第8話 エスケープ編1
エンプティーE4201【イーフォーツーゼロワン】。それが“彼”に与えられた名前だった。
“彼”は2年前までアメリカのニューヨーク州にある共学の公立高校に通っていた。もちろん普通の人間が通う学校だ。
“彼”は確かに人間だった。しかし2年前のある満月の日の夜、“彼”の人間としての人生は静かに幕を閉じた。
“悪い方に”。
リスクがあることは知っていた。それでも“彼”が“その選択”をしたのは、自分を虐げたクラスメイト──人間達に復讐する為だった。
ゴミを投げられたり鞄を隠されたり、バイト代を盗られたり教室で服を脱がされたり、女子更衣室を覗いた濡れ衣を着せられたり動物を虐殺しているとデマを流されたり──。無理矢理麻薬を注射されて警察に突き出されたこともあった。
それだけの報いを受ける理由を、“彼”は最後まで見つけることができなかった。
クラスメイト達への憎しみが日に日に募る中、“彼”はついに“人の姿をしながら人あらざる力を持った者達”の存在を知った。
人間でい続けることを放棄することに、“彼”は微塵の迷いも抱かなかった。
ただ、復讐できることに胸を躍らせた。
未知の力という絶対的な恐怖で支配してやろうと思っていた。
しかし……。失敗してしまった。最後の最後まで、“彼”が神に愛されることはなかった。
(いやだっ……まだだっ……! オレは……っ! なりっ、たくないっ……!)
直接海水に浸かっている船の外壁が途切れる位置にあたるDデッキから、3つ下のフロア──地下3階の乗務員専用ラウンジの隅で頭を抱えた“彼”は、心底怯えていた。そう遠くない自分の哀れな未来に。
自分と同じ生き物になった元人間達の悲惨な結末は、ドイツの施設で何度も見たので知っていた。
だんだん考えることがおかしくなってきて、頻繁に記憶が欠落するようになって、いつの間にか身体中うじ虫だらけで、痛みも感じなくなって、ただ常に空腹で、その辺を這っている甲殻虫はもとより、仲間の身体ですら平気で食べようとしてしまう──。
食欲のみが存在する醜い化け物と化すのだ。
すぐに腐って死ぬ奴もいるが、運が悪いと何年も何年も生き延びる。“管理者”達は“いざという時の為の使い捨て兵隊”として見ているので、殺してはくれない。所詮は元人間。扱いは酷いものだ。
完全な化け物になる前に復讐だけは果たしたい。しかしクラスメイト達の元へ行くのはもう無理だ。だから“彼”は、せめて誰でもいいからできるだけ年の近い人間をできるだけ残酷に殺してやろうと思った。
ちょうど腹も減ってるし、生きたまま食ってやろう。
早く人間を食って復讐を果たそう。
“人間までも食ってしまうような食欲だけの化け物にならないように、一刻も早く人間を食おう”。
食わなければ。
やっぱりさっきの黒髪の女の子だ。あの娘を食おう。あの娘の血はゾクゾクした。身体中が何か過剰に反応していた。お蔭で大量に吐いてしまったが、今度はきっと耐えられる。
あの娘の肉を取り込めば、食欲だけの化け物にならないで済む気がする。あの娘は特別な人間なんだ。なんでも願いが叶うんだ。だから食べなきゃ。たべて、あげなくちゃ……ぼくガ……。
(たべテ、あゲるヨ?)
歪んだ笑みを浮かべた“彼”は、ゆらりと立ち上がった。赤い涙が流れるその瞳に、理性の光はもうない。
◆
大きな吹き抜けのあるショッピングプロムナードは、スリーピング・キャット号が誇るメインストリートだ。
空間面積のうち大半はDデッキより上にあるが、始まりはDデッキより一つ下のフロア──地下1階からになっている。
上部は2等客室の窓、中部は3等客室の窓に囲まれており、下部はオープンカフェや劇場、カジノ、ブティックなどの娯楽施設で構成されている。
とても船の中とは思えない贅沢な光景で、さながら一つの街だった。下部はどの層も人でいっぱいだ。
同じ地下1階の医務室から移動して来たハルカ達は、オープンカフェの横の螺旋階段の下にいた。
ハルカは、今さっきセンタープロムナードで起こった出来事にショックを受け、立ち尽くしていた。
ハルカ・アイザワという日本人の少女がこの船に乗っていないか──と、銃を持った5~6人の集団に訊かれた青年が、知っててもおまえらみたいな野蛮人には教えない──というような暴言を吐いた途端、殴られ、無理矢理連行されてしまったのだ。
エミリオの説明によると、集団は現在劣勢にある派閥に属しているそこそこ身分の高いドイツのヴァンパイアで、青年はこれからドイツで更生プログラムを受けさせられるという。
集団は逃げ惑う乗客を片っ端から捕まえて同じことを訊いていた。ハルカがこの船に乗っていることなど乗客なら知っているはずなのに、誰一人として答えることはなかった。どんなに殴られても、連行されても。
「ど、どうしてみんな言わないの?」
張り裂けそうな気持ちを抑え、ハルカは誰にともなく訊いてみた。すると両肩に手を置いてきた後ろのハイコが、答えた。
「きっとみんな、パーティーの時ハルカが言ってくれた言葉が嬉しかったのだよ。だから、みんなハルカを守りたいのだよ。……すべての人間が、ハルカみたいな考えを持っている訳ではないからね……」
