日朝緊迫
禎兆九年(一五八九年) 九月中旬 イスパニア領呂宋島 ルソン総督府 ファン・コーボ
総督室で私は総督と二人で顔を顰めていた。私達の前にはイエズス会から送られてきた文が有る。
「厄介な事になったね」
「はい、厄介な事になりました」
総督が更に顔を顰めた。
「まさかコンベルソが相国に助けを求めるとは……」
「日本は信教の自由を認めていますしキリスト教の影響力も強く有りません。行き易い所ではあります。まあ本人に助けを求めたというのは驚きましたが……。厄介な事になりました」
私が息を吐くと総督が渋い表情で頷いた。何時かはこんな日が来ると思っていた。それが今になっただけだと自分を慰めた。但し、時期は最悪だ。
「相国はコンベルソを庇護した。彼にとっては信教の自由など当たり前の事なのだろうな」
「そうですね。誰が何を信じても自由。我々にとっては悪夢ですよ」
総督が頷いた。
「多くのコンベルソが日本に逃げるだろう」
「ええ、逃げるでしょう。動きが出ていますか?」
総督が首を横に振った。
「まだそれらしい動きは無いよ。幸いこのマニラでは異端審問は厳しくない。危機感を感じていないのだと思う」
「有り難い事ですよ。腹は立ちますけどね」
マニラには相当数偽キリスト教徒が居る。異端審問を厳しくなどしたらあっという間に逃亡者が増えるだろう。
総督が文を睨んだ。
「七月の中旬か……。少し遅いね」
「文を出したのは八月の半ばでしょう。文には八月の頭にマカオのカピタン・モールが来た事が記されています。そこまで待ってから文を出したのです。カピタン・モールは大人しく引き上げたようですね」
総督が”フン!”と鼻を鳴らした。
「当然だよ。あの国で勝手な事をすれば相国を怒らせる事になる。それがどれほど危険か……。それに我々は明の目を日本に向けようとしているんだ。そうなれば日本の目をフィリピンから逸らす事が出来る。勝手な事をされては困る」
総督が語気荒く言った。相当に日本を恐れているのだと思った。
「イエズス会もそれを分かっています。ロッケ・デ・メロ・ペレイラは我々に協力する事を約束しました。総督、一歩前進ですよ」
「そうだね」
漸く総督が顔を綻ばせた。そしてまた顔を顰めた。
「しかし大丈夫かな? そのコンベルソはデマルカシオンの事を相国に話していないかな?」
自分も顔を顰めた。
「それは私も気になっています。今のところ相国様に動きは無いようですが……」
世界分割。そんな事を相国様が知ればとんでもない事になる。直ぐさま日本の兵がこのフィリピンに押し寄せるだろう。
「国内で儀式が続くのだろう?」
「ええ、天下統一を成し遂げましたから祝賀の行事が続くようです。ですがそれも八月までと聞いています」
今は九月の半ばだ。動くのならそろそろ動きが見えても良い。
「厄介な相手だよ」
「ええ、厄介な相手です。危険な相手でもあります。だからこそ明を日本にぶつけなければ……」
総督が大きく頷いた。
「そうだね、君の言う通りだよ。明と日本を争わせる。そうなれば日本がこのフィリピンに兵を向ける事は無い」
「ええ、その通りです。我々は安全、いや我々の勝ちです」
明と日本を争わせれば簡単に戦争は終わらない筈だ。終わらせようとする動きが出れば阻止すればよい。両者とも疲弊するだろう。そこに食い込むのだ。
禎兆九年(一五八九年) 九月下旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 勧修寺晴豊
「此処で飲むお茶は美味いな」
私の言葉に妹の阿茶局が口元を袂で隠しながらクスクスと笑った。
「そのお茶は兄上から頂いたものございますよ」
「そうか」
自分の家でも飲んでいるが此処で飲む方が美味いと感じるのは妹の人柄のせいだろう。ゆったりと気持ちよく飲ませてくれる。
「お疲れのようでございますね」
「うむ、宮中は煩くてな」
妹が心配そうに私を見た。
「……何かございましたか?」
「此処に来る途中で中山三位宰相と今出川権中納言を見かけた。二人とも随分と興奮しておじゃった。似たような光景を彼方此方で見かけるわ」
口から泡を飛ばさんばかりだったな。
「それは相国の夜の参内の件でございますか? 大樹も参内したと聞いております」
私が頷くと妹が小さく息を吐いた。
「あの頃は色々と儀式が有って忙しかった。何が話されたのかと話題になったのは九月に入ってからでおじゃったな」
「琉球王の件もございました」
「そうでおじゃるの。天下統一、大政の委任、琉球王の任命。いずれも慶事でおじゃろう。皆が喜んだ」
参内の事を忘れたわけではないが自然と後回しになった。
「朝鮮が対馬を朝鮮の領土だと主張していると聞きました。真でございますか?」
