第3話 6
「きゃっ!」
首に熱した鉄を押し付けられたかと思うくらいの激痛。痛い! 痛い痛い!
「いやっ! やだっ!」
首筋に何か生暖かいものが通った。流血──。噛まれたことをすぐに悟ったハルカは逃げようと必死にもがいたが──
「うるさいんですけど?」
「うっ!」
腹部に蹴りをまともにくらった。両手は自由になったもののあまりの痛さに抵抗するどころか声すら出ない。ハルカは崩れるように膝をつき、腹部を押さえて背中を丸めた。
「……っ」
息をするだけで腹部と首筋に激痛が走った。その痛みを自分の中で消化する間もなく、エミリオが首筋に吸い付いてきた。ハルカの髪は根元から鷲掴みにされ、さらに首を乱暴に曲げられた。エミリオはもう片方の手でハルカの身体を支えるように肩を掴んでいた。
ブラウスの襟が赤く染まってきた。エミリオの舌が、流れた血を辿るように時々首筋を這うのと、荒い息遣いに混じって聞こえて来る、「美味しいよハルカ……」というのが気を失いそうになるくらい気持ち悪い。しかし一番気持ち悪いのは、見た目どう見ても人間の少年に、首を噛まれ血を吸われているという事実だ。
……ありえない。嘘だ。夢だ。信じられない。信じたくない。こんなの嫌。
だんだん視界が霞んできた。身体中の力が抜けていく。痛みが麻痺する。音が聞こえなくなる。“本当の自分”が“身代わりの自分”を連れて来る。本物のハルカが深いところへ避難する。
黒いハルカの双眸は光りを失い、虚ろな闇が広がった。
今ここに、ハルカという一体の人形が完成した。
人形の脳裏に過ぎっていたのは一つの言葉だった。
“死”──。
それは過去にも感じたことがあった。母親に首を絞められた時。お湯の入った浴槽に頭を突っ込まれた時。包丁を突き付けられた時──。
真っ暗闇の淀んだ深海で、上手く息が出来なくても、寒くて凍えそうでも、どこへ行ったらいいか分からなくても、何も聞こえなくても──。そこで生きてきた。
自分が悪いと思い込んでいたハルカは、助けなんて求めなかった。そして今でも、原因は自分にあると思っていた。父親やカウンセラーが何と言おうと、悪いのは自分だと。
ハルカの世界は今でも真っ暗で淀んでいた。表面は問題なく澄んで見えていても、少し流れを乱されると、沈澱していたものが醜く浮かび上がってくる。
染み込んだ恐怖は浄化不可能だった。
この世界に別れを告げるように、ハルカはゆっくりと目を閉じた。
もしも、もしも生まれ変われるのなら、またお母さんの元に生まれたい。
そしたら、もうお母さんがわたしを叩いたりしなくても済むように、今度こそはちゃんといい子になろう。誰かに自慢出来るくらいの、いい子になろう。
ハルカを産んで本当に良かった──って言って、優しい顔で微笑って、抱きしめてくれたら、愛してくれたら、それが叶うなら、たとえその瞬間自分の命が尽きてしまっても構わない。
それ以上の幸福なんて、残りの人生にありはしない。
お母さんがわたしのことなんて思ってても、わたしはお母さんのこと、今でも大好きだよ……。
“人形”の片方の瞼から、透明な雫が零れた。それに気付いた者は誰もいない。
ハイコはマンションの屋上で目的の人物を発見した。
(ハル……カ……?)
しかしショックにしばし立ち尽くす。黒髪の小柄な少女──ハルカは目を閉じ、ぐったりと後ろの少年に背中を預けていた。意識はなさそうだった。そして首筋には赤い痕跡。
(エミリオ……!)
