第一章/第四話
死ぬほどめんどくさい。いや死ぬ方がめんどくさいか。どっちにしてもめんどくさい。
昨日「明日電車乗るから早めに起こして」などと豪語した私を、身の程を知らない罪でぶん殴ってやりたい。学校に行きたくないことへのストレスなのか、なんか頭まで痛くなってきた。
「凪ー!起きなさーい!」
亜希さんの年不相応な声が一階から聞こえる。三十五だろあの人。今は純粋な悪魔の囁きにしか聞こえない。
「………亜希さぁん、私やっぱり…」
「なんて!?聞こえないんだけど!」
腹を括って足を布団から出した。シーツを蹴破らんばかりの力でじたばたしつつ立ち上がって、階段を降りる。もう八月がすぐそこで始まろうとしているのに、朝方の二階の廊下はひんやりと涼んでいるんだな。リビングでは亜希さんが食卓の脇に手をついてパンを齧っていた。柑橘のジャムを塗ったトースト。塗りたくった、という表現の方がおそらく適切だろう。ジャムそのものを間食に食べるような、無類のジャム好きだから。
「で、えーっと。これ電車代ね凪。私のマナカ貸すから改札前でチャージして使って」
「うん。ほんと助かる亜希さん」
「じゃ、気をつけてね!あ、あと駅で迷わないようにね!行ってきまーす!」
「いってらっふぁーい」
追加で持ってきた無糖のヨーグルトを飲み込みながらの挨拶になってしまった。朝食を食べ終えて、歯を磨きながらスマホを見る。学校に着くまでざっと一時間半かかる計算で、始業が八時四十五分だ。七時に出れば間に合うだろう。で、今六時三十分。全然時間があるように見えて気づいたら一時間とか悠に経ってるのが朝の落とし穴なのだ。さっさと脳を叩き起こしてさっさと制服に着替える。灰色のジャケットにくすんだ茶色のネクタイ。ジャケットと同色のスカートに足を通していたら裾に引っかかって盛大に転けた。痛いし。普通に擦りむいたんだけど。
アクシデントはあったものの見事三分で着替え終わり、二階のリュックサックにノートと筆箱、あと担任の行動を見越して教科書を入れておく余裕ができた。一式入っているのを確認して、ジッパーを閉める。キャンバスや画材を入れるようの鞄は別で持ってて、こっちのリュックはあまり使ったことがないから背負って歩くのはしっくりこない新鮮さがあった。
ICカードをチャージして、改札に当てる。ピッ、という目覚まし時計に似た電子音。自然と目が覚める。
電車に乗り込むと、最初に襲ってきたのは言いようのない不快感だった。一番の原因は匂いだろう。香水と煙草と服の化学っぽい匂い、全部混ぜたような。食べたことないけど俗に言うヤミナベを想起させる匂いだ。私が異常に慣れてないだけなんだろうが、正直キツい。
せめてもの救いにスマホの音楽を聴くことにした。最近気に入って使っている有線のヘッドホン、の前に使っていたやつだ。失くしたり壊したりしたら怖いから、外出先ではこっちを使う。ユーチューブで見つけてハマった洋楽を流す。歌詞はちんぷんかんぷんだしサビの単純な文しかわからないけど、それこそ音楽そのものが好きな証拠だろう。音のつながり、跳ね上がり、メロディーの緻密さ、絵と音楽、芸術同士感性の刺激に起因するものが同じな気がする。
私の世界が一瞬にして破られたのは、もう三曲目のイントロが流れ始めた辺りだった。
「ねぇねぇ、明野さんだっけ?久しぶり〜!元気してたぁ?」
誰だこいつ。しかし失礼ながら本当に覚えていない。別の明野さんと間違えてるんじゃないのか?
声を掛けてきたのは二人組の女子だった。私と同じ制服を着ている。ただスカートを折り曲げて短くしており、髪はおそらくアイロンで巻いていて笑みを湛えた顔には薄い化粧がされていた。
「…はい?」
「え、いやだからぁ。明野さんでしょ?あの、なんだっけ、不登校ってやつ」
思わず化け物を見るような目で二人を見てしまった。少しばかりすまないとは思うが、何より私は強制的に音楽を止めざるを得なかったことに対して存外苛ついていたので。
「いや、でさぁ、うん。久々に見たから、びっくりして」
「あ、そっか」
「え?そんだけ?なんか反応薄くない?」
笑い声が混じって嘲笑とも取れる台詞が右の女子高生から漏れた。二人して顔を見合わせたと思ったらまた私を見下ろす。
「…普通に考えてさ。中身のない話に反応しようってなるかな」
ぼそっと呟いただけだったのに、その言葉の発音一つ一つは驚くほど素早く彼女達の耳に伝ったのだろう。「あ、そっかぁ、ごめんねっ」と居心地悪そうな顔して去っていった。去り際、「ねぇあれなに?なんかさぁ、感じ悪くない?」「ちょ、言ったらダメだってそういうこと〜」「だってさぁ」といかにもな会話が聞こえて、私は苛立ちを抑えるためにヘッドホンを力強く耳に押し付け、折角だからと画集でも読むことにした。参考書にすればいいものを。でも今日が人生最後の日だったとして、参考書読んだらそれはそれで後悔するかもしれないから、これでいい。
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うちの学校はここら辺では有名な進学校なだけあって校舎がでかい。音楽室であろう場所から微かにピアノの音が聞こえてくる。
昇降口に向かっていたら、会いたかったような会いたくなかったような人影を見つけてしまった。
「おぉ、明野!!久しぶりだなぁ、お前ちゃんと来てくれたんだな!」
よく日に焼けた肌を擦りながら、溌剌とした笑顔を浮かべて担任がこちらに向かってきた。爽やかな夏の青空の下に人懐っこそうな眼光がからりと光っている。
「先生珍しいですね。ここ立ってるの」
「ああ。今日は部活の朝練ないからな!それもだけどダメ元で早坂派遣したから来てくれて助かったよ!」
「早坂って…昨日の子」
「そうだそうだ、早坂海澄。お前隣の席だったろ?」
早坂海澄。みすみって読むんだ。響きもなんだか穏やかな水面みたいだな。
「早坂な、お前が学校来ない間も色々お前のこと気にかけてたんだよ。昨日のもあいつが自分からおれが行きますって。…いい奴だからな、仲良くしてやってくれ」
「とりあえずありがとうって言っておきます」
「そうしてやれ!じゃあな!」
いい奴、の前にほんの少し担任の顔が思慮深くなったのを私は見逃していなかった。口がへの字に曲がり、眉が垂れ、顔の力がふっと抜ける。ばつが悪い顔とはこのことか。
校舎二階に上がって、突き当たりの教室に入る。二年七組。
クラスメイトは不登校児の登場に一瞬だけ得体の知れない何かを見るような目をしたが、すぐに興味を失って自分たちの輪の中で雑談に戻った。構わず自分の席に座る。隣を見ると、昨日と同じどこか冷たい表情の早坂海澄が座っていた。半袖のシャツから骨ばった腕が見えている。無意識に自分の二の腕を見た。早坂君?明らかに細すぎやしないか。
一心不乱に机に向かって、何をやっているのかと思えば夏休みの課題だった。昨日半分まで手を出した科学のワークを、もう終盤まで解き進めている。よく見たら二周目だ。一回丸つけの跡があって、隣に置いたノートにもう一度答えを書き込んでいる。
声をかけるのは諦めた。




