権威と権力
禎兆九年(一五八九年) 八月下旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 近衛前久
紫宸殿には上座に院、帝。下座には納言以上の公家達が集まっていた。皆厳かに静まっている。帝は顔が白いと思った。緊張しているのかもしれない。院は感慨深げだ。畿内ではもう十年以上騒乱は無い。京の町も豊かに賑わっている。そして日本全土で騒乱が無くなった。一体何時以来の事か……。天下太平など言葉だけ、所詮は夢だと思ったがそれが実現した。夢は夢で無くなった……。
足利の世とは何だったのか……。足利の世は南北朝という混乱から始まった。そして最後は応仁・文明の乱から始まる戦乱で終わった。足利がもっとも輝いたのは三代義満、六代義教の時代だろう。だがどちらも戦とは無縁では無かった。いや、戦をする事で力を示し輝いたのだ。それを考えれば将軍の権力は極めて弱かったのだろう。個人の資質で左右されるものだったのだ。そして応仁・文明の乱以降守護が在京しなくなった。将軍は孤立した。将軍の権力はさらに弱体化した。
義輝も義昭もその弱さに苦しんでいた。いや、振り回されていたのかもしれぬ。義輝は三好を、義昭は朽木を憎んだ。皮肉な話だ。義輝の時代、朽木は無二の忠臣だった。だが義昭の時代になると朽木は成り上がり、増長者と蔑まれた。義輝の時代も義昭の時代も朽木の当主は相国だった。だが身代は違った。義輝の時代は近江の北半分だった。三十万石ほどだろう。しかし義昭の時代には百万石を越え二百万石に近かった。義昭にはそれが許せなかったのだろう。
馬鹿げていると思った。義輝も義昭も大きな大名を討てというだけだった。協力して京、朝廷を守り繁栄させる事など考えなかった。当然だが朝廷は衰微し京の町も荒れた。あの二人にとっては京も朝廷もどうでも良かったのだろう。将軍の脅威になる大名が邪魔なだけだった。相国は足利を、いや義輝や義昭をどう思っていたのだろう? 随分と忠を尽くしているように見えた。しかし相国は足利の政を恣意的だと非難した。
確かに恣意的だった。理念など無かった。有ったのは大きな大名は邪魔だという感情だけだった。馬鹿げていると思い軽蔑しただろう。
「ふふふふふ」
「如何なされました?」
九条前関白が訝しんでいる。”何でもおじゃらぬ”と答えるとこちらに関心を失ったようだ。儂が今日の日を喜んでいると思い面白くなかったのかもしれない。確かに喜んでいる。だがそれ以上におかしかったのだ。
”天下は天下の天下なり。一人の天下に非ずして天下万民の天下なり”。この言葉を義輝や義昭が聞いたら如何思うだろう? 馬鹿げていると一笑するか、それとも天下は足利のものだと激怒するか。いや、あの二人だけでは無いな。平清盛、源頼朝、足利尊氏、皆が仰天し否定するだろう。しかし義輝や義昭に出来なかった天下の静謐は相国が成し遂げたのだ。だとすれば”天下は天下の天下なり”。その言葉こそが正しいのだろう。
そしてその言葉から大政の委任と奉還が生まれた。おかしいわ。天下を統一した相国が天下は自分の物では無いと言うのだ。そしてそれは朽木家の当主に代々引き継がれる。天下は天下万民の天下。なればこそ政は恣意的な部分を廃し万民のために行わなければならぬ。そういう理が生まれる。世を治めるのは天下を私物化した足利から天下を万民のものと考える朽木へと変わった。やはりおかしいわ。笑うのを堪えるのが一苦労よ。……来たか……。
飛鳥井准大臣の姿が廊下に見えた。准大臣が立ち止まり背後を振り返った。そして相国が、大樹が姿を現す。二人が部屋に入ってきた。しずしずと前に進むと座った。二人が頭を下げる、そして上げた。
