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6/14

3.5話

私はモンブ・アシャリカが嫌いだった。


悔しいことだが、今のは嘘だ。

本当に嫌いなら配信だって見ないし、探索から帰って来る時間を覚えていたりもしない。

でも面倒だったのは本当だ。


ギルド受付として働き始めて三年。

その間、モンブはずっと変わらなかった。

依頼はギリギリ。

報告書は雑。

突然消える。

突然帰ってくる。

おまけに毎回子供扱いだ。


「ラザ」


嫌な予感がした。

その声を聞くだけで分かる。


「ほら土産」


机の上に置かれたのは、子供向け菓子店の包みだった。

私は十八歳だった。

子供ではない。

少なくとも本人はそう思っている。


「私、子供じゃないんですけど」

「知ってる」

「絶対思ってませんよね」

「思ってる」

「嘘」


モンブは笑う。

腹が立つ。

でも。

少しだけ安心もする。

いつも通りだったからだ。


ラザは書類に視線を落とす。

モンブという探検家は有名だ。

最速。

単独探索。

深淵詐欺師。

酒場で聞けば色々な話が出てくる。

だが。

その半分は外れている。


モンブは超人ではない。


少なくともラザは知っていた。

そんなものではない。

もっと普通だ。


疲れるし。

眠るし。

腹も減る。

怪我もする。

落ち込む。

悩む。

無理だってする。


本当は。

ただの人間だった。


それを知っているのは、多分ギルドの人間だけだ。

探検家たちは成果を見る。

視聴者は配信を見る。

酒場の人間は噂を見る。

ラザだけは書類を見ていた。


だから分かった。

最初の異変も。


酒場では普通に振る舞う。

配信でも普通に振る舞う。

探索ではもっと普通に振る舞う。

だから誰も気付かない。

だが。


依頼書を書く時だけペンが止まる。

集中力が切れる。

書類の提出日を忘れる。

同じ説明を何度も聞き返す。

確認した資料をもう一度確認する。


普通なら誰も気付かない。

ラザだけは毎日見ていた。


提出期限を一日過ぎた依頼書を返した時もそうだった。


「昨日までですよ」

「昨日?」

「昨日です」

「今日じゃなくて?」

「昨日です」


モンブは数秒考え込み、


「そうか」


と言った。

それだけだった。


いつものモンブなら違う。

言い訳する。

軽口を叩く。

話を逸らす。


だからラザは怖くなった。


その数日後。

説明の途中でモンブの返事が止まった。

視線だけがどこか遠くを見ている。


「聞いてます?」

「聞いてる」

「じゃあ私何て言いました?」


少し考えて。


「頑張れ」


全然違った。

ラザはため息を吐く。


疲れている。


それもかなり。


「また徹夜ですか」

「してない」

「目が死んでます」

「生きてる」

「死んでます」

「じゃあ半分」


笑っている。

いつも通りに。


でもラザには分かった。


この人。

無理をしている。


それも。

今まで見たことがないくらいに。


だから放っておけなかった。

本当なら業務時間外だ。

受付嬢が踏み込む領域ではない。

そんなことも分かっていた。



ある日の帰り際。

ラザはモンブを捕まえた。


「話があります」

「嫌だ」

「あります」

「俺に?」

「貴方にです」

「帰る」

「帰らせません」


モンブは露骨に嫌そうな顔をした。

昔からそうだ。

深淵には何日でも潜れるくせに、人と向き合うのは苦手だった。


「三十分」

「長い」

「二十分」

「十分」

「十五分」

「交渉成立ですね」

「成立してない」


結局、酒場の隅へ連行した。

昔からこうだ。

モンブは文句を言う。

ラザは無視する。

その繰り返しだった。


席につく。

モンブは珍しく黙っていた。

その顔を見て。

やっぱりおかしいと確信した。

疲れている。

それも酷く。


「何かありましたか」

「ない」

「嘘ですね」

「本当にない」

「あります」

「ない」

「あります」

「ない」

「…………」

「…………」


先に根負けしたのはラザだった。

モンブはこういう時だけ頑固だ。

幼稚なくらい。


「最近の貴方、おかしいです」

「そうか?」

「そうです」

「初めて聞いた」

「皆言ってます」

「知らなかった」

「だから言ってるんです」


モンブは苦笑した。

疲れた顔だった。

だから余計に腹が立った。


「寝てください」

「寝てる」

「寝てません」

「二時間くらい」

「寝てません」

「厳しいな」

「当たり前です」


ラザは机を叩いた。

珍しいことだった。

自分でも少し驚いた。

でも止まらなかった。


「何でそんなになるまで無理するんですか」

「仕事だから」

「探索が仕事なのは知ってます」

