第1話
ケント・アーヴィングは、国家魔術師のアリシア・グレイに面会するため、峻険な山脈の峠を辿って、西方へと駿馬を走らせていた。エルノール国の王都エルランディスが出発地で、そこから暁の大塔へ向かうためには、この峠が最短経路である。
その経路は凸凹としており、不便であった。それは元を正せば、この大陸創生の際のプレート・テクトニクスが悪いのである。そこで、貿易商人たちは、大塔周辺の街に向かって、迂回路もしくは王都からの海路を用いるのが通例であった。しかし、ケントが勅命により携えている物品の重大性を踏まえれば、そのような選択肢はなかった。事前に送った書簡の中では、「機密事項につき、直接話して確かめたい」と記していた。
駿馬の蹄は、鳥の鳴く鬱蒼とした道のりを疾駆した。春が近づいており、峠は北方の山脈ほど寒さが厳しくはなかった。雪はほんの少ししか残っていない。太陽が燦爛と降り注いでいる。山道の高低差は激しく、梢は聳え立ち、地平線が見えるほどだった。そのため、一歩間違えれば、たった今、谷へと転がり落ちていった石ころの憂き目に遭う恐れも少なくない。しかし、愛馬は賢い本能をしていた。隠れた崖や道のぬかるみを巧みに探り当て、そこを避けながら、峠の下り道がなだらかになるまで、渾身の力で駆け続けたのである。
やがて峠は終わり、人里離れた平原へと続いていた。遠くの丘の上に小さな雲が浮かんでいる。風景は平和になった。ケントが愛馬をねぎらうと、彼は足取りのペースを落としながら、一本道をゆっくりと進んだ。川が近くにあったので、馬に水を飲ませるために休ませた。その川の水は清冽であった。ケントは近くに腰を下ろし、携行用の間食を食べた。それはウエハースのような食感に似ている。そして、これからの道のりを算段しながら、ケントは荷袋の中に封じられた大切なものについて考えた。
それは一つの魔法石であった。その石はエルノールが支配する領土の中で、東方の最果てにある「天蓋の山」で発掘され、アペイロンと命名された。拳ほどの大きさで、その色合いは海のようである。その深みをじっと覗き込めば、まるで遠近法が逆さまになるようだ。もちろん、この世界に鉱石などいくらでも産出するが、この石に限っては特殊な属性を帯びていた。そして、いかなるハンマーでも打ち砕くことができないほど、堅牢きわまりなかった。
この世界では、剣も魔術も、等価交換が基本である。卓越した能力を身につけたければ、その対価として同等の何かを差し出さなければならない。
にもかかわらず、このアペイロンを巧みに用いると、いわゆる永久機関の道が開かれる可能性があるのだった。それは天使でもあれば、悪魔でもある。世界秩序にとって、アルファであり、オメガである。いずれにせよ、永久機関が仮に可能になれば、世界の均衡が崩れるのは確実である。そうすれば、イール国との膠着化した戦争に終止符を打つのも難しくはない。
だからこそ、ケントはこうしたことに詳しいアリシアに、石を鑑定してもらう必要があった。これを至急行うことは、ギルバート王の命令でもあったのである。
馬は一通り水を飲み終わり、呼吸を落ち着かせ、足踏みを始めた。ケントはその背中に乗り、平原の道のりを再開した。しばらく行くと、人家が点在するようになった。目的地の大塔が遠景にあり、再開発された街がその手前にあった。
幾時間が経った。ケントは馬を疾駆させて、商人や住人がいる街を通り過ぎていた。これらの人々にとって、ケントが首都からいかなる使命を帯びているかは、知る由もない事柄であった。また、知らないほうが彼らにとって幸いであったかもしれない。
やがて、ケントは大掛かりな壁に囲まれた入り口に到着した。そこには門番がいたので、馬を降りて身分証を見せ、内部へと通された。そして、ケントは大塔に向かって歩き出した。




