第一章/第三話
未完の絵がある。
二階の私の自室には大量の絵が飾られている。その中に一枚だけ、中途半端に色を塗られたキャンバスがぽつんと、勉強机の端に置かれているのだ。机の端に置けるほど小さなキャンバス。F0号。薄い下書きが透けて見えるほどさっぱり塗られたベースカラー。油絵の硬い質感で、翠と茶が混在して歪なモスグリーンの境界を汚く焦らしている。
私はこの絵がなんなのか知らない。知らないというか、何を描こうとしたのかてんで解りかねるのだ。下書き的にこうなんだろうな、ああなんだろうなと妄想するが、今ひとつピンと来るものがない。この感覚は絵描きを名乗る者として大切にしている。ゆえにもっと、わからない。この絵を見ると必ず立ち止まってその正体を探ってしまう。
案の定明日着る制服を取りに寝室へ行って、視線の中に捉えてしまった。押し入れにしまって置けばよいものを、毎回こうなる。呪われた絵画でもあるまいし、何とは言えないが何となく気になってここに置いて、それで答えのない課題を考えて無駄に時間を浪費して終わってます。って。
客観的に見たら馬鹿げすぎて何も言えない気がする。
クローゼットを開けて、取り付けられた鉄の棒に引っかかったハンガーを奥へ奥へと手繰っていく。一番奥に掛かったハンガーを引き抜いた。プラスチックのハンガーだったことに感謝すべきな力加減。掘り出された制服は裾の微かな衣擦れや腕を通した跡さえあったものの、ほぼ新品に近かった。目ざとく観察してようやく数ヶ月は着ていたのだろうという痕跡を発見できる程度。入学前、ふとこの制服の値札を見たことがあった。鮮明に脳裏に焼き付く桁数の多さに、何とも後味悪い後ろめたさが押し寄せてきたのだった。亜希さんに悪い。言い訳にしかならないけど、一年の間はそれなりに学校にも行っていたし、授業にも出席していたんだけどな。
自分の生活音以外反響がない床を歩いて、リビングと廊下の間にあるドアの出っ張りにハンガーを引っ掛ける。宙吊りになった制服を置いて、また廊下に出た。ダンボールの一番上にひっそり佇んでいた課題一覧のプリントを手に取る。結構すぐに終わりそうな量ではないか。入学前の春課題で、英語のワーク数ページやるのを間違えて一冊丸ごとやってしまった時の勘違い苦労に比べれば何ともない。
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科学の探究課題に頭を捻っていると、ドアノブががちゃがちゃ回される音がした。
「凪ー!ただいまー!」
え、と呻いて時計を見る。七時半。とっくにこんな時間になっていたのか。慌てて「おかえりー」と返して、シャーペンを置いて玄関に向かう。ビニール袋を両手に抱え苦しんでいる亜希さんが見えた。
「ちょっ…大丈夫なの」
「これを見て大丈夫なように見えるのかい!?」
「いやそれはね、決まり文句っていうか…」
ビニール袋から漂ってくるいい匂いに鼻腔がひくついた。罪悪感を背徳感でコーティングしたような、悪魔的に食欲を唆る匂い。…これは。
「まさかマクド買ってきてくれたの?」
「そうなのよ。今日会社でね、同僚がお昼にマック食べてて。私も食べたくなっちゃった」
そそくさといい匂いのビニール袋だけを受け取って、リビングへ踵を返した。後ろから亜希さんが「おーい、凪!それだけ持ってくな!」と騒いでいるが何も聞こえない。
食卓に袋を置いて、少しポテトの匂いが染みついた紙袋を引っ張り出す。亜希さんが見ている時は「ばっちい」と言われるからやらないのだが、紙の表面に付着した塩を指で取って舐めるのが割と好きだ。
ドリンクを並べていたところで、ジャケットを脱いでラフな姿になった亜希さんが食卓にやってきた。
「相変わらず準備早っ」
「食への執念は恐ろしいからね」
「毎回思うけど凪、引きこもりの食いしん坊絵描き女子ってなかなかにいい絵面のキャラしてるよね」
「申し訳程度に絵と掛けるの辞めてくれない??ていうか早く食べよ。冷めちゃう」
「へいへい。わざわざポテト揚げたてにしてもらったんだから感謝しなさいよー、あんた冷めてふにゃんふにゃんになったの食べないんだから」
「それは本当にいつもありがとう」
亜希さんは満足気に頷いている。待つことと我慢が朝の通勤ラッシュより嫌いな彼女が、自分のために揚げたてが出てくるまで待ってくれる。食は偉大だ。
「…あ。そうだ」
レタスがはみ出たハンバーガーを置いて、席を立つ。テレビの前に置いてあった封筒を手に取り亜希さんに渡した。同級生の色白男子から頂いた封筒。また名前忘れた。と思ったら封筒の下に書いてある。早坂海澄。まじまじと見るが、ここで死活問題が訪れた。なんて読むのかわからない。はやさか、までは読めるけど。
それにしても海が澄むって、綺麗な名前だ。絵にしたら水平線に溶け合う、波一つない穏やかな海になりそうだな。
「なにこれ」
「明日終業式で、なんか提出する?資料?があったっけないんだっけ」
亜希さんの手が中の紙を摘む。つるつるした表面に微かな光沢が残っていた。
「えっと。…補習って。ドンマイ凪」
「言うて自業自得だし」
「なんか健康調査書かないといけないみたいだわ。ボールペンちょうだい」
ポテトを持っていない方の手でペン立てから黒ボールペンを出した。亜希さんが気に入っている0.45ミリ芯のボールペン。メーカーが珍しいやつで普通の百均や文具店じゃまず売ってないけど。文房具オタクの亜希さん、遠路遥々日本一の品揃えだと謳われる文房具屋に赴いては、大量のペンやらノートやらを買って帰ってくるのだ。画材も買ってくれるから助かる。
「えぇっと…何年何組だっけ?」
「二の七」
「うぇーい」
なんの返事?それに亜希さんが学校の書類を書く時の最初の発言が「何年何組?」なの、もう何回経験しているかたかが知れない。半年以上言ってるんだから覚えて……一人を除いてクラスメイトの顔すら覚えてない私が言うことでもないか。
「あ〜…で、明日の朝なんだけど。電車使って行くから早く起こしてほしくて」
「電車。酔わない?」
「車でも酔ったことないのに」
「そーだったね」
ひと足先に食べ終えた私は風呂に入ることにした。亜希さんは冷蔵庫から缶ビールと惣菜を取り出し、完全に晩酌モードに見えたのでそっとしておいた。
風呂は苦手だ。たまにスマホで音楽を流しながら入ったりするけど、亜希さんに音楽の趣味がバレるのが恥ずかしくて基本無音で入る。そうしたら湯船に浸かってる時、余計な考え事に脳を支配されるのだ。しかし幸か不幸か、今日湯船で考えたことは「学校めんどくさい」の一言に尽きたので。これは果たして何に感謝すべきなんだろう。




