第8話 エスケープ編2
銀ボタン付きの黒ジャケットにスラックス、それから白のスカーフに濃紺のベルベットマント──。
それは最近までエミリオも着ていた、ドイツの学校の制服だった。
今にもまた飛びついてきそうな勢いでこちらを見上げる幼き少年を、エミリオは知っていた。クラスも学年も違うが、ある日偶然知り合った光属性の下級ヴァンパイアだ。
名前はユアン・クロス。年は10歳。出身はスイス。
ブルーグレーの瞳と明るいアッシュブラウンの細い髪が特徴といえば特徴だ。一ヶ所だけ寝癖がつく妙な癖はまだ直っていない模様。
「何してるんですかこんなところで」
ユアンはドイツ所属のヴァンパイアなのでカテゴリー的には“敵”なのだが、エミリオは警戒心皆無状態で話しかけた。
「ぼく、エミリオ先輩をさがしてたんですよ! ホントはぼくは船のなかには入っちゃいけないことになってるんだけど、エミリオ先輩がこの船にいるってわかったら、がまんできなくなっちゃって……。ジェックス先生がコレ──」
ユアンがさらっと取り出したモノを見て、エミリオの警戒心は復活した。
ユアンの右手に握られていたのは、子供の手には似つかわしくない、装飾の施された大きめのシルバーのハンドガンだった。
「かしてくれたし、デッキは大混乱だし、こっそりきちゃいました」
テヘッ、とあとに続きそうなくらい、ユアンは頬を紅潮させて無邪気に微笑んでいた。
「学生もこの作戦に参加してるんですか?」
銃口の位置をちらっと確認しつつ、エミリオはいちおう確認の為に訊いてみた。
「そうなんですよもうたいへんなんです!」
ハンドガンを持ったままペンギンのように両手をバタバタさせたユアンは、続ける。
「エミリオ先輩つかまったら処刑ですよ処刑!」
ユアンはさっきから、あのお店の焼きたてパンは2時には売り切れる──とかそういう平和なノリだった。
「ふーん」
エミリオはエミリオでそんなの分かっていたのでいたって淡白だ。
「でもだいじょうぶです! エトワールを連れてってもうしませんってちゃんとあやまれば、きっとゆるしてくれると思うんです! ついでにエンプティーにおそわれそうになっていたぼくを助けたってことにすれば、もうかんぺきですよ!」
呆れたエミリオはため息をつく。
「そんな訳ないでしょう。というか、別に許して欲しいなんて思ってません。そんなことはもうどうだっていいんです。たとえば昇格できたとしても、戻るつもりはありません。僕は──」
エミリオは言いながらハルカの傍に寄り、ハルカの腕を引っ張って後ろから肩を抱いた。そのままユアンを見る。
「エトワールを──ハルカを、ドイツから守るって、もう決めましたから」
ユアンの表情は途中からどんどん消えていき、最後には、楽しみに取っておいたケーキを誰かに食べられてしまった時のような顔になった。
「なんで……。どうしてですかエミリオせんぱい……? どうしちゃったんですか? なにがいやなんですか? ひとり部屋だってあるし、成績はすごくいいし、16歳なのに上級だし、お金もたくさんもらってるし、大人がやるような大きな任務だって、まかされたりしてたじゃないですか! 戻ってきてくださいせんぱい!」
ヒステリックなユアンに辟易してきたエミリオは、とりあえずハルカを背中に移動させた。
ユアンは、エミリオの深い部分を何も知らないのだ。ドイツへ行くことになった経緯も、妹のアナのことも、シュナイダー元帥の日常的な暴力のことも、ほとんど毎日ボロボロになりながら深夜に魔法の練習をしていたことも、シュナイダー元帥に贔屓されていると勘違いされてクラスメイト達から様々な嫌がらせを受けていたことも、楽しいことなど本当は何一つ無かったことも、心が死んでいたことも、何も知らない。
ただ、憧憬や羨望といった感情のみでエミリオを見ていたのだろう。
綺麗なものなんて所詮は存在しないのに。
嫌なことを思い出して不機嫌になったエミリオは、目を逸らして、
「いろいろ変わったんですよ、状況が。考え方とか、持ってるモノとか──いろいろ。とにかく、二度と戻る気はありません」
ユアンの持っているハンドガンをどう奪おうか、チャンスを窺っていた時。ついにユアンが銃口を向けてきた。震える両手で素人っぽく握っているが、引き金に指がかかっていた。
下手に無理矢理奪おうとすれば危険だ。もしも近くに治癒術を使えるヴァンパイアがいたとしても、今は魔法が使えないので意味はないし、ヴァンパイアといえども当たりどころが悪ければあっさり死ぬのだから。
警戒心をマックスにしたエミリオは、ユアンと銃口を交互に睨む。
「わかりました……。エトワールのせいなんですね……」
肩を落として呟いたと思ったら──そのあとは一瞬だった。
「ぼくにさわったら撃つよ!」
意外に素早いユアンは、いつの間にかハルカの右のこめかみに銃口を押し当てていた。
頭は当たりどころ云々の話しではないので、エミリオは突き飛ばそうと伸ばしかけていた両手を丸め、ゆっくりじりじりと下ろした。ずっと通訳していたハイコも、聞いていたチヒロも、緊張の面持ちで動作を止めた。使い魔2匹も大人しくしている。
ハルカはじっとしたまま、眼球だけを右側に向けていた。
「いますぐボクから──えっと、5階ぶんはなれてください! はやく!」
ユアンは興奮している──というか、やけになっている感じだった。所詮は10歳の子供だ。しかしだからこそあまり刺激するのはまずい。