「征夷大将軍、朽木堅綱にございまする。遅くなりましたが関東、奥州を平定し天下を統一した事を御報告致しまする」
帝が”うむ”と頷いた。
「御苦労であった。そなたと相国の力によって日ノ本から戦乱が無くなった。良くやってくれた」
「畏れ入りまする」
「征夷大将軍に相応しい働きよ。相国、頼もしい息子だの」
院の言葉に相国が”畏れ入りまする”と頭を下げると大樹も頭を下げた。
「これからも天下の静謐を守るために力を尽くして欲しい。日本の内だけでは無い、外でもだ。頼むぞ」
「必ずや、御期待に添いまする」
「父と共に力を尽くしまする」
二人が頭を下げた。日本の外か。イスパニア、ポルトガルの事であろう。帝が緊張していたのはこれが理由かもしれぬ。一昨日の会見で南蛮が世界を分割して治めようとしていると分かった。容易ならぬ事よ。日本は境界線の真上にある。イスパニアからもポルトガルからも狙われよう。相国のイスパニア攻めはそれに対する反撃だ。そして明に対する兵糧攻めでもある。九条前関白はイスパニア攻めに反対していたが相国の話を聞いて積極的に賛成した。
「天盃と御剣を賜りまする」
飛鳥井准大臣の言葉に二人がまた頭を下げた。女官が現れ二人の前にそれぞれに三方と銚子が運ばれた。女官が盃に酒を注ぐと相国と大樹が飲み干し盃を懐紙に包んで懐に入れた。そして烏丸権大納言と勧修寺権大納言が三方を運んできた。三方の上には短刀と浅黄緞子が乗っている。
「粟田口藤四郎良光の作におじゃります」
「来孫太郎国俊の作におじゃります」
相国と大樹が三方を受け取り一段と深く頭を下げた。天下統一の報告は終わった。乱世は終わった。院と視線が合った。院が微笑みながら微かに頷いた。自分も僅かに頭を下げた。漸く此処まで漕ぎ着けた。長かった。だがそれも已むを得ぬ。戦国の世は百五十年続いたのだ。院や儂は生きてこの日を迎えられたのだ。それで十分よ。
禎兆九年(一五八九年) 八月下旬 山城国久世郡 槇島村 槇島城 朽木堅綱
宮中から槇島城に戻り衣服を改めてから父と共に茶を飲んだ。体に有った強ばりが抜けるような感じがした。
「疲れたか?」
父が笑いながら問い掛けてきた。”はい”と答えた。天下統一の報告、左程に時間が掛かったわけではない。だが身体には間違いなく疲れがあった。
「明日は大極殿で大政の委任の儀式がある。その場で相国府の開府も報告する」
「はい」
これにも立ち会わなければならない。だが私の発言は無い。それだけ楽だろう。
「それが終われば上杉、毛利、三好、松永、内藤達が此処にやってきて祝辞を述べるだろう。その後で家臣達からの祝辞を受ける事になる。一日がかりだな」
溜息が出そうになって堪えた。
「明後日は琉球を征服した事を改めて報告する。琉球王を改めて任ずる事になる。そして夜には上杉達にイスパニア攻めの事を話さねばならぬ」
今度は溜息が出た。天下の統一、琉球の制圧と報告が続く。そしてイスパニア攻め。日本は確実に海の外に武威を振るいつつある。
「儀式というのは疲れる。特にそなたは朝廷との付き合いが無い。余計に疲れるだろう」
「父上こそお疲れではありませんか?」
父はもう四十を超えた。身体に不調を感じてもおかしくない年齢になった。今年の初めには熱を出して大騒ぎになっている。
「疲れるが已むを得ぬ。儀式というのは形だ。政には形を整えるのが大事な部分もあるからな」
「はい。大政の委任と奉還は朽木の政の基になると思います。疎かには出来ませぬ。それに琉球王の任命の件も琉球の統治を安定させるために必要です」
父が頷いた。
「儀式は大事だが儀式に囚われるなよ。囚われると政が疎かになる。政の本質は実であり儀式とは虚飾だ。どちらが大事かは言うまでも無い。それを忘れるな」
