4.5話
俺はしょうもない男だった。
若い頃からそうだ。
探検だけして。
酒を飲んで。
適当に生きてきた。
家庭はない。
嫁もいない。
子供もいない。
別に欲しいと思ったこともなかった。
仕事が面白かったからだ。
それで十分だと思っていた。
本当に十分だった。
だから四十を過ぎて気が付いた時。
何も残っていないことに少し驚いた。
探検記録。
金。
酒。
それくらいだ。
それでも困らなかった。
人間なんてそんなものだろうと思っていた。
だからモンブと会った時も、はじめは特に何も感じなかった。
少し変なガキだな。
その程度だ。
当時の俺は、探索者育成講習の臨時講師なんて仕事を押し付けられていた。
面倒だった。
若手なんて見ても仕方がない。
どうせ半分は辞める。
残った半分も数年後には違う道を行く。
何人も見てきた。
だから名前も覚える気もなかった。
その日も適当に説明して帰るつもりだった。
講習が終わる頃。
一人の若い男が手を挙げた。
痩せた青年だった。
頼りなく見えた。
「質問があります」
「何だ」
「死なない方法を教えてください」
思わず聞き返した。
「何だって?」
「ただ死なない方法です」
本気だった。
ふざけている訳ではない。
だが妙な質問だった。
若手はもっと別のことを聞く。
強くなる方法。
稼ぐ方法。
有名になる方法。
女にモテる方法。
大体その辺りだ。
なのにこいつは死なない方法を聞いてきた。
俺は適当に答えた。
撤退判断。
補給計画。
危険察知。
地図作成。
仲間選び。
無理をしないこと。
思い付く限り並べた。
するとモンブは全部メモし始めた。
一言も漏らさないように。
本気で。
少し失望した。
若い頃くらい無茶をしろと思った。
死なないことばかり考えている探検家なんて大成しない。
そう思っていたからだ。
講習が終わった後。
帰ろうとした俺をモンブが追い掛けてきた。
「ノグラさん」
「何だ」
「ありがとうございます」
律儀なやつだった。
今思えばあの頃からそうだったのだろう。
「一応聞くが、お前なんでそんなに死にたくないんだ」
そう聞くと。
モンブは少し考えた。
答えを選ぶように。
誤魔化すように。
だが結局。
真面目な顔で言った。
「帰らなきゃいけないんで」
「どこに」
「家」
拍子抜けした。
本当にそれだけだったからだ。
「親でもいるのか」
「いや」
「じゃあ何だ」
そこでモンブは少しだけ照れ臭そうに笑った。
「守りたい女がいる」
その瞬間だった。
俺の中で何かが変わったのは。
馬鹿だなと思った。
若いなとも思った。
だが。
嫌いじゃなかった。
むしろ少し羨ましかった。
俺には無かったからだ。
そこまで必死になれる理由が。
「何歳だ」
「同い年」
「付き合ってんのか」
「いや」
「告白は」
「してない」
「馬鹿かお前」
「よく言われる」
「誰に」
「本人に」
本当に馬鹿だった。
だが男という生き物は、そういうどうしようもない馬鹿を嫌いになれない。
結局その日は酒を奢った。
ついでに昔世話になった娼館も教えた。
守りたい女がいると言った直後にする話ではないと思うかもしれない。
今考えても最低だと思う。
だが、足のつかない娼館を精査する努力こそ、大事な女を守る努力だとも思う。
これは30過ぎても独身の根無し草のノグラの、煮ても焼いても食えない持論である。
それにモンブは露骨に嫌そうな顔をしていた。
「だから何でそんな詳しいんだ」
「努力したからだ」
「努力の方向性がおかしい」
「男には必要な努力だ」
「いらん」
「いる」
「いらん」
「その考えだから告白もできんのだ」
「関係ないだろ」
「大ありだ」
結局。
一度も行かなかったらしい。
本当に馬鹿なやつだった。
だが。
その頃からだ。
俺がモンブという男を認め始めたのは。
記録じゃない。
才能でもない。
強さでもない。
死にたくないと言い切ったこと。
それが守りたい女のためだと隠しもしなかったこと。
そして。
それを恥ずかしいとも思っていなかったこと。
その青臭さが。
妙に眩しく見えた。
俺にはもう無いものだったからだ。
◇
それから数年後。
モンブはある日の酒席で言った。
「そういや名字が欲しい」
唐突だった。
いつも通りだ。
「役所で探せばあるだろ」
「ない」
「親は」
「知らん」
「戸籍は」
「面倒だから調べてない」
頭痛がした。
本当にこいつはこういう男だった。
「で?」
「だから欲しい」
「何で俺に言う」
「師匠だから」
意味が分からなかった。
本当に意味が分からなかった。
だが。
少し考えてから言った。
「じゃあアシャリカにしとけ」
モンブは黙った。
珍しく。
本当に珍しく。
冗談の一つも返さなかった。
「いいのか」
そう聞いた声だけがやけに真面目だった。
「嫌なら返せ」
「返さない」
「そうか」
モンブは笑った。
やけに嬉しそうだった。
子供みたいに。
馬鹿みたいに。
だから俺も笑った。
◇
それから数年。
モンブは本当にアシャリカを名乗り始めた。
最初は気恥ずかしかった。
酒場で呼ばれる。
ギルドで呼ばれる。
新聞に載る。
どこを見てもアシャリカだった。
俺は何もしていない。
勝手に名乗っているだけだ。
そう思っていた。
だが。
少しだけ誇らしかった。
認めたくはなかったが。
本当に少しだけ。
昔の俺は酒場で一人だった。
それが普通だった。
探検から帰る。
酒を飲む。
寝る。
また潜る。