「じゃあ説明終わり」

「終わりません」


また終わらせようとする。

また適当に流す。

また受け止めたふりをする。

いつもそうだ。


「私じゃ頼りないですか」


その言葉は思ったより小さく出た。

モンブは少しだけ目を見開いた。


「そういう話じゃない」

「じゃあ何なんですか」


沈黙。

長い沈黙だった。

ラザは待った。

待ち続けた。

きっと何かが出てくると思った。

今まで抱えていたものを。

本音を。

弱音を。

助けての一言を。

だが。

モンブは首を振った。


「ラザには関係ない」


その瞬間だった。

ラザは言葉を失った。

怒った訳ではない。

悲しかった訳でもない。


最初に来たのは困惑だった。

関係ない。

その言葉の意味が分からなかった。

私はギルドの受付嬢だ。

探索計画も知っている。

帰還予定日も知っている。

怪我の記録も。

依頼履歴も。

報告書の癖も。

提出期限を忘れる頻度まで知っている。

子供扱いされるのは不本意だったが。


それでも。

それなりに近い方だと思っていた。

少なくとも。

関係ないと言われるほど遠くはないと。

そう思っていた。

だから。

理解できなかった。


「関係ない?」


思ったより弱い声が出た。

モンブは顔を上げなかった。


「ラザ」

「関係ないなら何なんですか」

「そうじゃなくて」

「じゃあ何ですか」


答えない。

いや。

答えられないのだろう。

それも分かった。

分かってしまった。

分かってしまったから余計に苦しかった。


まただ。

また受け止めるふりをしている。

また話を終わらせようとしている。

また一人で抱え込もうとしている。

私が聞きたいのは謝罪じゃない。

言い訳でもない。

大丈夫という言葉でもない。


ただ。

少しだけ頼ってほしかった。

それだけなのに。


「私じゃ駄目ですか」


気付けば言っていた。

初めてだった。

モンブ相手にそんなことを口にしたのは。

モンブが目を見開く。

本当に一瞬だけだった。

それから目を逸らす。


ラザは待った。

待ち続けた。

違うと言ってくれると思った。

いつものように笑い飛ばしてくれると思った。

軽口でもいい。

誤魔化しでもいい。

何でも良かった。


ただ。

否定してほしかった。

けれど。

モンブは言った。


「ラザには無理だ」


ラザは瞬きをした。


「……え?」

「相手が悪い」

「何の話ですか」

「だから」


モンブは視線を落とした。


「ラザじゃ無理なんだよ」


言葉が出なかった。

そうか。

と。

思った。

自分が思っていたより。

ずっと簡単な話だったのだと。


私は特別なんかじゃなかった。

少しだけ近いと思っていた。

少しだけ踏み込めると思っていた。

少しだけ頼られていると思っていた。


全部。

勘違いだったのだ。


「だったら誰ならいいんですか」


ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たかった。

モンブは少しだけ考えて。


「誰もいない」


と答えた。

その瞬間。

何かが切れた。

怒りではない。

悲しみでもない。

もっと静かな何かだった。


「ああ」


ラザは小さく頷いた。


「そうですか」


モンブが顔を上げる。

そこでようやく何かがおかしいことに気付いたらしかった。

だが遅い。

遅すぎた。


「ラザ」

「分かりました」


不思議なくらい穏やかな声だった。

自分でも驚くほど。


「安心してください」

「違う」

「これ以上は聞きません」

「ラザ」

「だって」


そこで初めて笑った。

上手く笑えた気がした。


「私じゃ無理なんでしょう?」


モンブが黙る。

また黙る。

何も言わない。

何も言えない。

それが答えだった。

少なくともラザにはそう見えた。


「じゃあ好きにしてください」


椅子を引く。

立ち上がる。


「探検家モンブ・アシャリカさん。どうぞ貴方のお好きに」


本当は言ってほしかった。

違う、と。

若しくはお前だから話せないんだ、と。


そんな言葉が存在する訳もないのに。

馬鹿みたいに期待していた。


でも。

モンブは結局何も言わなかった。

だからラザも振り返らなかった。

そのまま歩いた。

止まらなかった。

止まったら。

きっと戻ってしまう気がしたから。


背後で、かすかに声が聞こえた気がした。

何かを言っていた。

けれど聞かなかった。

聞こうとしなかった。


あれが最後の喧嘩だった。

後になって何度も思い返した。

何百回も。

何千回も。

あの時の私は。

モンブを信じていたんじゃない。


心のどこかでまた次があると思っていたのだ。



ラザはそれから仕事に徹した。

モンブが窓口へ来ても、必要なことしか話さない。