「はい」
朽木は武家だ。武家は実を尊ばなければならぬ。それを忘れれば朽木は力を失うだろう。足利と同じになる。その事を言うと父が満足そうに頷いた。
「その通りだ。足利と同じになれば世は乱れるだろう。もうそんな事が許される時代では無い」
「はい。イスパニア、ポルトガルが日本を狙っております」
父が”そうだな”と頷いた。
「明も忘れるなよ。明は間違いなく国が傾きつつある。あの国は大きいからな、そういう事が見えづらいのだ。だがあの国が滅べば間違いなく周辺の国々が混乱する」
明が滅ぶ。想像も付かない。しかし明が衰えつつあるのは事実だろう。
「やはり銀が不足している事が大きいのでしょうか?」
父が首を横に振った。
「それは本質では無い。明の皇帝が民を顧みぬからだ」
「皇帝が愚かだと?」
父が頷いた。そして何を思ったか”フッ”と笑った。
「自分の墓作りに納められた税の四分の一を注ぎ込むのだぞ。それも何年も。そういう事を平然と行うのだ。そなたに出来るか?」
首を横に振った。明の税の四分の一? 一体どれほどの額になるのか……。
「俺も太閤殿下に問われた。墓は作らぬのかと」
「何とお答えになったのです?」
父が笑い声を上げた。
「死んでからで十分だと答えた。墓を飾るために銭を使うなど無意味だ。銭は生きている人間のために使えば良い」
素直に頷けた。そしておかしかった。父は天下を統一しても変わらないと思った。
「大樹は朝廷を邪魔だ、面倒だと思った事は無いか?」
「それは、有ります。特に今は儀式、儀式で面倒です」
父の笑みが益々大きくなった。
「権力は朽木が持ち権威は朝廷が持つ。不自由かもしれぬがそれで良いのだ。明の皇帝は一人で権力も権威も持つ。無謬の存在だ。だから馬鹿が皇帝になると歯止めが利かぬ」
権力と権威を一人で持つか……。それはどういうものなのだろう?
「朽木が得た権力は大きい。これまでの誰よりも力は強いだろう。だからこそ権力には歯止めが必要だ。俺は朝廷を利用して大政の委任と奉還という制度を作った。だがそれだけでは足りぬ。朝廷が歯止めになってくれればと思っている」
「父上が朝廷を重視するのはそれが理由なのですね」
父が一つ息を吐いた。
「朝廷は権力を持たぬ。だからこそ権力に囚われず公平な目で物事を見る事が出来る筈だ。少なくとも太閤殿下、院はそういう目をお持ちであった。朝廷の皆がそういう目を持つ必要は無い。だが数人で良いから持って欲しいと思う。天下が乱れれば朝廷も困窮するのだからな」
父が茶を一口飲んだ。自分も飲んだ。権力には歯止めが必要か。確かにそうだな、墓に税の四分の一も使う事は出来ぬ。考えた事が無かったな。
禎兆九年(一五八九年) 八月下旬 山城国葛野郡 近衛前久邸 朽木基綱
「漸く終わったの」
「皆様のお力添えにて無事に終わりました。心から御礼申し上げまする」
俺と大樹が頭を下げると太閤殿下、右府が頷いた。天下統一、大政の委任、相国府の開府、琉球の征服から琉球王の任命。それにイスパニア攻めの周知。上杉、毛利はデマルカシオンの話に目が点だったな。だが漸く終わったわ。ホッとした。まあ俺や大樹だけじゃないだろう。目の前に居る二人を含めて公家達も疲れた筈だ。
「直に九月じゃ。今年の重陽の節句は華やかになろう。皆が楽しみにしているようでおじゃるの」
「左様でございますか。こちらも精一杯務めさせて頂きます。ただ琉球王と王弟達は……」
太閤殿下が頷いた。
「そうでおじゃるの。宴には参加を見合わせた方が良かろう。嫌な思いをする事はおじゃらぬ」
そうだよな、酔っ払って琉球征服万歳なんて言われたら嫌だよな。
「如何でございましょう? 日本に慣れましょうか?」
太閤殿下が”ほほほほ”と笑った。