落ち着かせるように両手の平をユアンに向けたエミリオは、
「わっ、わかりました。戻ります。ドイツに戻りますから、とりあえずソレ、下ろしてください」
「そんなのうそだぁっ。だまされないもん!」
確かに戻るなんて嘘だった。ユアンの警戒を解いたところでハルカを助けるというありがちな計画は、早くも失敗に終りそうだった。しかしエミリオはもう少しがんばった。
「ホントです。というか、銃は意外と頻繁に暴発するんですよ? エトワールを殺したなんてバレたらユアンも処刑ですよ? いいんですか? 僕はユアンが死んだら寂しいんですけど?」
「えっ? ……うっ……で、でも、エンプティーにやられたってことにすれば、だいじょうぶだもん。死体にも血はのこるし、持っていけばほめてくれるもん!」
ユアンは少し揺らいだ表情を見せたが、結局銃は下ろさなかった。
それならばと、エミリオは軽く微笑みながら続ける。
「じゃあ──ドイツに帰ったら、僕に触ってもいいですよ? これからはいつでも検索してくれて構いません。今その銃を渡してくれたら、すぐにでも認識させてあげますけど」
ヴァンパイアは相手の肌に直接触れることで、検索対象として認識することができるのだが、エミリオはまだユアンに触れられたことがなかった。
ヴァンパイアには、身分が上のヴァンパイアを勝手に素手で触ってはいけないという掟があるからだ。向こうから触れて来たりすでに触れたことがあったり、任務の効率を上げる為だったり家族だからやむなくだったり──例外はいろいろあるが、基本的にはNGなのである。
ユアンが自分を慕っているなら、この提案は魅力的なはず。
「えっ……? ホ、ホントですか!?」
思惑通り、ユアンは表情を明るくし、食い付いてきた。
しかし。急に我に返ったように首を横に振り、
「うっ、うそです! そんなのにだまされないんだから!」
視線を横に流したエミリオは、心中で舌打ちをした。
(チッ。かわいくないやつ……)
エミリオの内心など知る由もないユアンは、悲しげな表情で続ける。
「エトワールがいるかぎり、エミリオ先輩はずっとおかしいままなんですよ。大人たちだってそうです。派閥とかはよくわからないけど、だれが東京にいくかきめてるとき、暗殺までおこったんですよ? みんな変です! エトワールが存在しなければ、みんななかよしでいられたんです。だからこんなのはいなくなったほうがいいんです! なにもかもエトワールが悪いんです!」
“存在しなければ──”。“こんなのはいなくなったほうが──”。“なにもかもエトワールが悪い──”。
ユアンの暴言に、エミリオはついにキレた。
ハルカはエミリオにとって大切な存在だ。ハルカがいたからアナの声が治った。ハルカのお蔭で、以前は敵で傷つけたこともあるハイコ達と和解することができ、ルームメイトには少々問題があるが、ドイツにいた頃よりは比べ物にならないくらい穏やかで常識的な毎日を送ることができている。
それらを否定することは許さない。
「今の言葉、言ったこと後悔させてやるよ……」
冷ややかに睨みつけたエミリオは、ハイコとチヒロの腕を引っ張り、階段を1段飛ばしで上り始めた。踊り場に着いた時振り返って、日本語で、
「ハルカ! 必ず助けに行くので待っててください」
続いて目を据わらせて声色を物騒なものに変えたエミリオは、ドイツ語で、
「それとユアン。ハルカに何かしたら殺すぞ?」
戸惑うハイコとチヒロを引っ張り、エミリオは階段を上った。この場はいったん引き、見つからないようにあとをつけ、隙をついてユアンの銃を奪ってやるつもりだった。
そのあとは──とりあえず殴る。
(エッ、エミッ、エミリオせんぱいが……)
誰もいなくなった踊り場を、ユアンは涙目で見上げていた。
(怒った……)
本気で怒ったエミリオを見たことがなかったユアンは、ショックと恐怖で放心状態だった。
どうしよう。エトワールをころしたらエミリオ先輩もっと怒るかな……。でもぎゃくにエトワールが死ねば、先輩はあきらめて反省して、戻ってきてくれるかもしれない。
いまはエトワールが生きてるからあんなこと言うんだ。きっとそうだ。
ぜんぶエトワールが悪いんだ。ぼくがエミリオ先輩に怒られたのも、大人たちがおかしくなったのも、みんなみんなエトワールのせいだ。
エミリオ先輩はなにも悪くない。ただちょっと、エトワールの血にまどわされてるだけなんだ。
(……だから、やっぱりころしちゃえばいいんだ)
エトワールの少女を殺すことにしたユアンは、少女の腕を引っ張って階段を下り始めた。
ここだと誰か来るかもしれないので、どこか誰にも邪魔されない場所で殺すのだ。殺したらクローゼットにでも隠して、この船と一緒に沈んでもらおう。それですべてがうまくいく。
何もかも元通りになる。
エミリオ先輩がドイツに戻ったら、またシフトや魔法をたくさん教えてもらおう。
(ふふっ……)
楽しい未来を妄想したユアンは、少しだけ口元を緩めた。
しかし。
──殺すぞ?
エミリオの凍てつく眼差しを思い出し、一気に萎んでいく。
いつも手袋越しだったけれど、ユアンはエミリオに頭を撫でてもらうのが大好きだった。機嫌がいい時だけたまに撫でてくれるのだ。しかも笑顔つきで。
一人っ子のユアンにとっては、エミリオは兄のような存在だった。