「真じゃ。相国は朝鮮と国交を結ぼうとして何度か朝鮮に使者を送っておじゃる。だが朝鮮は無視するだけなのだとか」
妹が首を傾げた。
「何故でございましょう? 相国が日本を統一すると朝鮮は分からなかったのでしょうか?」
「そうではおじゃらぬ。朝鮮が認めたのは明から日本国王に冊封された足利じゃ。足利を追った相国は謀反人なのじゃ。認める事は出来ぬ」
妹が目を瞠った。そして”そんな”と小さく呟いた。
「馬鹿げておじゃるの。だが事実じゃ。そしてここ最近になって朝鮮は対馬を朝鮮の領土だと主張しておじゃる」
「……朝鮮は相国が琉球を滅ぼした事を知らぬのでしょうか?」
「それはおじゃらぬ。琉球は朝鮮に日本に攻められていると伝えた。それに相国も琉球を滅ぼすと朝鮮に伝えた」
妹が強く目を閉じた。そして開いた。
「宗氏が朝鮮に臣従などするから……」
そうだな、その通りだ。宗氏が朝鮮に臣従などしなければこんな事は起きなかった。あれは最初の九州攻めだった。島津を滅ぼした後、宗氏が朝鮮に臣従していると分かった。あの時、朝廷では宗氏を断罪にすべきだという意見が上がった。だが……。
「対馬は貧しいのだ。米が穫れぬ。宗氏は朝鮮との交易で生きていくしか道がおじゃらぬ。そして朝鮮は臣従を求めた」
「ですが」
私が首を横に振ると妹は口を閉じた。
「足利が強ければ足利の力で交渉出来たでおじゃろうの。だが足利は弱かった。宗氏には臣従するしか道は無かったのじゃ……。だから相国も宗氏を咎めなかった」
咎められなかったのだろう。宗氏から従属は交易のためで対馬は日本の領土だと言質を取るだけで終わらせた。宗氏は二度目の九州遠征で対馬から追われた。だがそれは家臣の一部が勝手に竜造寺に通じたからだった。朝鮮との関係を相国に咎められたわけではなかった。
「宗氏が対馬から追われて如何程になりましょう?」
「二年じゃ」
答えると妹が”二年”と呟いた。この二年で関東から奥州が制圧された。あっという間だ。西が平定された事で兵力を東に集中出来たからだろう。
「おかしな話でございますね。この二年、朝鮮は対馬を自国の領土だとは言っていないのでしょう? それなのに今になって何故……」
妹が私を見ている。
「兄上、何か有るのですね?」
「対馬で銀が出たらしい」
妹が目を瞠った。
「では銀が目的で?」
「だと思う」
頷くと妹が息を吐いた。
「明は銀で税を納めさせるのでおじゃるがその銀が不足しているらしい。丁度相国が琉球を攻めた頃、明は朝鮮に使者を送って銀を納めろと要求した」
「なんと……、本当でございますか?」
頷くと妹が首を左右に振った。そうじゃの、まるで強請よ。信じられぬわ。
「朝鮮は銀は無いと断った。だが使者も引き下がらぬ。朝鮮は僅かな銀の他に様々な財を渡して収めたと聞く」
「では朝鮮は明に銀を納めるために?」
頷くと妹が息を吐いた。
「朝鮮はまた明が銀を要求すると見ている。それが相国の見立てじゃ。朝鮮は明の使者に銀や海産物を渡しこれらは日本に有ると言ったらしい」
「なんと! 朝鮮は明を唆したのですか! 卑怯な!」
妹が顔を真っ赤にしている。
「対馬を朝鮮の領土だと主張するのもそれが狙いでおじゃろう。日本が朝鮮の領土を奪った。その領土からは銀が出ると言えば……」
妹に視線を向けると大きく頷いた。
「明の視線は日本に向かう。そういう事でございますね」
「そうでおじゃろうの」
「では皆様が怒っているのはそれが理由でございますか」
「うむ、そなたは卑怯と言ったが皆も卑怯だと言っておじゃる。明の兵力を利用して対馬を奪おうとしているのでおじゃろう。銀は渡しても対馬は朝鮮の領土になる。煩い相国も黙らせる事が出来る。そんなところよ」
妹がまた”卑怯な”と言った。
「皆が卑怯だと言うのは恐れもおじゃろう。明が攻めてきたら、そう思っているのよ。元寇の例しもある」
「左様でございますね。イスパニアも攻めてきました」
「うむ、日本も琉球を攻めた」
国内で争う時代は終わったのかもしれぬ。これからは国と国が争う時代になったのだろう。その事を言うと妹も頷いた。
「相国が天下を統一したのは幸いでございました。足利の天下であったら……」
「皆がそれを言うわ。足利が滅んで良かったと。足利の天下が続いていれば宗氏は朝鮮に従属したままでおじゃろう。そして朝鮮に銀を要求されても唯々諾々と従ったかもしれぬ。交易での優遇と引き換えにの。そうなれば対馬は本当に朝鮮の領土でおじゃろう」
「それもございますがイスパニアの侵攻にも対処出来なかったと思います」
「そうでおじゃるの」
