2.5話
「エアハルト・メセナーに並び立つものなし」。
当時の探検家界隈ではよく聞く文句だった。
正直に言うと、俺はあれが嫌いだった。
称賛だからではない。
事実だからだ。
当時の俺は、そう言われても反論できなかった。
仲間には恵まれていた。
信頼できる連中もいた。
だが俺の隣に立つ者はいなかった。
エアハルト・メセナーとしての俺の20年間――そのようなことばかりの人生だった。
だからこそ、未踏を追った。
誰よりも先へ進み続けた。
その先に真の「同志」がいる望みを信じ続けてきた。
笑うなら笑えばいい。
我ながら子供じみた話だと思う。
昔見た勇者劇の影響だった。
勇者。
剣士。
魔導士。
聖職者。
何度も見た。
台詞まで覚えている。
物語の結末より、俺は道中の方が好きだった。
背中を預ける者。
命を預ける者。
時には喧嘩し。
時には殴り合い。
それでも最後には同じ方向を見る者たち。
強さではない。
信頼でもない。
もっと別の何かだ。
あの劇では、それを「同志」と呼んでいた。
もちろん誰にも話したことはない。
話せる訳がない。
当時の俺は既に一人前の探検家だったし、それなりに名も知られていた。
そんな人間が勇者劇に憧れているなど知られたら笑われる。
だから胸の内にしまっていた。
ずっと。
だが未踏へ進めば出会えると思っていた。
今思えば傲慢だったのだろう。
自分の隣に立てる人間がいる前提で考えているのだから。
だが当時は本気だった。
そんな折だった。
モンブ・アシャリカが五十階層到達を公表したのは。
正直に言う。
気に食わなかった。
理由は簡単だ。
次にそこへ辿り着くのは俺だと思っていたからだ。
探検家なら誰でもそうだろう。
未踏。
記録。
最前線。
そのために鍛え、そのために命を賭ける。
だから数年で五十階層を踏破した無名の若手が現れた時、界隈全体が騒然となった。
当然だ。
そんな話は常識では説明できない。
単独探索。
補給班なし。
支援なし。
護衛なし。
しかも本人は疑惑を否定するどころか他人事のように面白がっている。
深淵詐欺師。
誰かがそう呼び始めた。
俺も半分は同意していた。
ただし。
不正を疑ったことは一度もない。
俺が疑っていたのは別のことだ。
どうやって生きているんだ。
それだった。
だから会いに行った。
◇
探検家同士には暗黙の了解がある。
深淵で他者の探索を妨害しないこと。
他者の成果を横取りしないこと。
そして。
許可なく後をつけないことだ。
特に深層では尚更だった。
一瞬の判断ミスが死に繋がる。
集中を乱されれば、それだけで致命傷になることもある。
だから俺は数日迷った。
プライベートを完全に秘匿にしているモンブの足取りが唯一分かるのは、深淵の中のみ。
つまり彼に会うには、彼の深淵探索のあとを付けるしかないのだ。
やるべきではない。
理屈では分かっていた。
だが。
俺らしくもなく、どうしても確かめたかった。
あの男が何者なのか。
どうやって生きているのか。
それだけが頭から離れなかった。
だから結局潜った。
四十八階層。
記録上の予測進路。
移動速度。
補給周期。
公開されている情報を片っ端から集めて進路を割り出した。
追跡は想像以上に容易だった。
最初は罠を疑った。
わざと痕跡を残している。
そう考えた。
だが違う。
単純に隠していなかった。
野営跡。
焚き火跡。
足跡。
探索痕。
まるで追われることを想定していない。
あるいは。
追われても困らないと思っている。
そんな痕跡ばかりだった。
余計に腹が立った。
俺が神経を張り詰めていたのが馬鹿みたいだったからだ。
四十八階層。
補給拠点から半日ほど離れた崖の上で、モンブ・アシャリカは地図を書いていた。
本当にそれだけだった。
周辺警戒もしていない。
武器も手元にない。
気が抜けるほど無防備だった。
もちろん実際に無防備だった訳ではない。
俺が気配を消して近付いた時点で気付いていたはずだ。
後に分かったことだが、あいつは探索中だけ妙に勘が良かった。
問題は。
気付いた上で放置していたことだった。
俺は十数分ほど離れた岩陰から観察していた。