書類を受け取る。

確認する。

返却する。

それだけだ。

以前のように雑談もしない。

体調を聞くこともない。


ある日。

モンブがいつものように紙袋を差し出した。


「ほら」


ラザは顔も上げない。


「規則上、私物の受け取りは禁止されています」

「今さら?」

「今からです」


モンブは少し黙った。


「そうか」


そのまま引っ込める。

それだけだった。


本当なら。

いつもみたいに言い返してほしかった。

少し困らせてほしかった。

無理やり机に置いていってほしかった。

でも。

モンブも引いた。

それが少しだけ寂しかった。


そして。

ラザは気付いてしまう。

モンブがさらに痩せていることに。

顔色が悪い。

目の下の隈も消えない。

提出書類も以前より酷い。


それでも。

声は掛けなかった。

掛けられなかった。

だって。

関係ないのだから。


そんなある日だった。

依頼書を受け取ろうとして。

ラザの手が止まった。

探索予定日。

帰還予定日。

補給計画。

どれも滅茶苦茶だった。


最近のモンブらしい無理を前提にした計画書だった。

ラザは思わず言った。


「これ、本気ですか」

「本気」

「死にますよ」

「死なない」

「そういう話じゃありません」

「いつも大体そういう話だろ」


久しぶりの軽口だった。

昔なら。

そこで言い返していた。

でも。

ラザは代わりに口を閉じることにした。


依頼書へ承認印を押す。

乾いた音が鳴る。

モンブはそれを受け取り。

少しだけ立ち止まった。

何か言いたそうだった。

本当に少しだけ。

けれど結局。


「じゃあな」


それだけだった。


ラザも返さなかった。

返せなかった。

ただ頷くだけだった。

それが最後だった。


数週間後。

帰還予定日を過ぎてもモンブは帰ってこない。

一日。

二日。

三日。

七日。

探検家なら珍しくない。

皆そう言った。

ラザもそう思おうとした。

でも。

胸の奥が騒いでいた。


あの日の依頼書。

あの日の顔色。

あの日の隈。

あの日の沈黙。

あの日の「じゃあな」。

全部。

思い出してしまう。


そして。

失踪認定の報せが届く。


ラザは最初。

不思議なくらい何も感じなかった。

理解できなかったのだ。

モンブが帰ってこない。

その意味を。


だから仕事を続けた。

書類を処理した。

依頼を受けた。

探索者を送り出した。

いつも通りだった。


そして閉館後。

誰もいなくなった窓口で。

ふと。

机の引き出しを開けた。


そこには古い包装紙が入っていた。

子供向け菓子店のものだった。

受け取らないと言ったはずなのに。

捨てるつもりだったのに。

何故か捨てられなかったもの。


その瞬間。

初めて理解した。


もう二度と来ない。

もう二度と。

「ほら」

と言って紙袋を置く人はいない。


ラザはしばらく包装紙を見ていた。

何も考えなかった。

考えられなかった。


ただ指先で皺をなぞる。

何回も。

何回も。

気付けば閉館時間を過ぎていた。

遠くで誰かが扉を閉める音がする。

静かだった。


不意に思う。

ああ。

そうか。

もう仲直りできないんだ。

その考えは妙に現実感がなかった。

まるで他人事だった。

失踪認定の通知よりも。

葬儀の日よりも。

ずっと現実味があった。


どうしてだろう。

考えるまでもなかった。

自分はずっと思い込んでいたのだ。

また会えると。

また文句を言えると。

また腹を立てられると。

また「子供じゃないです」と言えると。


当たり前みたいに。

当然みたいに。

疑いもせずに。

だから引いた。

だから待った。

だから突き放した。


だって。

帰ってくると思っていたから。

探検家だから。

モンブだから。

何だかんだ言って生きて帰るから。

そう思っていた。

そう決めつけていた。


その瞬間。

引き出しの中の包装紙が急に重く見えた。

嫌になるほど。

苦しくなるほど。

重かった。

喉の奥が詰まる。

呼吸がうまくできない。

何かが零れそうなのに。

名前が分からない。


謝りたいのか。

怒りたいのか。

縋りたいのか。

自分でも分からない。


ただ。

一つだけ分かった。

あの日。

モンブは助けを求めていたのかもしれない。


そして私は。

それを私は。

突き放したのだ。


机の縁を強く握る。

それでも震えは止まらなかった。

誰もいない窓口で。

ラザは長い間うつむいていた。

まるで。

今さら帰ってくるはずのない足音を待つみたいに。


ラザはくしゃくしゃになった紙袋を机の奥深くに押し込んだ。

引き出しを閉める。

それしかできなかった。

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