デマルカシオン(世界分割)
禎兆九年(1589年) 七月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
報告書の冊子を読み進む程に頭が痛くなった。いや、要領の悪い報告書じゃ無いんだよ。むしろ良く纏まっている。分かり易いと言って良い報告書だ。しかしなあ、……デマルカシオン(世界分割)か……。まさかこれをこの時代に報告書で読む事になろうとは……。史実じゃこんな報告書は無いんだけどな。しかも相当に詳しく書いてある。きっかけはヨーロッパでローマカトリック教会の腐敗から宗教改革が起こりカトリックとプロテスタントにキリスト教徒が分裂した事に始まると書いてあるんだから……。溜息が出そうになって慌てて堪えた。
この事態にもっとも危機感を抱いたのが腐敗の元凶だったローマカトリック教会だ。プロテスタントが分派行動を行ったせいでローマカトリック教会の勢力が減衰した。ローマカトリック教会は勢力拡大のために新たな信徒を必要とした。それを海外に求めたわけだ。イエズス会はそのもっとも有力な尖兵だ。そして海外進出は平和裏に進むとは限らない。強大な軍事力による援護が必要でその実行役がイスパニアとポルトガルだった。教皇勅書と布教保護権。ローマ教皇庁はカトリック教圏を拡大するためにイスパニア・ポルトガル両国の武力を利用しイスパニア・ポルトガル両国はローマ教皇から領土拡大の正当性を与えられる事で武力をともなった海外への進出を正当化した。
デマルカシオン(世界分割)。一四九四年に締結されたトルデシリャス条約で大西洋側の分割線が確定し一五二九年に締結されたサラゴサ条約で太平洋側の分割線が定められた。イスパニアとポルトガルは仲良く世界を分割する事になったわけだ。世界史の授業じゃ必ず出るし試験に出ると思って年号も覚えたよ。しかしなあ、トルデシリャス条約って百年近く前に結ばれた条約だ。その頃に世界を分割しようなんて発想が有ったんだから……。希有壮大なのか馬鹿なのか、判断に苦しむな。
碌でもない条約なんだよ。多くの原住民が踏み躙られ搾取され苦しむ事になった。滅んだ国だって有る。大航海時代というと冒険の時代と思われがちだがその本当の顔は宗教戦争の延長上にあり他者を力で踏み躙って富を奪うという時代さ。それを後押ししたのがローマカトリック教会とこの条約だろう。
「如何でございましょうか?」
問い掛けてきたのは石田佐吉だった。長崎から戻したんだよ。今日帰ってきたんだけど
いきなり人払いを願ってこの冊子を読んでくれと言ってきた。任務一筋、他人の視線なんて関心無いんだろうな。相変わらず変な頭の形をした困った奴。でも嫌いになれないのはなんでだろう?
「なかなか興味深い内容だな」
「はっ」
少しは喜べよ。俺だから受け入れるけどな、他の人間なら絶対信じないぞ。俺もな、知らない振りをしていたんだ。その方が宣教師達を欺けると思ったからな。しかしこの報告書でそれも難しくなったな。後で主税に見せなければならんし八門、伊賀にも見せる必要が有る。大樹、朝廷にもな。
「あの連中が好き勝手に振る舞う筈だ。ローマ教皇か。日本でなら帝から他国を攻め獲れ。何をしても構わないと言われたようなものだな」
佐吉が眉を上げた。
「日本の帝には実権は有りませぬ。ですがローマ教皇はそれなりに力を持っているようでございます」
確かにな、その通りだ。十字軍なんてものも有る。妙な話だけど坊主って何処の国でも好戦的だよな。何でだろう? 自分が正しいと思うからかな。間違っている奴は叩き潰せって事か?
