3.5話
私はモンブ・アシャリカが嫌いだった。
悔しいことだが、今のは嘘だ。
本当に嫌いなら配信だって見ないし、探索から帰って来る時間を覚えていたりもしない。
でも面倒だったのは本当だ。
ギルド受付として働き始めて三年。
その間、モンブはずっと変わらなかった。
依頼はギリギリ。
報告書は雑。
突然消える。
突然帰ってくる。
おまけに毎回子供扱いだ。
「ラザ」
嫌な予感がした。
その声を聞くだけで分かる。
「ほら土産」
机の上に置かれたのは、子供向け菓子店の包みだった。
私は十八歳だった。
子供ではない。
少なくとも本人はそう思っている。
「私、子供じゃないんですけど」
「知ってる」
「絶対思ってませんよね」
「思ってる」
「嘘」
モンブは笑う。
腹が立つ。
でも。
少しだけ安心もする。
いつも通りだったからだ。
ラザは書類に視線を落とす。
モンブという探検家は有名だ。
最速。
単独探索。
深淵詐欺師。
酒場で聞けば色々な話が出てくる。
だが。
その半分は外れている。
モンブは超人ではない。
少なくともラザは知っていた。
そんなものではない。
もっと普通だ。
疲れるし。
眠るし。
腹も減る。
怪我もする。
落ち込む。
悩む。
無理だってする。
本当は。
ただの人間だった。
それを知っているのは、多分ギルドの人間だけだ。
探検家たちは成果を見る。
視聴者は配信を見る。
酒場の人間は噂を見る。
ラザだけは書類を見ていた。
だから分かった。
最初の異変も。
酒場では普通に振る舞う。
配信でも普通に振る舞う。
探索ではもっと普通に振る舞う。
だから誰も気付かない。
だが。
依頼書を書く時だけペンが止まる。
集中力が切れる。
書類の提出日を忘れる。
同じ説明を何度も聞き返す。
確認した資料をもう一度確認する。
普通なら誰も気付かない。
ラザだけは毎日見ていた。
提出期限を一日過ぎた依頼書を返した時もそうだった。
「昨日までですよ」
「昨日?」
「昨日です」
「今日じゃなくて?」
「昨日です」
モンブは数秒考え込み、
「そうか」
と言った。
それだけだった。
いつものモンブなら違う。
言い訳する。
軽口を叩く。
話を逸らす。
だからラザは怖くなった。
その数日後。
説明の途中でモンブの返事が止まった。
視線だけがどこか遠くを見ている。
「聞いてます?」
「聞いてる」
「じゃあ私何て言いました?」
少し考えて。
「頑張れ」
全然違った。
ラザはため息を吐く。
疲れている。
それもかなり。
「また徹夜ですか」
「してない」
「目が死んでます」
「生きてる」
「死んでます」
「じゃあ半分」
笑っている。
いつも通りに。
でもラザには分かった。
この人。
無理をしている。
それも。
今まで見たことがないくらいに。
だから放っておけなかった。
本当なら業務時間外だ。
受付嬢が踏み込む領域ではない。
そんなことも分かっていた。
◇
ある日の帰り際。
ラザはモンブを捕まえた。
「話があります」
「嫌だ」
「あります」
「俺に?」
「貴方にです」
「帰る」
「帰らせません」
モンブは露骨に嫌そうな顔をした。
昔からそうだ。
深淵には何日でも潜れるくせに、人と向き合うのは苦手だった。
「三十分」
「長い」
「二十分」
「十分」
「十五分」
「交渉成立ですね」
「成立してない」
結局、酒場の隅へ連行した。
昔からこうだ。
モンブは文句を言う。
ラザは無視する。
その繰り返しだった。
席につく。
モンブは珍しく黙っていた。
その顔を見て。
やっぱりおかしいと確信した。
疲れている。
それも酷く。
「何かありましたか」
「ない」
「嘘ですね」
「本当にない」
「あります」
「ない」
「あります」
「ない」
「…………」
「…………」
先に根負けしたのはラザだった。
モンブはこういう時だけ頑固だ。
幼稚なくらい。
「最近の貴方、おかしいです」
「そうか?」
「そうです」
「初めて聞いた」
「皆言ってます」
「知らなかった」
「だから言ってるんです」
モンブは苦笑した。
疲れた顔だった。
だから余計に腹が立った。
「寝てください」
「寝てる」
「寝てません」
「二時間くらい」
「寝てません」
「厳しいな」
「当たり前です」
ラザは机を叩いた。
珍しいことだった。
自分でも少し驚いた。
でも止まらなかった。
「何でそんなになるまで無理するんですか」
「仕事だから」
「探索が仕事なのは知ってます」
「じゃあ説明終わり」
「終わりません」
また終わらせようとする。