友人付き合いも無い訳ではない。
だが毎日顔を合わせるような相手はいない。
皆それぞれ自分の人生がある。
当たり前の話だ。
だから俺も一人だった。
それで十分だった。
本当に。
十分だった。
だがいつ頃からだろうな。
二人席に座るようになっていた。
理由は簡単だ。
モンブが勝手に来るからだ。
「師匠」
「何だ」
「暇か」
「忙しい」
「飲もう」
「忙しいと言っただろ」
「一杯だけ」
「一杯で終わった試しがない」
「今日は二杯だ」
「帰れ」
そんなことばかりだった。
酒場の連中も自然と理解していた。
俺が二人席に座っている時は大体モンブが来る。
だから誰もその向かいへ座らなくなった。
迷惑な話だ。
本当に。
今思えば。
あの頃にはもう遅かったのだろう。
いつの間にか。
あいつがいることが当たり前になっていた。
モンブの記録が伸びるたび酒場で話題になった。
最速探索者。
深淵詐欺師。
単独踏破者。
好き勝手に言われていた。
俺は興味の無いふりをしていた。
実際には全部知っていた。
記事も読んでいた。
配信も見ていた。
誰にも言わなかったが。
少しだけ自慢だった。
別に俺が育てた訳じゃない。
才能があったのも。
努力したのも。
死ぬ思いをしたのも。
全部モンブだ。
それでも。
あいつがアシャリカを名乗っている以上。
まったく関係ないとも言えなかった。
情けない話だが。
それだけで少し自分の人生が肯定された気がした。
若い頃は自分が前へ進んでいた。
だが年を取れば違う。
記録は伸びない。
身体は衰える。
夢より現実が増える。
そんな中で。
モンブだけは前へ進み続けていた。
だから勘違いしたのだろう。
自分もまだ前を向けているのだと。
だから。
モンブが相談しなくなった時も。
俺は深く考えなかった。
最初は忙しいのだと思った。
次は遠征中なのだと思った。
そのうち。
一人前になったのだろうと思った。
探検家なら当たり前だ。
いつまでも師匠に頼らない。
いつかは自分で決める。
自分で背負う。
そういうものだ。
だから俺は何も言わなかった。
何も聞かなかった。
今思えば。
聞くべきだったのだろう。
◇
最後に飯を食った日を思い出そうとしても上手くいかない。
最後に酒を飲んだ日も。
最後に相談された日も。
最後に怒鳴った日も。
何も思い出せない。
ただ。
失踪した日のことだけは覚えている。
皆騒いでいた。
セナも。
ラザも。
エアハルトも。
それぞれのやり方で苦しんでいた。
俺は違った。
妙に冷静だった。
探検家だからだ。
死ぬこともある。
帰らないこともある。
それだけだと思っていた。
だから酒を飲んだ。
次の日も。
その次の日も。
いつも通りだ。
本当に。
いつも通りだった。
◇
変わったのはある日の酒場だった。
誰かが言ったのだ。
「最近静かですね」
何気ない一言だった。
俺も頷きかけた。
そうだな。
静かだ。
そこで止まった。
静か。
何がだ?
酒場は変わっていない。
客もいる。
喧嘩もある。
酔っ払いもいる。
笑い声だって聞こえる。
なのに。
静かだった。
その時ようやく気付いた。
ああ。
モンブがいないのか。
そこで初めて思い出した。
あいつはいつもいた。
飯時になると現れる。
酒を飲みに来る。
適当な話をする。
成果を報告する。
くだらないことで笑う。
散々騒いで帰っていく。
そんなことばかりだった。
だから気付かなかった。
あいつがいたから。
賑やかだったのだと。
酒を口に運ぶ。
味がしなかった。
周囲はいつも通りだ。
俺もいつも通りだ。
きっと十年前と何も変わらない。
二十年前とも変わらない。
独身で。
一人で。
酒を飲んでいる。
昔と同じだ。
本当に。
何も変わっていない。
変わっていないからこそ分かる。
何かが無くなっている。
何かが足りない。
その名前が分からなかった。
弟子か。
違う。
後継者か。
それも違う。
そんな立派なものじゃない。
長いこと空っぽだった人生に。
勝手に入ってきて。
勝手に飯を食って。
勝手に成果を報告して。
勝手に成長して。
勝手に消えていった。
ただそれだけの馬鹿だ。
それだけなのに。
何でこんなに静かなんだろうな。
グラスを持ち上げる。
向かいの席を見る。
誰もいない。
いるはずもない。
俺は昔から一人だった。
今も一人だ。
何も変わっていない。
変わっていないはずなのに。
どうしてだろうな。
少しだけ。
寂しい。
俺は酒を飲み干した。
誰もいない席へ向かって。
言い捨てる。
「馬鹿が」
今さら説教したいことなんて山ほどあった。
深淵に潜る理由も。
女の口説き方も。
酒の飲み方も。
人生の誤魔化し方も。
まだ何一つ教えてないだろうが。
返事はなかった。
当たり前だ。
もういないのだから。
それでも。
少しだけ待ってしまった自分がいた。
次の瞬間には扉が開いて。
「師匠」
とあの間抜けな声が聞こえてくる気がした。
そんな訳がないのにな。
俺は笑った。
笑って。
空になったグラスを見つめた。
結局。
俺の人生は何も変わらなかった。
嫁もいない。
子供もいない。
帰りを待つ人間もいない。
明日も仕事だ。
明後日も仕事だ。
その先もきっと同じだろう。
昔と同じだ。
本当に。
何も変わっていない。
ただ一つだけ。
昔はそれで十分だった。
今は少しだけ。
足りなかった。
だからもう一度だけ。
誰もいない席へ向かって呟いた。
「……馬鹿が」