「イスパニアとポルトガルは同じ男が治めているのか」
「はい、二代目フェリペという王が。中々の人物のようにございます」
「そうか」
ちょっとおかしかった。日本には二世とかいう言い方は無い。だから二代目フェリペだ。まあ、世界史を学べば必ず出てくる名前だ。小説にも漫画にも出てくる。イスパニア、ポルトガル両国の王になり太陽の沈まぬ帝国と言われるほどの広大な領地を治めた。イスパニアの最盛期を作り出した男だ。もっともイスパニアが傾いたのもこの男の時代だ。確か十七世紀になる前に死んだよな。秀吉と同時期だ。となると寿命はあと十年か……。楽しい十年になりそうだな。
「如何なされました?」
「うん?」
佐吉が訝しげに俺を見ている。
「お笑いになられましたが?」
「そうか、笑っていたか」
佐吉が”はい”と頷いた。気にするなと言うと佐吉は困った顔をした。呂宋からイスパニアが叩き出されたらフェリペ二世は如何するかな。
「イスパニアとポルトガルを治めるとは大したものだ。しかし敵が多いようだな」
「はい。中々勝ちきれぬようです。借金が払えずに破産もしております」
佐吉の報告書にはネーデルランド、イングランド、オスマントルコと敵対していると書かれている。それだけじゃないさ、デマルカシオンについて言えばフランスも不愉快に感じている。フェリペ二世が海外で転ければ大笑いするだろう。
破産は戦費の増大が理由だ。本来なら新大陸の銀でイスパニアの財政には余裕が有る筈なんだ。だがその銀は戦費に消え国内経済の発展に使えなかった……。ガレオン貿易も少しでも銭を得るためだ。宣教師達が明の征服を考えるのも明の富をイスパニアのものにしてプロテスタントを叩き潰す戦費にするためだろう。
「日本は境界線の上に有るか」
「はい。ポルトガル、イスパニアの双方から狙われる立場にありまする」
まあ知っていたけどね。ここは知らないふりだよな。元々日本にはポルトガルが食い込んでいた。しかしイスパニアにも権利は有るのだ。呂宋のイスパニアが攻め込んだのはイエズス会の宣教師達から依頼が有ったからだろうが日本が境界線上に有る。イスパニアにも権利が有ると思ったからだろうな。
「不愉快な話だな。勝手な事をするわ」
俺が鼻を鳴らすと佐吉が”はい”と頷いた。
「それにしても随分と詳しく記してあるな。一体どうやって調べたのだ?」
佐吉が”はっ”と畏まった。
「ポルトガルの商人から聞き出しましてございます」
「ポルトガルの? 言葉はどうした? 向こうの言葉を覚えたのか?」
佐吉が困った顔をした。
「いえ、そうではありませぬ。その商人は日本人の奴隷を連れておりました。その奴隷が通訳を務めたのです」
なるほどと思った。日本人奴隷か……。しかしよく連れてきたな。俺が奴隷売買を許さないと言っているのを知らないのかな。なんか面白くないな。
「それでどうやって話を聞き出したのだ? 簡単ではなかっただろう」
佐吉が表情を変えた。厳しくなった。
「その商人は朽木の庇護を求めて長崎の奉行所に来たのです」
庇護? ポルトガルの商人が朽木の庇護を必要としている?
「その商人は罪を犯したのか? それならば受け入れられぬぞ」
佐吉が首を横に振った。
「いえ、そうではないのです。その者は自分はコンベルソだと言っております。迫害を受けている。助けて欲しいと」
コンベルソ! 佐吉の顔をまじまじと見た。デマルカシオンの次はコンベルソかよ。佐吉、お前は俺を何処へ連れて行こうとしているんだ?
禎兆九年(1589年) 七月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
主税が地球儀を見ている。ポルトガルの商人が堺に持ってきた物だ。堺の商人が買い取り俺の所に来た。まあ現代の地球儀を見ている俺からすると適当だよ。地形も大雑把だしオーストラリアも無い。日本の地形も変だ。しかし大まかな配置は分かる。今はそれで十分だ。
「これをイスパニアとポルトガルで分け合うというのですか?」
主税が訝しげに訊いてきた。
「そうだ。日本は此処だ」
俺が日本を指さすと主税が面白く無さそうな顔をした。まあ小さい島国からな。不満なのだろう。
「連中、正気ですか?」
思わず噴き出しそうになった。いや、気持ちは分かるよ。俺だって何処かおかしいんじゃないのと言いたくなる。
「正気だろう。やる気満々だ。イスパニアは日本にも攻め込んできた」
主税が大きく息を吐いた。そして佐吉の持ってきた冊子に目を落とした。
「要するにキリシタンの内輪揉めがこの状況を引き起こしたと言うのでしょう? どうも信じられない」
その気持ちも良く分かるよ。
「仏教だって幾つもの宗派に分かれて大騒ぎだった。違ったか?」
「まあそうですが」
主税が不承不承頷いた。
「それにもう内輪揉めとは言えまい。国同士で争い殺し合いまでしているのだ。一つに纏まるのは無理だと思うぞ。だからローマ教皇は新しい信徒、新しい布教地を必要としたのだろう」
主税が”なるほど”と頷いた。頂点が一つに戻るのは無理だと諦めたのだ。状況は深刻だろう。その事を言うと主税が溜息を吐いた。あのなあ、暗くするなよ。
「しかし信じられますので? その男は追われているのでしょう。こちらの関心を引くために話を作った可能性が有るのではありませぬか?」
「これほどまでに大きな話、主税なら作れるか?」
主税が少し考えて首を横に振った。そうなんだ、事実は小説より奇っていうのは嘘じゃないんだよ。
「そうだろうな。俺にも無理だ。多少の誇張は有るかもしれぬが大筋は間違っていないのだと思う。イスパニアは東から、ポルトガルは西から来た。争う事も無い。棲み分けが出来ているのだろう」
頷いていた主税が俺を見た。
「しかし両国は二代目フェリペが治めているのでしょう。争う事が無いのは当然ではありませぬか?」
「取り決めが出来たのは百年近く前の事だ。フェリペが王になる前からポルトガルとイスパニアは取り決めに従っていたのだと思う。仲良く世界を半分こだ」
主税が溜息を吐いた。
「半分こって……」
「おかしな話じゃないぞ。俺だって織田と領地の切り分けをした。俺が伊勢で織田が三河だ。それの規模が大きくなっただけだ」
今度は泣き笑いのような表情になった。
「こんなの知りたくなかったですよ。異国奉行なんて引き受けるんじゃなかった。恨みますよ、大殿」
ぼやくな!