また適当に流す。
また受け止めたふりをする。
いつもそうだ。
「私じゃ頼りないですか」
その言葉は思ったより小さく出た。
モンブは少しだけ目を見開いた。
「そういう話じゃない」
「じゃあ何なんですか」
沈黙。
長い沈黙だった。
ラザは待った。
待ち続けた。
きっと何かが出てくると思った。
今まで抱えていたものを。
本音を。
弱音を。
助けての一言を。
だが。
モンブは首を振った。
「ラザには関係ない」
その瞬間だった。
ラザは言葉を失った。
怒った訳ではない。
悲しかった訳でもない。
最初に来たのは困惑だった。
関係ない。
その言葉の意味が分からなかった。
私はギルドの受付嬢だ。
探索計画も知っている。
帰還予定日も知っている。
怪我の記録も。
依頼履歴も。
報告書の癖も。
提出期限を忘れる頻度まで知っている。
子供扱いされるのは不本意だったが。
それでも。
それなりに近い方だと思っていた。
少なくとも。
関係ないと言われるほど遠くはないと。
そう思っていた。
だから。
理解できなかった。
「関係ない?」
思ったより弱い声が出た。
モンブは顔を上げなかった。
「ラザ」
「関係ないなら何なんですか」
「そうじゃなくて」
「じゃあ何ですか」
答えない。
いや。
答えられないのだろう。
それも分かった。
分かってしまった。
分かってしまったから余計に苦しかった。
まただ。
また受け止めるふりをしている。
また話を終わらせようとしている。
また一人で抱え込もうとしている。
私が聞きたいのは謝罪じゃない。
言い訳でもない。
大丈夫という言葉でもない。
ただ。
少しだけ頼ってほしかった。
それだけなのに。
「私じゃ駄目ですか」
気付けば言っていた。
初めてだった。
モンブ相手にそんなことを口にしたのは。
モンブが目を見開く。
本当に一瞬だけだった。
それから目を逸らす。
ラザは待った。
待ち続けた。
違うと言ってくれると思った。
いつものように笑い飛ばしてくれると思った。
軽口でもいい。
誤魔化しでもいい。
何でも良かった。
ただ。
否定してほしかった。
けれど。
モンブは言った。
「ラザには無理だ」
ラザは瞬きをした。
「……え?」
「相手が悪い」
「何の話ですか」
「だから」
モンブは視線を落とした。
「ラザじゃ無理なんだよ」
言葉が出なかった。
そうか。
と。
思った。
自分が思っていたより。
ずっと簡単な話だったのだと。
私は特別なんかじゃなかった。
少しだけ近いと思っていた。
少しだけ踏み込めると思っていた。
少しだけ頼られていると思っていた。
全部。
勘違いだったのだ。
「だったら誰ならいいんですか」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たかった。
モンブは少しだけ考えて。
「誰もいない」
と答えた。
その瞬間。
何かが切れた。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと静かな何かだった。
「ああ」
ラザは小さく頷いた。
「そうですか」
モンブが顔を上げる。
そこでようやく何かがおかしいことに気付いたらしかった。
だが遅い。
遅すぎた。
「ラザ」
「分かりました」
不思議なくらい穏やかな声だった。
自分でも驚くほど。
「安心してください」
「違う」
「これ以上は聞きません」
「ラザ」
「だって」
そこで初めて笑った。
上手く笑えた気がした。
「私じゃ無理なんでしょう?」
モンブが黙る。
また黙る。
何も言わない。
何も言えない。
それが答えだった。
少なくともラザにはそう見えた。
「じゃあ好きにしてください」
椅子を引く。
立ち上がる。
「探検家モンブ・アシャリカさん。どうぞ貴方のお好きに」
本当は言ってほしかった。
違う、と。
若しくはお前だから話せないんだ、と。
そんな言葉が存在する訳もないのに。
馬鹿みたいに期待していた。
でも。
モンブは結局何も言わなかった。
だからラザも振り返らなかった。
そのまま歩いた。
止まらなかった。
止まったら。
きっと戻ってしまう気がしたから。
背後で、かすかに声が聞こえた気がした。
何かを言っていた。
けれど聞かなかった。
聞こうとしなかった。
あれが最後の喧嘩だった。
後になって何度も思い返した。
何百回も。
何千回も。
あの時の私は。
モンブを信じていたんじゃない。
心のどこかでまた次があると思っていたのだ。
◇
ラザはそれから仕事に徹した。
