プロローグ
がり。
不思議と痛みは感じなかった。
でも、熱い。なんだろう。傷を負った時の熱さじゃない。どちらかと言えば高揚のような。私の指先からはどくどくと脈打ち血が流れていた。思い切ったね、と軽口を叩く余裕さえあった。ただ開いた喉の奥だけがからからに乾いていて、指を通して鼓動が生々しく伝わってくる。
「ごめん。やっぱ痛い?」
ごめんという声に合わず、その手は私を逃すまいと、きつい限りに握り締めていた。
「君の力の方がどちらかと言えば、痛い」
「え?ほんと?ごめん」
あっさり握るのを指先だけにした。やってることの割に素直すぎないか。別に良いけど。
今考えれば、何をやっているんだと自分に呆れ返るばかりだ。全てを捨てて人を愛せる性分じゃない。そもそもこんなこと、君の迷惑にしかならない。迷惑を自分で呼びこんで、甘んじて受け入れてる。私が傍観者なら吐くと思う。目の前の光景が異常すぎて。
君の顔。元々白い肌だけど、今は薄暗がりの中でもっと白い。玩具を手に入れた赤子かと突っ込みたくなるくらい私の手をまじまじと見ていた。その唇から顎にかけて、真っ赤な鮮血が滴っている。横暴粗暴な赤のフラットカラーが、君という立体キャンバスに荒っぽく塗りたくられている。昔本で読んだ、もし私に色聴があるのならこれは耳を劈くドだ。黒ずんでるからオクターブ低いド♯かもしれない。
指の微かな震えに合わせて、私の心臓は早鐘を打っていた。本能が恐怖を告げるのだろうか。逃げられる足はとっくに捨ててきたというのに。痛みはいつだって私の脳を、心をどろどろに溶かしていくしかなくて。顔を歪めても、覗いた先の景色には変わらず君がいる。それで充分だと。思ってしまった。
きっと君の中に私は、真っ赤なキュビズムを描くんだろう。骨がラフを取って、血が体液に滲んで水彩のようなテクスチャーを生み出す。それを描き殴って初めて私は、私であることを信じていられる。今まで煙に巻かれていた私という人格を、否定せずに居られる。これは抒情詩だ。風俗画だ。人物というモチーフを砕いて噛み合わせて、かろうじて形を得た、最高の皮肉にすぎない。
結局どこに逃げても、誰も私たちを見なかった。その程度の優しさでは救われなかった。そうして得た希少という名の温もりの中で、私たちは盲目に縋った。人生というのはいつだってそうで、今ここで私たちが生きて、互いにこんな浮ついた感情を共有できていることすら奇跡に等しい。その感情に名前をつけてやれるほど、私たちにそれへの執着が無かっただけ。
私達は、どれだけ自分勝手なんだろうか。




