第3話 5
助けなければ。ハルカを。
一点の迷いもなく思ったハイコ。エミリオがかなりのサディストで、手加減を知らない危険な人物だということは、ヴァンパイアの間で有名だから。それにハルカは、きっと助けを求めるということを知らない類いの人間だから。ハルカのことはまだ何も知らないが、ハイコはなんとなくそれを感じ取っていた。
エミリオが開いた右手を振りかぶった。
小さく身体を震わせて、ハルカは自分の頭を守るように抱えて縮こまった。
ハイコは二人の間に素早くシフトして──。
(……?)
なかなか襲って来ない第二波と至近距離に突然感じた人の気配を訝しがったハルカは、ゆっくり恐る恐る目を開けた。
黒いジーンズ。
もっと目を上げると、濃い桃色シャツ。
(……ハイコ……先生……?)
声は出なかった。
ハイコは白髪赤眼の少年──エミリオの手首を掴み、ハルカに背を向けて立っていた。
「エミリオ君。レディーに対して暴力はいけないな。そして私は観光以外でドイツに行く気はまったくないのだよ」
飄々と言ってエミリオの手首を放したハイコが、しゃがんで庇うようにハルカの両肩に手を乗せ、碧い目で心配そうに覗きながら、「ハルカ大丈夫だったかい?」と低く甘い穏やかな声できいてきた。ハルカの返事をきく前に、ハイコは首を捻ってエミリオを見上げ、
「ハルカは君なんかには渡さない。乱暴な扱いをする君に、こんなに美しいレディーは似合わないよ。出直してき給え」
「そうだぁ! おまえなんか帰れ帰れー!」
「僕さぁ──」
怠惰な声を出したエミリオが続ける。
「一度欲しいと思ったものって、手に入れないと苛々してくるんです。だからハルカは貰います。絶対です。一滴残らず吸い尽くしてあげますよ……」
長い前髪から覗く、暗い病的な赤眼でハルカを見下ろすエミリオ。
「人間嫌いのエリザベスが唯一気に入った人間。それからヴェインリッヒが妙に大事にする人間──。壊してみたくなりました。大事な人が消され、絶望に嘆くあなたの姿が早く見たくなりました。という訳で、さぁ、ハルカおいで。この僕の一部になることを光栄に思うんだ。大丈夫だよ。もう叩いたりしないから。さぁ」
微笑を湛えて手を差し出すエミリオ。その笑みを何も知らない初めに見ていたら、エミリオという人物に好感を持っていたかもしれない。なぜならそれは純粋で、邪気など感じられないあどけない微笑みだったから。
しかし──ハルカはもうエミリオという人物を敵と判断していた。よってハルカはその──今さっき自分をひっぱたいた手を無視し、視界に入れようともしない。あまつ怒っているので無口になる。
「ふーん。そういう態度取るんだ」
エミリオはゆっくり手を引っ込めて急に無表情になった。まるで嵐の前の静けさのような。
ひっぱたかれてからというもの、ハルカはエミリオの一挙一動にいちいち神経が高ぶっていた。故に半歩下がったその動作にさえぞくりと反応してしまう。
「いいよ。ハルカ。じゃあ遠慮なく無理矢理いただきます──。その前に、“観客”を舞台から引きずり落とさないといけません」
エミリオがそう言った途端、ハルカの両肩を守るように掴むハイコの手の甲に、青白い炎が踊り始めた。「くっ……!」整った顔を苦痛に歪めたハイコだったが、それでもハルカの肩は放さなかった。
放して──言おうとしたハルカの願いにも似た台詞は、「邪魔なんですけどお客さん?」というエミリオの冷徹な声と、「ぎあっ!」というエリザベスの苦しそうな声に消えた。
見ると、エリザベスはエミリオの片手に握り締められていた。
「……ハイコ、ごめん。……つ、使い魔なのに、サポート、できて、なく……て……」
申し訳なさそうに言うエリザベスを見て、エミリオが愉快そうに嘲笑った。そしてエミリオは振りかぶってエリザベスを壁に投げつけた。
「エリザベスッ!」
立ち上がろうとしたハイコに、
「はい。ストップです」
エミリオが指を鳴らしすと、青白い炎で出来た鳥籠が現れた。その中に閉じ込められたようになるハイコ。
「……っ!」
ぶわっと、ハイコのプラチナブロンドと桃色シャツが熱風に舞った。エリザベスは壁からずり落ち、棚の後ろへ落下してハルカ達からは見えなくなってしまった。
「エリザベス!」
ハルカは呼んでみた。けれど返事がない……。
「はっ。使い魔なんてたいしたことないですね」
鼻で嘲笑ったエミリオが続ける。