センタープロムナードを見つめるハイコの表情は静かだったが、ほんの少し陰りも見えた。ハルカはその表情に、“ヴァンパイア、ハイコ”としての傷を垣間見た気がして、胸が痛んだ。人間社会で生活しているのだから、きっと消えない傷をいくつも抱えているのだろう。
ハイコから再びセンタープロムナードに視線を向けたら、エミリオにジャケットのフードを被せられた。
「ここにいるのは良くないです。他の場所に行きますよ?」
そんなことを言われて手を引っ張られても、ちょうど老紳士が殴られる瞬間を目撃してしまったハルカは、動けなくなった。
周囲の乗客から悲鳴が上がる。
胸倉を掴まれた老紳士がジュエリーショップのショーウィンドーに背中を叩きつけられた時、ハルカはさすがに我慢できず、階段の陰から飛び出そうとした。わたしはここにいる。だからその人を殴らないで──と。
しかし、あっけなくエミリオ、ハイコ、チヒロに腕ずくで止められてしまう。そうされてはハルカに勝ち目はなかった。
「ごっ、ごめんねハルカ」
両目を塞いできたハイコが心苦しそうに謝ってきた。謝られても困る。
ハルカはハイコの手を剥がそうとしながら、「やめて! ずるいよっ」と抗議したが、ハイコの手は緩むどころかもっときつくなった。
「俺達だってホントは飛び出して行きたいよ?」
ハルカの右腕を掴んでいるチヒロが、続ける。
「だけど魔法の使えない俺達は残念ながらそんなに強くないし、ここでハルカちゃんを一人にする勇気もないんだよ。分かるよね?」
「…………」
チヒロの大人らしい言い方に何も言えなくなってしまったハルカは、弱々しい声で呟いた。
「でも、あのひと死んじゃうよ……」
「それは大丈夫です」
今度はエミリオだった。
「今連行されて行ったので、あの老人はヴァンパイアです。出来損ないでも同族は殺してはいけないことになっているはずなので、大丈夫です」
その時やっとハイコの手が両目から離れた。続いてチヒロとエミリオの手も。
ハルカは急いで老紳士の姿を探したが、どこにも見当たらなかった。
「ハルカ」
呼ばれたので振り返ると、突然エミリオが片耳を引っ張ってきた。ハルカは思わず声を上げる。
「痛っ」
「正義感を捨てろとは言いませんが、もっと自分のことも大事にしてください」
「やぁめなさいエミリオ君っ」
ハイコに助けられたハルカは耳を押さえつつ、予想外に真面目なことを言ってきたエミリオをじっと見つめた。
「捕まったら本当に……ハルカなんかは想像もできないような地獄が待ってるんですよ? ……ヴァンパイアは──」
目を逸らしながら話すエミリオの声が、一段と暗くなった。
「ハルカが思っているよりずっと残酷で、陰険な生き物なんです。僕だってそうです。ハルカの首筋を見る度に、いちいち血が飲みたくなるんです。噛みつきたくなるんです」
耳の痛みなんて吹っ飛んでしまったハルカは、黙って聞いていた。
「この二人のせいで──」
言いながらハイコとチヒロに視線を向けるエミリオ。
「平和ボケしたのかもしれませんが、ヴァンパイアなんかには死んでも捕まってやるもんか──というような強い気持ちを常に持って、行動してください。返事は?」
数秒フリーズしていたが、ハルカは、「うん」と頷いた。
ドイツのヴァンパイア達が、自分とエミリオを捕らえる為に船に乗り込んできている──というのは、移動中に聞いたので知っていた。捕まってもいいなんて思ってないが、さっきはどうしても我慢できなかったのだ。
また同じことがあった時、じっとしていられる自信はなかったが、ハルカはもう一度、「はい……」と聞こえないくらい静かに呟いて、俯いた。
「では行きましょう」
エミリオは何事もなかったかのようにさっぱり言ってハルカの手を引き、センタープロムナードに背を向け、すたすた歩き出した。
「おいコラッ、勝手に行くな」
「ま、待ってエミリオ君っ」
二人も慌ててついて来た。
敵との遭遇率を下げる為、エミリオ達は非常階段を使って下りていた。
踊り場に差しかかった時、上の方から足音が聞こえてきた。スキップしているかのように軽やかな足音だ。
タタタン、タタタン──。
どんどん近づいて来る。音の様子だと人数は一人。
ハルカをかばうように、ハイコが何も言わずにハルカの前に出た。ちょっと意地を張ったエミリオは、そのさらに前へ出て、今下りて来たばかりの階段を半ば睨むように見上げる。
これで敵ではなかったら滑稽だが、階段の上からする軽快な足音は、なぜかただならぬ存在感を放っていた。
自分を襲ったエンプティーだと思ったのか、怯えた表情になったハルカがハイコの背中に隠れてコートを掴んだ。
一同に緊張の沈黙が流れる中、ついに足音の主が姿を現した。
「あ……」
あまりの意外さに、勝手に声が漏れた。
それは現れた人物も同じのようで、踊り場でこっちを見下ろしながら固まっていた。しかしすぐに満たされたような笑みが溢れ──なんと両手を広げて階段を蹴り、エミリオに飛びついてきた。
「会いたかった! 会いたかったよエミリオ先輩!」
まだ声変わりもしていないドイツ語だった。よほど思い詰めていたのか、若干涙声も混じっている。
エミリオを含め、その場にいた全員がノーリアクションで固まった。
数秒後、ハイコが通訳を始める。
胸にぴったりくっつく小さな登場人物を無表情でゆっくり剥がしたエミリオは、まじまじと見下ろした。