弱い武家の棟梁など無意味で無様よ。相国が対馬から宗氏を取り上げ朽木の直轄領にしたのは正しい事だった。あれで対馬は日本の領土だと相国は朝鮮に示したのだろう。今では朽木の水軍が対馬を守っている。
「相国はどうするのでしょう?」
「朝鮮に謝罪を要求するようでおじゃるの。対馬は日本の領土。朝鮮が明を唆すような事をしたのは許せぬと。謝罪しなければ戦に訴えると」
妹の身体が強張った。
「本当にそのように?」
「左府からそう聞いた」
「左府から?」
「例の陣定めの礼でおじゃろう。詳しく教えてくれたわ。相国は本気だとな」
妹が”なんと”と呟いた。
「皆が朝鮮討つべしと言っておじゃる。皆も許せぬのよ、朝鮮のやりようをな。相国が本気だと知って喜んでおじゃる」
「大丈夫なのでしょうか?」
「分からぬ。だが見過ごせば朝鮮は更に図に乗ろう。朝鮮を抑えるのには已むを得ぬ事なのかもしれぬ」
妹が息を吐いた。
「朝鮮は明に助けを求めますよ」
「かもしれぬ。しかし琉球は見殺しにされた」
「……朝鮮も見殺しにされると?」
妹が窺うようにこちらを見ている。
「それは分からぬ。琉球は島でおじゃるが朝鮮は明と地続きじゃ」
見殺しは無かろう。もっとも明の皇帝は愚かだと聞く。どうなるかは分からぬ。
「脅しという事は?」
脅しか……。
「有るかもしれぬの。琉球を滅ぼした後でおじゃるからの。朝鮮も日本を侮るのは危険だと分かっていよう。それを見越して相国は強く出ようとしているのかもしれぬ。しかし謝罪出来るかは分からぬ。朝鮮はこれまで相国を相手にしておじゃらぬ。そういう相手に謝るのは……」
妹が”難しゅうございますね”と言った。
そうだな、難しいだろう。だが朝鮮が日本との戦を望んでいるとは思えぬ。いざという時、明が頼れるか、見殺しにされるかもしれぬという不安が有る筈だ。となると何処まで押すか、何処で譲るかの駆け引きになるのかもしれぬ。簡単には行くまい。相国がその駆け引きに何処まで付き合えるかかもしれぬな。
禎兆八年(一五八九年) 九月下旬 山城国葛野郡 近衛前久邸 近衛前久
庭の紅葉を見ながら息子と茶を飲むか……。まったりとしているわ。
「大分広まっておじゃります」
「そのようでおじゃるの」
「舅殿の目論見通りで」
息子の右府が顔を綻ばせた。宮中では誰も彼もが朝鮮の無礼は許せぬと息巻いている。辟易するわ。
「勇ましいのう。もっとも平素勇ましい事を言う者に限っていざとなれば腰が抜けるわ」
「……」
息子が曖昧な表情をしている。
「麿はそういう者を何人も見てきた。煽られるでないぞ。適当に相槌を打っておけ。それで十分でおじゃるからの」
「はい」
「それと余り煽ると後々恨まれよう。知っていて煽ったのかと」
「確かに」
「ほどほどにしておけ」
息子が頷いた。武家ならば敵を騙すには先ず味方からと言える。だが我等は公家よ。余り遣り過ぎると恨まれよう。
「それより琉球王の所には行っているのか?」
「はい、二日前に関白殿下と共に」
「そうか、どうでおじゃった?」
息子が顔を綻ばせた。
「喜んでおじゃりました。京都奉行の伊勢兵庫頭も良く来ると言っておじゃりましたな」
「そうか」
「公家も来るようでおじゃりますぞ。最初は琉球の話を聞きたがったようでおじゃりますが最近は琉球の楽を学びたいとか一緒に奏したいとか言うそうです」
「なるほどな」
悪くない。琉球王は公家達に受け入れられつつある。
一度帝の前で奏してもらうか? いや、かつては王であったのだ。他者のために奏じるなど屈辱に思うかもしれぬ。止めた方が良かろう。一緒に奏するなら良いか。帝には笛か琵琶を、琉球王にも楽器を奏でて貰う。それならば君臣相和すという事になる。公家達も益々琉球王に親しもうとするだろう。一度琉球王に話をしてみよう。
「野分が無いのが嬉しいと言っておじゃりました」
「野分?」
「はい、琉球は夏から秋にかけて野分が多いそうです」
「ほう、そうか」
なるほどと思った。琉球王が日本に来たのは七月だった。野分が来る前に日本に来たのだ。今は嬉しいと言っているがいずれは寂しいと言うかもしれぬな。
「時々、この国の言葉を話します。片言ですが」
「それは良いの」
「はい」
琉球王は日本語を学んでいる。それは日本に馴染もうとしている証拠よ。同じ言葉を話す。それが一番親しみやすいからの。そのために努力しているとなれば当然だが皆が琉球王に好意を持つ。悪くないわ。
「清水寺にでも行くかの」
「琉球王とですか?」
そんなに驚く事か?
「紅葉を楽しみながら散策する。悪くおじゃるまい」
「まあ、それは」
息子が曖昧に頷いた。少しずつ琉球王を外へ連れだそう。そうする事で日本に親しんでもらうのだ。冬になれば冷える。南国生まれの琉球王には辛かろう。今のうちだな。