「俺なんて殿様だぞ。太政大臣だ。嫌でも向き合わなければならん。それに比べればずっとましだろうが」
主税がまた溜息を吐いた。あのなあ、俺まで溜息を吐きたくなるだろう!
「朝鮮の問題も有りますし」
だからぼやくなよ。
「対馬の事なら好都合だろう。イエズス会、ポルトガル、イスパニアの注意をそちらに逸らす事が出来る」
「まあ、そうですけどね」
溜息を吐くな。朝鮮には柚谷半九郎が俺の書状を持っていった。書状には対馬は日本の領土だとはっきり書いた。それに明を唆すような事をしたのは敵対行為で謝罪しなければ武力を使うと。まあ朝鮮が認める事はないな。書状も受け取らないだろう。でも良いんだよ。日本と朝鮮が揉めている。明も絡むだろうと思わせておいた方が呂宋攻めを隠せる筈だ。
「明日、その商人に会う」
「庇護するのですか?」
「分からん。会ってから決めるがその男は俺達の大事な情報源になる可能性が有る。主税も立ち会えよ」
「分かりました」
そう言うと主税は一礼して俺の前から下がった。うん、素直なのはお前の良いところだよ。平四郎ならぐだぐだ愚図るところだ。
「はあ、コンベルソか……」
一人になると思わずぼやいた。コンベルソと言うのはスペイン語で新キリスト教徒という意味なんだがポルトガル、イスパニア両国でユダヤ教からキリスト教への改宗者の事を言う。なんでそのコンベルソが日本にまで逃げてきたか? 大体想像が付くんだよ。これがまた政治と宗教が絡み合った厄介な話なんだ。
元々ポルトガル、イスパニア両国が有るイベリア半島はユダヤ人が多かった。そのイベリア半島なんだがイスラム勢力の支配下にあった事がある。当然だがキリスト教世界は反発して国土回復運動、いわゆるレコンキスタが起きるんだがこいつは四百年以上続く。その四百年の間に何がイベリア半島で起きたか? 簡単だ。排外主義が強くなりキリスト教徒以外を敵視する風潮が強まったんだ。当時のイベリア半島の支配者階級からすると悪い事じゃ無かった。国論は一致しレコンキスタに反対する人間は居ない。挙国一致体制が整ったのだ。国家として非常に強固になっただろう。
問題が無かったわけじゃない。その一つがユダヤ人も敵視された事だ。イベリア半島の支配者階級は頭が痛かっただろう。ユダヤ人の持つ政治力、経済力は決して無視出来るものじゃなかった。ユダヤ人は財政や行政、外交交渉などで活躍したしその商業活動が国の財政を支えていたという側面もあった。ユダヤ人有力者の中には貴族と婚姻関係を結ぶ者も居た。そこから支配者階級に加わる者も居たからだ。当時の支配者階級からするとユダヤ人は必要不可欠な存在だっただろう。
彼らは国民の排外主義がユダヤ人に向かうのを抑えつつユダヤ人の政治力、経済力をレコンキスタに積極的に利用していく。まあそうする事で国民の排外主義がユダヤ人に向かうのを抑えたのだろうし同時にユダヤ人に協力させたのだと思う。だがユダヤ人達にとっては居心地は必ずしも良くなかっただろう。特に支配者階級に食い込んでいる有力ユダヤ人ほど居心地の悪さを感じたんじゃないかと思う。ユダヤ教を捨てキリスト教徒になれと言われた人物も居た筈だ。
徐々にユダヤ教を捨てキリスト教徒に改宗するユダヤ人が出てくる。特に支配者階級に食い込んだユダヤ人ほど改宗した。これがコンベルツだ。コンベルツの中には本当にキリスト教を信じる者も居たが形だけの改宗でユダヤ教を信じ続ける者(偽キリスト教徒)も居た。そして改宗せずにユダヤ教を信じ続けるユダヤ人も居た。この偽キリスト教徒は随分問題になったらしい。キリスト教徒から批判が出たのだ。イスパニアでは異端審問所が創設された。