モンブが窓口へ来ても、必要なことしか話さない。
書類を受け取る。
確認する。
返却する。
それだけだ。
以前のように雑談もしない。
体調を聞くこともない。
ある日。
モンブがいつものように紙袋を差し出した。
「ほら」
ラザは顔も上げない。
「規則上、私物の受け取りは禁止されています」
「今さら?」
「今からです」
モンブは少し黙った。
「そうか」
そのまま引っ込める。
それだけだった。
本当なら。
いつもみたいに言い返してほしかった。
少し困らせてほしかった。
無理やり机に置いていってほしかった。
でも。
モンブも引いた。
それが少しだけ寂しかった。
そして。
ラザは気付いてしまう。
モンブがさらに痩せていることに。
顔色が悪い。
目の下の隈も消えない。
提出書類も以前より酷い。
それでも。
声は掛けなかった。
掛けられなかった。
だって。
関係ないのだから。
そんなある日だった。
依頼書を受け取ろうとして。
ラザの手が止まった。
探索予定日。
帰還予定日。
補給計画。
どれも滅茶苦茶だった。
最近のモンブらしい無理を前提にした計画書だった。
ラザは思わず言った。
「これ、本気ですか」
「本気」
「死にますよ」
「死なない」
「そういう話じゃありません」
「いつも大体そういう話だろ」
久しぶりの軽口だった。
昔なら。
そこで言い返していた。
でも。
ラザは代わりに口を閉じることにした。
依頼書へ承認印を押す。
乾いた音が鳴る。
モンブはそれを受け取り。
少しだけ立ち止まった。
何か言いたそうだった。
本当に少しだけ。
けれど結局。
「じゃあな」
それだけだった。
ラザも返さなかった。
返せなかった。
ただ頷くだけだった。
それが最後だった。
数週間後。
帰還予定日を過ぎてもモンブは帰ってこない。
一日。
二日。
三日。
七日。
探検家なら珍しくない。
皆そう言った。
ラザもそう思おうとした。
でも。
胸の奥が騒いでいた。
あの日の依頼書。
あの日の顔色。
あの日の隈。
あの日の沈黙。
あの日の「じゃあな」。
全部。
思い出してしまう。
そして。
失踪認定の報せが届く。
ラザは最初。
不思議なくらい何も感じなかった。
理解できなかったのだ。
モンブが帰ってこない。
その意味を。
だから仕事を続けた。
書類を処理した。
依頼を受けた。
探索者を送り出した。
いつも通りだった。
そして閉館後。
誰もいなくなった窓口で。
ふと。
机の引き出しを開けた。
そこには古い包装紙が入っていた。
子供向け菓子店のものだった。
受け取らないと言ったはずなのに。
捨てるつもりだったのに。
何故か捨てられなかったもの。
その瞬間。
初めて理解した。
もう二度と来ない。
もう二度と。
「ほら」
と言って紙袋を置く人はいない。
ラザはしばらく包装紙を見ていた。
何も考えなかった。
考えられなかった。
ただ指先で皺をなぞる。
何回も。
何回も。
気付けば閉館時間を過ぎていた。
遠くで誰かが扉を閉める音がする。
静かだった。
不意に思う。
ああ。
そうか。
もう仲直りできないんだ。
その考えは妙に現実感がなかった。
まるで他人事だった。
失踪認定の通知よりも。
葬儀の日よりも。
ずっと現実味があった。
どうしてだろう。
考えるまでもなかった。
自分はずっと思い込んでいたのだ。
また会えると。
また文句を言えると。
また腹を立てられると。
また「子供じゃないです」と言えると。
当たり前みたいに。
当然みたいに。
疑いもせずに。
だから引いた。
だから待った。
だから突き放した。
だって。
帰ってくると思っていたから。
探検家だから。
モンブだから。
何だかんだ言って生きて帰るから。
そう思っていた。
そう決めつけていた。
その瞬間。
引き出しの中の包装紙が急に重く見えた。
嫌になるほど。
苦しくなるほど。
重かった。
喉の奥が詰まる。
呼吸がうまくできない。
何かが零れそうなのに。
名前が分からない。
謝りたいのか。
怒りたいのか。
縋りたいのか。
自分でも分からない。
ただ。
一つだけ分かった。
あの日。
モンブは助けを求めていたのかもしれない。
そして私は。
それを私は。
突き放したのだ。
机の縁を強く握る。
それでも震えは止まらなかった。
誰もいない窓口で。
ラザは長い間うつむいていた。
まるで。
今さら帰ってくるはずのない足音を待つみたいに。
ラザはくしゃくしゃになった紙袋を机の奥深くに押し込んだ。
引き出しを閉める。
それしかできなかった。




