第3話 3
「……おや? ハルカ? 本当にお眠なのかい?」
脳天気な声。
(おっ、“お眠”……)
その幼稚な単語を、完全にこっちを馬鹿にしていると受け取ったハルカは、屈辱に腹を立てた。
「ハルカちゃ~ん?」
「……」
怒っている時程無口になるのはハルカの悪い癖だった。治そうにも一度ついてしまったものを治すには、たとえ15歳の若いハルカでも難しい。
「ハルカはうさぎさんと猫さんを掛け合わせたみたいですねぇ。淋しいのは死ぬ程嫌いなのに、すぐ一人になりたがるような──。ちなみに私はうさちゃんもにゃんこちゃんもだーい好きさっ」
「……」
何を言っているんだこいつは──。ハルカが呆れながらちらりと見ると、「あっ。振り向いた」と言って満足そうに微笑う碧い瞳と目が合った。
分かったような慈愛に満ちた表情と、長い足を組んで背もたれに肘をつき、頬杖をついてこっちを見ている──という、そのでかい余裕な態度がハルカの癇に障った。
ひらりと真っ直ぐな黒髪を舞わせてつんとそっぽを向くハルカ。ハイコが目を細めて穏やかに微笑い、その後その碧い目がいたずらっぽく光ったことも、脇腹に人差し指が伸びてきたことも、ハルカは見逃してしまった。
「きゃあっ!」
びっくりする程大きな自分の声に慌てて口を塞いだハルカは、瞬時に犯人を特定してその人物を睨む。心臓は激しく脈打ち、痛いくらいだった。弱点だった。脇腹は。
今や“人形フェイス”は崩れ、頬は紅潮していた。
「……まさかそんなに驚くとは思わなかったけれど──」
ハイコは本当にハルカがこんなに驚くとは思っていなかったようで、目を丸くしてぽかんとしていた。しかしすぐにぱぁっと表情を明るくして、
「それなのだよハルカ君! そーゆー顔っ」
ハルカは急いでソファーから立ち上がり、ハイコから逃げて窓辺へ避難した。そしてカーテンと窓の隙間に隠れる。小動物みたいに。
今すぐ文句を言ってやりたいのはやまやまだったが、軽いパニックに陥っていたハルカにはそれが出来なかった。
(……なっ、なんなのこの人)
大人におちょくられたことなどなかったハルカは、完全に動揺していた。
「あははっ。おもしろいなぁハルカは。もっと本当の感情を表した顔で生きてみないかい? きっと世界は違って見えるから。今のままでは生きにくいのだろう? 大丈夫。変わっていけるよ」
心の奥底まで見えているような言い方だった。やはりハイコは知ってしまったのか? ハルカが昔“あの人”──“母親”に何をされたかを。そして今のハルカがその時のトラウマと戦っていることを。
自分の秘密を知られたかもしれないというストレスが、ハルカの中で渦巻いた。
「せんせ──」
きいてみようかと決心して言った小さな声は、「ハイコッ! 大変だっ!」というエリザベスの危機感を含んだ鋭い声に遮られた。
何が大変なのか若干気になったが、ハルカはくるくると回転してカーテンに包まった。せっかく振り絞った勇気なのに、もう一度振り絞れなんて無理だった。
「またあいつだ! あいつが来るよ! だめだ! 結界が間に合わない!」
「エミリオ君が?」
次の台詞はその台詞とほぼ同時だった。
「見つけた……」
囁くような声はどこかハルカの“人形フェイス”時の声に似ていた。感情が篭っていないような。
「何しに来たんだよ!」
エリザベスの声には怒気が含まれていた。
ハルカは、どう考えてもすぐそこで聞こえた謎の声の主の姿を確認しようかとそわそわ迷っていたが、結局やめてじっとしていた。むしろこっちの存在に気付いて欲しくなかった。変なことに巻き込まれるのはノーサンキューだった。
「エリザベス。君に危害を加えるつもりはなかったんです」
それは淡々とした事務的口調だった。謝罪には向かないと思われる口調。
「ハイコ・ヴェインリッヒ。すべてはあなたに事の重大さを教える為です。あなたがエリザベスを異常なまでに可愛がっているのは有名ですから。それとの絆を分断させられればさすがに懲りると思ったんですが──何故ですか。何故もうエリザベスと一緒にいるんですか。術は完璧だったはずなのに……。こうなったら今日は無理矢理にでもあなたのそのふざけたヴァンパイア精神を、この僕自ら鍛え直してあげますよ」
「無理さっ」
余裕そうなハイコの声は驚く程ハルカに近かった。
(……?)