これはカトリック教会が設置していた伝統的な異端審問所とは異なる組織で取り締まりの対象としたのはコンベルツとモリスコ(イスラム教からキリスト教への改宗者)だけだ。ユダヤ人は含まれていない。コンベルツ、モリスコが本当にキリスト教を奉じているのか、改宗は形だけで本当はユダヤ教、イスラム教を奉じているのではないかを調べた。偽キリスト教徒だと分かれば厳しい処罰が待っていた。その殆どが処刑され財産は没収された。
酷いと思うか? そうだな、酷い話だ。だが酷いですませてはならないだろう。イスパニアでは偽装改宗はそれほど大きな問題になっていたのだ。イスパニアのキリスト教徒達はユダヤ教徒、イスラム教徒よりも改宗した振りをしてユダヤ教、イスラム教を信じるコンベルソ、モリスコを憎悪した。迫害、受容、同化、純潔。ユダヤ人にとってのレコンキスタはそれの混在だった。この状況が一変するのがレコンキスタの完了だ。
レコンキスタ完了前の事だがイベリア半島には四つの国が有った。カスティーリャ王国、アラゴン王国、ポルトガル王国、グラナダ王国だ。カスティーリャ王国は女王イザベル一世が治めアラゴン王国はフェルナンド二世が治めていたのだがこの二人は夫婦だ。共に一国の主権者が結婚してイスパニア王国が誕生する。さて、此処で問題だ。カスティーリャ人とアラゴン人の間で反発が生じなかったか?
そんな事は有り得ない。当然生じただろう。グラナダ王国が有る間は共通の敵が有ったから協力出来た。国土回復を叫べば皆が付いてきたのだ。しかしグラナダ王国が滅びレコンキスタが完了すると共通の敵が居なくなった。イザベル一世、フェルナンド二世の夫婦は困っただろう。そしてイスパニアをカスティーリャとアラゴンに分裂させずに一つにしておくにはイスラムに代わる共通の敵が必要だと判断した。それがユダヤ人だった。グラナダ王国が滅んだ直後、イスパニアではユダヤ教徒の追放令が出ている。相当数のユダヤ人が逃げ出したらしいがイスパニアに残る者も居た。生活基盤の有る土地を捨てられなかったのだろう。残った者はコンベルソになった。
イザベラ一世とフェルナンド二世はイスパニアをキリスト教徒の国にしたかったのだ。そうする事でカスティーリャ人とアラゴン人をイスパニア人にしたのだろう。幸いローマ教皇からカトリック両王の称号も貰った。イスパニアのキリスト教徒は一つに纏まれと言いたかったのだ。だからコンベルソ、モリスコに対する異端審問は苛烈を極めた……。
「ふふふふふふ」
敵国滅びて謀臣滅ぶという諺【ことわざ】が有るがこのユダヤ人に対するイスパニアの扱いは当にそれだな。
イザベラ一世とフェルナンド二世の狙いは当たっただろう。この後、イスパニアは強固なカトリック教徒の国になる。海外に進出して新大陸を発見しポルトガルと共に広大な領地を獲得した。イザベラ一世とフェルナンド二世の曾孫がフェリペ二世だ。フェリペ二世はカトリックの盟主としてローマカトリック教会を護っていく……。
俺がコンベルソに関心を持ったのはコロンブスの事を調べた時、コロンブスがコンベルソだという説が有ったからだ。真偽は分からない。コロンブスの出自ははっきりしないからだ。だがコロンブスの新大陸発見にはコンベルソが深く関わっているのは事実だ。コロンブスの航海に少なからぬコンベルソが出資している。そのためだろう、コロンブスの航海は迫害を受けているユダヤ教徒のために新天地を探すためだという説も有る。まあコロンブスがコンベルソかどうかはともかく、出資者のコンベルソがユダヤ教徒のため、コンベルソのために新天地をと考えた可能性は有るだろうな。
だとするとユダヤ人問題が新大陸を発見させキリスト教の分裂がデマルカシオンへと繋がっていったわけだ。宗教ってのは怖いね……。




