリーというらしい、オレンジの長い巻き毛のせいで本当に女の人みたいに見える男の人が、いたずらっぽくハルカにウインクをしながら遮った。
「ち、違う! 断じて違うっ」
激しく否定したハイコの顔はなぜか真っ赤だった。「たっ、ただの友人さっ」とハルカを見て必死そうに言うので、ハルカはきょとんとしたままとりあえず小さく頷いた。
チャーリーは髪を指に絡ませながら、「そんなに否定しなくても……」と残念そうに言った。
一つ咳ばらいをしたハイコは、
「で、チャーリーの肩に乗っているハコフグっぽい──」
「あなた。わたくしの例えにハコフグはよしてって何度言ったら分かってくださるんですの?」
チャーリーの肩に乗っている、黄色いハコフグのような物体がしゃべった。幼い、気取った女の子のような声だった。
(さっ、魚がしゃべっ……!)
一気に目が覚めてしまったハルカは、気を失いそうになったのをなんとかこらえて、黙って話しを聞き続けた。
「も、申し訳ないマリアンヌ嬢」
苦笑いをしたハイコはハルカを振り返って続けた。
「こちらの気品溢れる魚型の使い魔様がマリアンヌ嬢だよ。そして左の女性がセシリア・メーメットというハルカの傷を治療してくれた人物さ」
「はじめましてハルカさん。セシリア・メーメットといいます。よろしくね。セシリアって呼んでいいですよ。制服のままじゃアレだと思ってパジャマに着替えさせちゃったけど、嫌だったかな? あっ、それと、首の具合はどうですか? 見た目は完全に治したんですけど、痛みとかはありませんか?」
セシリアという女の人はふわりと柔らかい雰囲気の人だった。香水のいい香りがした。栗色のミディアムヘアーにはウェーブがかかっている。
あの少年に噛まれた辺りをそっとぎこちなく触ったハルカは、俯きがちに「平気……です……」と答えた。指に引っ掛かる凹凸は何もなかった。痛みも。
ハルカの傷は本当に消えてなくなってしまった。蹴られた腹部の痛みも。
「それは良かったわぁ」
チャーリーは頬の横で両手を合わせて嬉しそうに言った。
「あたしのこともチャーリーって呼び捨てで構わないからねっ?」
ハルカと同じ目線になったチャーリーは若干真面目な雰囲気で、
「ハルカちゃんに酷いことをしたエミリオ・ペルツァロッタっていう子と同じヴァンパイアなあたし達だけど、“種類”が違うから。だからあたし達のことまで嫌いになっちゃやーよ? ハルカちゃん」
そんなこと言われても何て言ったら良いか分からなかったハルカは、「あ……はい……」とぼそっと曖昧に答えた。目は合わせずに。
人見知りは激しい方ではないが、他人が家にいるという事実だけでどうしても緊張してしまう。
ヴァンパイアのことが嫌いになったとかなってないとか──そんなことは分からなかった。ただ、あの少年──エミリオ・ペルツァロッタが怖いということだけは、ハルカの中ではっきりと決定付けられたことだった。
「エミリオちゃんはまた来るわ。あたし達を更生させる為にね」
チャーリーは続ける。肩のマリアンヌはふよふよと空気を泳ぐようにして、ハルカの机の上にいる空色の小鳥の元へと飛んで行った。使い魔同士、二匹は友達なのかもしれない。
「でもあたし達は古くからのやり方──人間に噛み付いて最後の一滴まで血を吸うなんて下劣な真似はしたくないの。分かるかしら? つまり今ヴァンパイアはあたし達みたいな革新派と、原理主義的な保守派に分かれているの。摩擦が激しいのよ。だからハルカちゃんはとばっちりを受けちゃったって訳。本当にごめんなさいね……。ヴァンパイアのくだらない争いなんかに巻き込んじゃって……」
チャーリーの謝罪は真摯的だった。
(ヴァンパイア同士の争い……)
少し驚いたハルカがしばらく黙っていたら、何かに気付いた様子のセシリアが、
「あっ。すみません。私そろそろ行かないといけません」
「あらやだ。あたしも予定あるんだった」
時計を見たチャーリーが言う。
「何かあったら遠慮なくいつでも呼んでくださいね、ハルカさん。それじゃ」
「あたしも、ハルカちゃんの頼み事なら何でもやっちゃうわぁ。じゃあねぇ~」
ハルカが瞬きをすると、もう二人はいなかった。ハコフグみたいなマリアンヌも。
お礼を言い忘れてしまったハルカは自分自身にがっかりした。分からないことだらけだったが、あの二人のお蔭で自分が今生きていることは何となく分かっていた。あの二人はハルカを助けてくれた。たった一言、ありがとうが言えてれば。
「ハルカ、ほんとに大丈夫かい?」
ハイコが心配そうな顔できいてきた。そういう顔はあまり好きではなかった。自分が惨めな子みたいに思えて来るから。だからハルカは無表情で俯き加減に小さく答えた。
「……うん」
「エミリオ君はまた来るよ。それは私達を更生させる為だけではなく、ハルカの血を飲む為に……」
ベッド脇に腰掛けながら言うハイコのその台詞に、少し怯えるハルカ。血を吸われるどころか、もうエミリオの顔すら見たくなかった。二度と会いたくない。
「怖がらせてしまったかい? ごめんね……。でも、ヴァンパイアは一度飲んだ人間の血は忘れないのだよ。それが美味しいとなおさらね……。エミリオ君が言うには、ハルカは人間の中でも稀にしかいない、本当に美味しい血をした人間らしいんだ……」
「……」
ハルカは俯いたまま黙っていた。自分の血がヴァンパイアにとって美味しいだなんて──なんだかとてつもなく気持ち悪い。
「でも大丈夫さ。私がエミリオ君からハルカを守るよ。同じヴァンパイアだけれど、私はハルカの味方だよ。絶対にハルカに噛み付いて血を吸ったりしないしさせないから、安心して欲しい。それとも──」
そこでハイコは伏し目がちになった。
「やっぱり怖いかい? 私もエミリオ君も、ハルカの目には同じに映ってる?」
布団を握り締めたまま、ハルカは小さく首を横に振った。ハイコは違う。ハイコは怖くない。ハルカは確かにそう思っていたが、この先どうなるかは分からない。ハイコが血を飲んでいるところを見てしまったら、やっぱり怖いと思うかもしれない。
ふとハルカは布団に置かれたハイコの手に視線を移した。あの時甲を火傷したはずだが、微かな痕跡すら見当たらなかった。しかしハルカはきいてみた。確かにあの時ハイコは痛そうにしていたから。
「手、大丈夫? 火傷……」
「えっ?」
きょとんとなったハイコはすぐにふわっと微笑んで、
「ありがとう。心配してくれて。でも平気さ。ヴァンパイアは人間よりも傷の治りが早いのだよ。だからハルカは何も気にしなくていいから……」
こくりと頷いてからハルカは重要なことに気付いた。そう、ハイコだってハルカを守ってくれていたのだ。そしてハルカをヴァンパイア同士の争いとやらに巻き込んでしまって、一番悔やんでいるのは他でもない、きっとハイコだ。だから部屋に入るなり、あんなにも謝っていたのだ。
ハルカは、“ありがとう”を言うのは自分の方だと思った。今こそ素直になる時だった。
「……あ、あの……。えっと……」
しかし中々言えなかった。
「ん? なんだい?」
そうやって構えられると余計言いづらい。




