第一章/第一話
叶えられる時期を過ぎたら、それはもう夢でなくなるのだろうか。
例えば、「この年齢までにこんなことをしたい」という夢があったとする。しかし何らかの理由でそれが叶わず大人になってしまった時、その夢にやり直しはもう効かないのか。ともすると、時間ほどこの世の全てを牛耳るものはないのかもしれない。
私の人生はまさにその「やり直しできない」ことの連続だった。物心ついた頃には父が家を出ていき母と二人暮らし。体の弱かった母は生活保護を得てなんとか生活を切り盛りしていた。幼い私にその渦中に居る自覚はなく、日に日に体調を悪化させていく母がひたすらに心配だったのをよく覚えている。
突然だが、私には母が死んだ時の記憶がない。具体的に言えば、中学三年生の三学期あたりから中学卒業までの記憶だ。その途中で母は何らかの理由で亡くなったようで、同時に私もある事故に遭った、と。事故の内容すら思い出せないので私の中ではある種のミステリーと化している。気づいた時には、母の姉の亜希さんが私を引き取ることになっていた。亜希さんとは私が小学生だった時何度か会っており、料理下手な母に代わって冷蔵庫に惣菜を作り置きしてくれたのだ。ひ弱な母と違って食いしん坊と言われた私には嬉しい限りだった。
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時計を見る。午前八時四五分。始業時刻は午前九時。絶対に間に合わない。
入学と同時に購入した目覚まし時計は、電池を入れるのが面倒なせいで机の上で時が止まっている。宛にするのは専ら寝室の壁掛け時計だ。デザイナーの亜希さんが奮発したというそれは、艶のある木の盤面に細い秒針が光っており、時間通りに生きることを捨てた私にとっては無意味な時間経過を告げている。
諦めた。スマホを目的地に伸ばしかけた手をベッドに伏せて、自分も頭から突っ伏す。敷布団は柔らかく私の体を受け止めてくれるけど、現実はそうもいかない。
ただラッキーなのは、ここで私が学校をサボったところで、それを咎める人間がこの家に存在しないと言うことだ。ようやく脳が活動を始めたあたりで、一階からがさごそ物音が聞こえてきた。洗濯機の音だ。我が家の家具は大体がそのブランドの最新型なくせに、洗濯機だけ八年半も使っているものなのだ。いつも脱線しかけの電車みたいな轟音を立てて洗濯に励むわけだから、否が応でも起こされる。耐えかねてベッドから降り、寝室のドアを開けた。Tシャツにショートパンツで寝ていても熱帯夜は体を内側から不快にさせてくる。
「亜希さんおはよ〜…」
「あ、凪!おはよう。朝ごはん作ってあるから食べて。昼は適当に食べてね」
「ほんと?ありがと。今日帰り遅くなる?」
「今日はね……ふふ…楽しみにしてて」
何を企んでるんだ一体。亜希さんがこんな顔をする時は大体ろくでもないことの起きる予兆だ。どこからか寒気がしてきた。まあ、暑苦しかったしちょうどいい。
「まあいいや…行ってらっしゃい」
「ほーい!良い子で待ってろ!」
道中存在するあらゆるドアを元気よく閉めて出て行った。あんな活力どこから出てくるんだ本当に。時計を再度見る。…見たくないものを見てしまった。記憶を失ってからやや達観したと同時に時間の進みを早く感じるようになった気がする。
我が家の冷蔵庫の中は常に埋め尽くされている。その配置が乱れたことは一度もなく、几帳面な亜希さんの性格を丸々投影していた。中央に大量に積まれた惣菜の手前、平皿が鎮座している。そっと手に取るとまだ生ぬるかった。ここに放り込まれてそんなに経っていないのだろう。光沢のある盤の上にはいつも通り、サラダと目玉焼き、食パンが置かれていた。献立にはバリエーションを求める人なのに朝食だけは律儀に毎回同じもの食べるんだよなぁこの人。たまに朝マック買ってきてくれるけど。
申し訳程度に電子レンジを起動させ、寝室に戻って着替える。Tシャツと短パン。パジャマの色違いだろ、という脳内の声は一旦無視することにしよう。
パジャマを過労死気味の洗濯機に押し込んだらちょうどいいタイミングで電子音が鳴った。たまにこういうタイミングが良すぎる時すぐ誰かの意図的な操作だ、と思ってしまう私はもう少しファンタジーというものを覚えた方がいいのかもしれない。何はともあれ朝食を回収してテレビの前のソファに座り、ソファ前にもはやお飾りのように置かれた低めの机に皿を置いた。ガラスの板に金属の脚というなんともな出立ち。もはや高さは文机のそれだ。少々屈んで食べなければならないが、意外となんでもぴったり置けるのでなんだかんだ気に入っている。
電源を入れると亜希さんが出勤遅い日によく見ているニュース番組が目に入った。食パンを齧りながら見ていると、殺人事件やら強盗事件やら賄賂やら学校での死亡事故やら。ここ最近で物騒な事件多すぎないか。ここで気づいた。私がニュースをこれでもかというほど見ないからだ。世間知らず。改めて自分の情弱っぷりを理解してしまった。猟奇的な光景を彷彿とさせるニュースを耳に挟みながら朝食を取ることなど、医療ドラマ片手に白米を食べる私には朝飯前だ。
水が温い。そのせいでちゃんと皿が洗えているのかわかりづらい。私が家に引きこもって平和ボケしている間に、すっかり真夏になってしまったというのか。まだ七月だぞ。
食器を片付けて歯を磨こうと廊下に出ると、よりにもよってあれと鉢合わせてしまった。思わず後ずさる。
そう。課題。
私の高校は夏休みの課題が多いことで有名なのだが、その多さゆえに七月上旬に配布され取り掛かるのが恒例になっている(らしい)。斯くいう不登校を極めた私も例外ではないわけで。担任が汗だくでダンボール箱に入った課題を持ってきたときは本当に世界の終わりを見たような気持ちになった。あれから二週間が経っている。一切手を付けていないのだが、明日は終業式だ。強制参加。きっと「明野……」と担任が捨てられた子犬のような目で見てくるだろう。私の良心が痛むからあの顔をするのは正直辞めてほしい。
自分を律するように大きくため息。吸って、ダンボール箱に飛びかかった。がさごそ漁る。
物音。
私のものではない。玄関扉の向こうからだ。外側。頭の中で様々なパターンが組み立てられる。泥棒、違う。幽霊、今は朝だ。ゾンビ、あるかもしれない。
とっさにダンボールに入っていたワークを一冊掴んで丸めた。クレープのような形になったそれを剣道の体制で構え、玄関ににじり寄る。ゾンビはまだ蠢いているままだ。三、二、一……だめだ。怖い。