一度も振り返らなかった。
一度も警戒しなかった。
まるで野鳥か何かに興味を失ったような態度だった。
普通なら挑発と受け取る。
実際、その時の俺も若干腹が立っていた。
だから観察を放棄し、あえて声を掛けることにした。
「補給はどうした」
モンブは地図から目を離さないまま答えた。
「食った」
「何を食ったんだ」
「補給」
本気で殴ろうかと思った。
ただ。
今思えば少しだけ安心したことも認める。
少なくとも。
変人ではあるが偽物ではなかった。
本当に危険な探検家なら。
俺が近付いた時点で逃げるか、襲うか、もっと上手く誤魔化す。
だがモンブは違った。
ただ面倒そうにしていた。
まるで。
本当に補給を食べたかのように。
俺という人間そのものに興味がないように。
その態度がまた。
腹立たしかったのだ。
「仲間は」
「いない」
「嘘つけ」
「じゃあいる」
「どっちだ」
「好きな方で」
やっぱり殴ろうかと思った。
だが、その直後に俺は黙った。
崖の下を見たからだ。
巨大種が倒れていた。
一体や二体じゃない。
十を超えていた。
本人の前にして失礼極まりないが、周囲も調べた。
そもそも失礼はお互い様だろう、そう自己弁護をしながら。
足跡も。
野営跡も。
探索痕も。
何人いたのか確かめようとした。
結果は一つだった。
一人。
嫌になるほど一人だった。
その時ようやく確信した。
不正じゃない。
嘘でもない。
もっと面倒な何かだ。
こいつは本当に一人でここまで来ていた。
だから余計に腹が立った。
俺は努力を信じていた。
正しい手順を。
経験を。
積み重ねを。
だが目の前の男は、その全部の外側にいた。
理屈で追いつけない存在だった。
だから聞いた。
「何でそんな急ぐ」
モンブはそこで初めて顔を上げた。
妙な顔だった。
まるで今まで誰にも言われたことがないみたいな顔だった。
「急いでるか?」
そう尋ね返す彼の疑問は心の底からのものだった。
冗談ではなく。
心の底からそう思っている顔だった。
俺には理解できなかった。
ここへ来るまで、俺は何日もあいつの痕跡を追ってきた。
だから分かる。
モンブ・アシャリカという探検家は異常だ。
移動速度が異常なのではない。
速い探検家なら他にもいる。
異常なのは滞在しないことだった。
普通の探検家は情報を集める。
地図を作る。
危険地帯を迂回する。
安全な補給地点を確保する。
次以降の探索のために準備する。
だがモンブは違った。
見つけて。
突破して。
進む。
それだけだ。
探索というより横断だった。
もはや深淵の攻略じゃない。
深淵の貫通。
そんな歩き方だった。
戦闘記録もそうだ。
普通なら避ける戦闘を避けない。
普通なら準備する戦闘を待たない。
敵を見つけたら倒す。
道を塞いでいたら突破する。
まるで時間そのものと戦っているような進み方だった。
そして何より異常だったのは補給だった。
探検家は補給のために深淵へ潜る。
半分冗談だが、半分本当だ。
それほど補給計画は重要だった。
しかしモンブにはそれがない。
最低限。
本当に最低限。
まるで明日の自分を信用していない人間の準備だった。
今日を越えられればそれで良い。
そういう計画にしか見えなかった。
だから分かった。
こいつは記録を追っているんじゃない。
五十階層を目指している訳でもない。
もっと先。
もっと遠く。
何か別の場所を見ている。
その結果として階層を踏破しているだけだ。
だから聞いたのだ。
「急いでるだろ」
長い沈黙があった。
風が吹いた。
崖下の霧が揺れる。
しばらくして。
モンブは遠くを見た。
本当に遠くを。
俺ではなく。
深淵でもなく。
もっと先を見るように。
そして。
「そっか」
とだけ言った。
その意味は最後まで分からなかった。
だが、ただ一つだけ確かなことがある。
この日まで俺は、周囲の誰にも興味を持てていなかった。
仲間はいた。
優秀な連中だった。
信頼もしている。
だからこそ分かる。
誰も俺の隣には来ないだろう。
皆、少し後ろを歩いていた。
俺が欲しかったのはそんな関係じゃない。
肩を並べて未踏へ向かう誰かだった。
その時の俺は、まだ気付いていなかった。