「まぁ、誰かさんがちゃんと血を飲んでいれば、使い魔にもエネルギーがしっかりと行き渡って、もっと俊敏な動きが出来ていたでしょうけど。そうすれば素早さが得意分野の“風属性”であるエリザベスが、僕なんかに手づかみされるなんてことはまずなかったでしょうね。すべてはハイコ・ヴェインリッヒ。あなたの責任です」
「……」
ハイコから見たらずっと年下のエミリオが、大きな態度で指まで差しているのに、ハイコは斜め下を向いて黙っている。それを不思議に思ったハルカだったが、いろいろ事情があるんだと思い、自分も黙っていることにした。ハルカにだって知られたくないことくらいあったから。
炎の鳥籠が音もなく消えた。
「“シュトゥルム”は使わないんですか? 僕だけ“インフェルノ”を使っていてずるいみたいじゃないですか。あー。それとも、“使わない”んじゃなくて“使えない”んですか? 能力を使うにはエネルギーが必要ですからね。エネルギーは人間の血。生命活動に支障がない程度のぎりぎりの量しか飲んでない今のあなたには、能力なんて使う余裕ありませんか」
「いや。違うなエミリオ君」
ハイコの声は妙に落ち着いていた。
「私は“無駄遣い”はしない主義なのだよ。シュトゥルムの私とインフェルノの君では、属性法則によって私に勝ち目はない。だから使わないのさ。そんなことも分からないのかい?」
ハイコの挑発っぽい言い方に、「ああそうですか」と淡々と応えるエミリオは、そう簡単に操れる人物という訳でもなさそうだった。
「まぁ、だからこそ“あなたに対して僕”が呼ばれたんでしょうけど、それははっきり言って大迷惑──と言いたいところなんですが──」
その時ちょうど立ち上がったハルカは、エミリオの赤眼と一瞬目が合ってしまった。
「これで万が一ハルカが“トリプルS”だったりしたら、すべてちゃらにしてあげます。だから邪魔しないで下さい」
“トリプルS”とはなんだろうと考える暇もなく、またエミリオがハルカに手を伸ばして来た。瞬時に飛びのいたハルカだったが──いきなり腹部に誰かの手。それがエミリオの手で、自分は後ろから抱きしめられていることを悟ったハルカは、背筋に悪寒がしてすぐに手を引きはがそうとしたが──
「熱っ」
エミリオの手の“甲”は火傷する程熱かった。手の“平”はまったく普通なので、エミリオは自由に自分の肌の温度を調整出来るのかもしれない。ハルカが為す術もなくただ、「放して! 触らないで!」と声だけで抵抗していると、「ハルカを放せっ」というハイコの声と同時に、ハルカの世界は曲がった鏡みたいに歪んでいった。
「ハルカ!」
手を伸ばしても無意味だった。“消える”瞬間エミリオは勝ち誇ったように嘲笑っていた。ハイコは火傷して赤くなった両手の甲を気にすることもなく、エリザベスが叩きつけられた壁の下にある低い棚を退かし、
「エリザベス! 痛いのかい? 苦しい?」
せき切ってきくと、空色の小鳥──エリザベスはエメラルドの瞳をゆっくり開いて、
「だい……じょうぶ……。早く、ハルカの、ところに、行って……」
「……ごめん。エリザベス……。私がダメなヴァンパイアだから……。血を……飲まないから──」
謝罪するハイコを遮るように、
「ハルカは……このマンションの屋上だよ。オレはここに置いていっていいから。だから早くハルカを……! せっかく初めて好きになれた人間なんだ。いなくなっちゃうなんて……オレやだよ……」
「エリザベス……」
悲痛の表情で言った後ハイコは決心して、
「すぐ戻るからねっ」
テーブルの上の、円形の浅い缶の中にエリザベスをそっと寝かせ、
(ハルカ……!)
気合いを入れ、靴を履いてから屋上へ向けてシフトした。
◆
「……っ!」
いきなり首根っこを舐められたハルカは、不快な恐怖から声にならない声を上げて後ろの人物を蹴った。しかし靴を履いていない蹴りではたいしたダメージを与えられなかったようで、後ろの人物、白髪に赤眼の少年──エミリオは呻き声一つ上げない。
ハルカの両手首は後ろでエミリオの片手に掴まれているので、とにかく足で抵抗するしかなかった。
「痛い!」
ハルカの真っ直ぐな黒髪がさらにぴんとなった。毛先を暴悪に掴むのはエミリオの白い手。
「逃げないで下さい。どうせ僕からは逃げられません。諦めて下さい」
髪を放したエミリオが、今度はハルカの首を右に倒した。そして首に掛かる黒髪を払い、先程舐めた部分を指でなぞってきた。
(気持ち悪っ)
もうすぐ日没とはいえ本日二度目のマンションの屋上はやっぱりまだ暑かったが──ハルカの心の中は鳥肌が立つ程に寒かった。
ハルカはエリザベスとハイコが心配だった。エリザベス……怪我してないといい。ハイコ……火傷は平気だろうか。