気になったハルカはなんだろうと思い、目の部分だけ上手く外に出してそっと窺った。
目の前にはハイコの濃い桃色シャツが。その向こうにはハルカの知らない少年が一人。……土足で。
ハイコはハルカに背を向けて、少年との間に壁のように立ちはだかっていた。……まるでハルカを少年から守るように。しかしその理由はハルカには分らなかった。
その少年はハルカと同い年くらいの外見をしていた。ストレートの白髪は両耳を覆っているが肩には触れない長さ。濃紺のベルベットマントを羽織っていた。その下からは銀ボタンが光る、黒いスーツのようなものが覗いていた。しかしネクタイではなく、赤いスカーフだった。一見すると品格漂う紳士だった。
少年はハルカの存在に気付いていないようで、「そういう態度が僕を苛々させるんです」と言ってハイコを睨んでいた。その瞳は狂気すら感じさせる程危うい赤だった。
「教師は楽しいから辞めないよ」
ハイコの声は落ち着いていた。
「人を襲って血を飲むなんて絶対に嫌だね。必要以上飲むこともしたくないな。もうほっといて欲しいのだよエミリオ君。何の為に私がこの遠い日本に来たと思っているんだい? “君達みたいなの”にぶーぶー言われない為なのだよ。日本にヴァンパイアは少ないという噂を頼りに来て、平穏な教師ライフを堪能していたというのに……。君達のせいで台なしさ。気分を害した責任は取らなくて結構なので、今すぐヨーロッパの森の中にでも帰ってくれ給え。いや、穴の中かな?」
ハイコの言い方は少し挑発しているようだった。
「そうだぁ! 帰れ帰れーっ!」
エリザベスがハイコの味方をした。どうやら二人共(一人と一匹?)少年のことをよく思っていないようだ。
「……絶対に許しません。上級ヴァンパイアの僕に向かってそんな口のきき方をするなんて……!」
拳を握り締めてわなわなと震える少年に、ハイコはきょとんとした顔で言った。
「上級? いつの間に上級になったんだい?」
「この間言いました。ヴァンパイアのくせにアルツハイマーですか」
吐き捨てるような言い方。
「あれーっ? そうだっけ?」
ハイコは本当にど忘れしたみたいだった。……なんて呑気な。
「僕はあなたのようなだめヴァンパイアを更生させる為にわざわざ日本に来たんです。仕事なんですよ仕事」
「上級さんっていろいろ大変だねぇ~。私は一生中級でいいやぁ。むしろ下級でもいいやぁ」
だらだらと言うハイコ。
「だからその無気力モードが僕のストレスを増幅させるんです。……あんまり僕を怒らせない方がいいですよ。殺しますよ?」
少年は暗く俯きながら上目遣いににやりと嘲笑った。その様子をちらっと見たハルカは少年に漠然とした恐怖を感じた。
(あの人、普通じゃない……)
カーテンを握る力は自然と強くなる。
「死亡理由なんて適当にでっちあげればいいんですから。報告書の偽造なんてみんなやってます」
「うーん。虚偽の報告はいけないなぁエミリオ君」
呑気なハイコの声。
「だったら言う事きいて下さい。こんなくだらない仕事で躓く訳にはいかないんです。とっとと僕とドイツへ行って、元帥達の目の前で人を襲って血を飲んで下さい。こればっかりはでっちあげ不可能なんですから。……人間の血を浴びるように飲むあの快感を忘れてしまったのですか? ありえませんよそんなの。あなたがヴァンパイアである限りね。本当は飲みたくて仕方ないんでしょう? 我慢してるんで──ん?」
ハルカと少年の目がばっちり合ってしまった。反射的にびくっと身を震わせてカーテンで顔を覆うハルカ。