ハルカの首筋に顔を埋める少年を鋭く睨みつけ、怒涛の如く激怒したハイコは瞬時にシフトして少年の首を掴む。この時火傷する程熱かったが、ハイコはまったく気にせず骨が軋まんばかりに強く掴んだ。そして少年の腹部目掛けて革靴の踵を勢いよく押し込もうとしたが──
「チッ」
相手のシフトに不満の舌打ちをする。そしてすぐに辺りを見回して白髪赤眼の少年──エミリオを捜す。
「……?」
後ろのハルカの動く気配に振り向くと、支えをなくして横に倒れるところだった。
「ハルカ!」
急いで支えて頬を軽く叩き、必死に名前を呼ぶ。
「ハルカ! 返事してハルカ! 相澤ハルカッ!」
しかし返事はない。ハルカの唇は青く、体温はかなり下がっていた。
ハルカを仰向けに寝かせたハイコは手首の脈を調べた。
(よかった……)
まだ生きてる。それを確認してほっとしたハイコだったが、首からはだらだらと出血が続いている。このままでは命の灯が消えるのは時間の問題。安堵するのはまだ早かった。
聞こえていないのは十分承知していたが、ハイコは、「ハルカ。俺が絶対助けるから、もう少し待ってて」と真面目に囁き、ハルカの揃った黒い前髪をそっと撫で、着ている桃色シャツを脱いでTシャツ一枚になり、ハルカの身体の──主に出血中の首筋辺りにかけた。そして声を張り上げる。
「エミリオ!」
辛辣な表情で広いマンションの屋上を見渡したハイコは、
「私は君を許さない。君達のやり方は認めない!」
「どう許さないと言うんです?」
まだ太陽は沈んでおらず、屋上は蒸し暑いというのに、くるぶしまである濃紺のベルベットマントを羽織っているエミリオは、ハイコから見える位置に現れ、涼しい顔でそう言った。
「あなたに僕は倒せません。物理的には体格差から可能でしょうが、能力に差があり過ぎます。必要以上の血を飲まない脆弱ヴァンパイアのあなたには絶対に無理です」
「……っ」
ハイコは痛感していた。そんなことは言われなくとも分かっていた。実際、今日は何度もシフトを繰り返したので、そろそろ体力が限界だった。追い討ちをかけるような強い日差しがさらにハイコの体力を奪う。
“ヴァンパイアは太陽の下を歩けない──”というのは人間が勝手に作ったもので、実際は歩ける。しかしあまりに人間の血を飲まないでいると、体力の消耗の仕方が尋常じゃなくなる。よって身体能力と判断力の著しい低下を招き、倦怠感が身体中を支配する。
ハイコはちらりとハルカを振り返った。
半袖ブラウスから出る白く柔らかそうな腕。手首に浮き出る青白い血管──。
ごくり。
喉を鳴らすハイコ。急激な渇きに襲われていた。
飲みたい。ダメだ。飲みたい。ハルカは私の生徒だ。のみたい。飲んではいけない。のみたい。絶対飲まない。ノミ……タイ……。
ハイコは自身と葛藤した。ヴァンパイアとしての自分。ハルカを助けると言った自分──。
半袖ブラウスから出る“甘く美味しそうな”腕。
認識が変わったハルカの細い腕を見据えたハイコが屈もうとした時──。
「ダメです」
淡々としたエミリオの声。
「っ!」
エミリオの青白い火球を肩にまともに受けたハイコは、そこを押さえながら振り向く。正直動揺していた。
今自分はハルカに何をしようとした……?
自分自身が怖くなったハイコは何も言えずにただ痛む肩をぎゅっと握った。爪を立てて。自身を罰するように。強く。
「吸血に目覚めるのは、それを目的に来た僕としては喜ぶべき場面なんですが──ハルカはダメです」
「私は別に──!」
吸血に目覚めてなどいない!──というハイコの台詞を遮るように、
「正直驚きました。こんなに美味しい血は初めてです。“Sランク以上”は確実です……」
舌なめずりをするエミリオの微笑は暗く病的だった。
ヴァンパイアは人間を格付けしている。血の味のみをその対象として。トリプルSからGまでの全10段階に分けられるが、Sから上のランクになる人間は稀にしかいない。とりわけ最高ランクのトリプルSは、10億人に1人とされているくらいだ。
「感じたことがないくらい強い力がみなぎって来ます。本当にトリプルSかもしれません。調べる必要があります。トリプルSだけは特別なので、殺しません。人間みたいに飼います。家畜にします。そして好きな時に飲むんです。最高でしょう? その為にはまずあなたが邪魔なので、死んでください」
刹那、シフトしてきたエミリオの灼熱の手に首を掴まれた。
「くっ……!」
「これはさっきのお返しです」
にやりと嘲笑ったエミリオがシフトした。またハイコからは見えなくなる。
「けほっ! こほっ!」
血を飲んだせいで増強されたエミリオの力は半端じゃなく、危うくハイコの首は折れそうだった。
(……どうすれば)
ハイコは必死に考えた。どうすれば現状を回避出来るか。最悪はハイコが殺されハルカが連れて行かれることだが、それだけは避けたかった。ハルカだけはなんとしても助けなければ。しかしもう体力が……。でも血は飲みたくない……。飲むのは怖い……。どうすれば……。
こうなったら。
決心したハイコはポケットから携帯電話を取り出した。
助けを呼ぼう。
あまりやりたくないが、緊急事態なので仕方ない。それに仲間を信頼するのは悪いことではないはず。
ハイコはエミリオの“炎属性”に大ダメージを与えることが出来る、“水属性”のヴァンパイア仲間数人に、
誰か! Help!
という短い内容のメールを素早く打ち、同時に送信した。
「ヴァンパイアのくせにケータイですか」
吐き捨てるような言い方。大分距離はあるが正面にエミリオが現れた。