目の前のこの男が。
俺の人生で最初に現れた、理解できない探検家だったことに。
そして。
それが始まりだったことにも。
◇
五十階層到達から一年後。
その名は嫌でも目に入った。
掲示板。
雑誌。
探検家新聞。
どこを見てもモンブ・アシャリカだった。
深淵詐欺師。
最速探検家。
単独探索者。
好き放題書かれている。
その度に腹が立った。
理由は分からない。
いや、分かっていた。
気に食わないのだ。
会うたびにふざける。
真面目な話をしない。
質問に答えない。
そのくせ。
誰よりも先にいる。
だから腹が立つ。
ある日。
遠征帰りの酒場で仲間に言われた。
「また見てるんですか」
見れば机の上に新聞があった。
モンブの記事だった。
自分でも気が付かない無意識だった。
いつの間にか持ち帰っていたらしい。
「別に」
そう返す。
「昨日も読んでましたよね」
「読んでない」
「穴が開くほど見てました」
「見てない」
「無理があります」
部下たちはあきれたように笑う。
俺は眉をひそめ不満を表した。
本当に面倒だ。
部下たちはいつもは素直で俺を尊敬してくれている可愛い後輩だ。
だが、モンブのことを話題に挙げるときには俺をまるで無知な子供の如く扱う。
俺だけが知らないことがるように、俺を揶揄うかのように。
「そんなに気になるんですか」
気になる。
その言葉に少し考える。
違う。
気になる訳ではない。
ただ確認したいだけだ。
どこまで行った。
何をした。
本当に生きているのか。
そういう確認だ。
それだけだ。
なのに。
その夜も。
次の日も。
新しい記事が出ると読んでいた。
新着の配信が始まると視聴していた。
新しい記録が出ると確認していた。
理由は分からない。
分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
もしモンブが突然引退したら。
もし探索をやめたら。
多分。
少し、困る。
◇
当時のことを思い返すと、セナとしては不思議に思うことがある。
エアハルトは何故あんなにもモンブを追い回していたのだろう。
今日も飽きもせず酒場へ入ってくる。
探検家という人種は不思議だ。
探検家でないセナはつくづく思うところがある。
階段を一段上るごとに周囲から人が減る。
才能があるほど孤独になる。
モンブもそうだった。
そしてエアハルト・メセナも。
二人は少し似ている。
もちろん本人たちに言えば全力で否定されるだろうけれど。
当時の私は、エアハルトという人を何度か見かけたことがあった。
いつも堂々としていた。
とても強くて。
バカみたいに真面目で。
少し怖い。
探検家たちは憧れの目でエアハルトを見る。
部下たちは信頼している。
後輩たちは尊敬している。
きっと優れた人なのだろう。
実際、その通りだった。
ただ一つだけ不思議なことがある。
あの人はモンブの話になると少し変だった。
嫌そうな顔をする。
文句を言う。
呆れる。
腹を立てる。
なのに、気付くとまたモンブの話をしている。
あの人が新聞を読む理由も。
配信を確認する理由も。
新しい踏破報告を探す理由も。
私には何となく分かっていた。
多分。
あの人はモンブが気になって仕方ないのだ。
尊敬とも違う。
敵意とも違う。
憧れとも違う。
もっと面倒な何か。
そんなふうに見えていた。
もっとも。
私が一番面白いと思っていたのは別のことだ。
エアハルト・メセナは女性だった。
別に秘密ではない。
少なくとも本人は隠していない。
ただ誰も気にしていなかっただけだ。
探検家はそういう生き物である。
だから私も気にしていなかった。
一人を除いて。
モンブは本当に気付いていなかった。
あれほど人の機微に鈍い人は中々いない。
だから多分。
エアハルト本人も救われていたのだと思う。
あの人は最強の探検家だった。
誰もが上を見上げる。
誰もが後ろを歩く。
けれどモンブだけは違った。
性別も。
肩書きも。
名声も。
何も見ていなかった。
見ていたのは目の前の探検家だけだ。
だから二人の会話はいつも噛み合わないのに。
不思議と少しだけ楽しそうだった。