「まあ、大丈夫でおじゃろう。院も帝も琉球の安定が大事だという事は分かっておじゃる。琉球王を軽んじる事はおじゃらぬ。それは摂家も同じじゃ。上が受け入れれば下は自然と受け入れよう」
まあそうだろうな。
「よしなに願いまする」
俺が頭を下げると大樹も頭を下げた。琉球王には何かと気遣いを示した方が良いな。宮中に彼等の居場所を確保しないと。俺や大樹だけじゃない。他の息子達も遊びに行かせよう。琉球王と朽木家は親密だと示さなければ……。それと京都奉行の伊勢兵庫頭には念を入れて注意しておこう。
「先日の参内の事だが噂になっているようでおじゃるの」
太閤殿下が右府に視線を向けると右府が頷いた。
「何を話したのかと早速話題になっておじゃります。儀式の打ち合わせではないか、琉球王の事ではないかと。直に麿等に問うてきましょう。九月になれば教えようと思っておじゃります」
「左様でございますか」
重陽の節句ではその件で盛り上がりそうだな。
「あっという間に大騒ぎになろう。十月くらいには京に来て貰った方が良いの」
そうだよな、朝廷が騒いでいるのに無視は拙いよな。
「分かりました。直に朝鮮に送った使者が戻りましょう。その時には朝鮮の反応をお伝えする事にします。多分、朝鮮はこちらの書状を無視致しましょうな」
「謝罪の使者を送ってくる事はおじゃりませぬか?」
右府が訊ねてきた。
「先ず有りませぬ」
「戦を覚悟していると?」
「さあ、それは分かりませぬ」
史実でも秀吉の朝鮮出兵の時、朝鮮は日本を無視し続けた。最後に漸く使者を二人送ったが二人は真逆な報告をした。一人は日本が攻めてくると伝えもう一人はそんな事は有り得ないと伝えた。朝鮮王が採用したのは日本が攻めてこないという報告だった。
「もし謝罪の使者を送ってきた時は条件を厳しく致しましょう」
人質の要求と賠償金だな。朝鮮が受け入れる筈が無い。交渉は決裂だ。
「明が介入する可能性は?」
太閤殿下が問い掛けてきた。
「日本が朝鮮に攻め込まなければ明が兵を出すとは思えませぬ。或いは仲裁をしようとする可能性は有りましょう。その時は某を日本国王に冊封して銀を納めろと言ってくると思います」
義満と同じ扱いをする筈だ。こういうのって先例重視だからな。
いきなり明との戦にはならないと思うんだ。何と言っても元のクビライが元寇で二回失敗している。つまり簡単じゃないという認識が明の人間には有る。戦は周囲が反対するだろう。しかしね、イスパニア攻めが終われば話は変わってくる。南米の銀が明に届かなくなるんだ。つまりこのアジアで銀を明へ運べるのは日本だけになる。明に入る銀の量が圧倒的に少なくなるわけだ。そうなると明の銀不足からくるデフレは今以上に酷いものになるだろう。銀の価値は更に上がり税を銀で納めるのは厳しくなる。事実上の増税だ。
此処まで来れば銀不足が不況の原因だと分かる筈だ。銀を何処からか手に入れろという話になる。明が日本の銀に目を付けるのはその時だろう。つまり来年以降だ。危険なのは分かるが已むを得ない。そんな感じで戦が起きると思う。多分、最初は交渉だろうな。次に戦の準備、そして戦。二、三年は先だ。それまでにイスパニアをアジアから追い出す。
「もし、明が日本国王に冊封すると言ってきたら如何するかな?」
太閤殿下が俺を見た。
「如何する?」
大樹に振ると大樹が顔を紅潮させた。揶揄われたと思ったかな。
「断りまする。朽木は足利とは違いまする」
太閤殿下、右府が”ほほほほほほ”と笑い声を上げた。満足そうな笑い声だ。
「頼もしいのう。朝鮮の反応が楽しみよ。明が如何動くかもな」
太閤殿下が上機嫌で言った。
「某も楽しみにございます」
本当だよ。稀代の暗君万暦帝が如何反応するかがな。




