2話
エアハルト・メセナを知らない探検家はいない。
現存する開拓者の頂点。
「不屈の帰還者」。
そう呼ばれる男である。
死亡認定が下された現在においても、モンブ・アシャリカの名を語る上で彼の証言は避けられない。
二人は長く比較され続けていた。
エアハルト・メセナ。
史上最高峰の探検家。
モンブ・アシャリカ。
史上最速の探検家。
その対比は半ば様式美となっており、両者の名は常に並べて扱われている。
記録か。
実績か。
速度か。
到達点か。
それを語る者によって評価は変わる。
ただ本人は、その比較をあまり好んでいなかったらしい。
初めて取材を申し込んだ際も、
「あいつの話か」
とだけ呟き、しばらく沈黙していた。
それから窓の外を見て、
「面倒な取材だな」
と続けた。
その声音に敵意はなかった。
少なくとも筆者にはそう聞こえた。
実際、彼の証言は終始一貫していた。
モンブを肯定もしない。
否定もしない。
ただ事実だけを並べていく。
その語り口は妙に冷静だった。
最初に尋ねたのは単純なことだ。
モンブ・アシャリカは優秀な探検家だったのか。
エアハルトは即答した。
優秀だった、と。
それも異常なくらいに。
例えば五十階層到達記録。
当時の探検家界隈は騒然となった。
記録だけなら過去にも存在する。
問題は速度だった。
本来なら十年。
天才でも五年。
そう言われていた道程を、モンブは数年で駆け抜けた。
誰も信じなかった。
当然である。
しかも彼は深層へ潜るにつれて同行者を減らし、最後には完全な単独探索へ移行している。
常識では説明がつかない。
だから詐欺を疑われた。
エアハルト自身も当時は疑っていたという。
ただし。
不正を疑ったことは一度もなかったそうだ。
彼が疑ったのは別のことだった。
「どうやって生きてるんだ?」
それだった。
普通なら死ぬ。
誰だってそう思う。
濾過呼吸器を持たない。
補給班もいない。
護衛もいない。
深層を一人で進む。
正気じゃない。
エアハルトはそう言って笑った。
久しぶりに見た笑顔だった。
ただ、それは嘲笑ではなかった。
どこか呆れたような笑いだった。
「あいつ、本当に一人だったからな」
当時を知る探検家たちは半信半疑だったという。
裏で協力者がいる。
秘密組織がいる。
国家が支援している。
そういった噂は尽きなかった。
だが調べても何も出てこない。
本当に何もない。
だから逆に不気味だった。
普通は何かある。
ないからこそ異常なのだ。
そこで話は少し意外な方向へ進む。
エアハルトは最強になりたいと思ったことがあるか。
そう尋ねると、
しばらく考え込み、あると答えた。
若い頃は特にそうだったらしい。
強くなりたい。
上へ進みたい。
知らない場所を見たい。
探検家なら誰でも抱く感情だろう。
だがモンブには、それがなかったという。
少なくともエアハルトにはそう見えていた。
「あいつは違った」
強くなりたかったわけじゃない。
有名になりたかったわけでもない。
深淵を愛していたわけでもない。
では何だったのか。
そこで初めてエアハルトは言葉を選んだ。
長い沈黙だった。
窓の外では雲が流れている。
ようやく口を開いた時、その声は思った以上に静かだった。
「あいつは間に合わせたかったんだ」
何に。
そう尋ねる前に、
エアハルトは首を振った。
それは分からない。
最後まで分からなかった。
だが確実に何かがあった。
誰かを追いかけているようにも見えた。
何かから逃げているようにも見えた。
とにかく急いでいた。
息を切らして走っている人間だけが持つ焦りがあった。
だから何度も忠告したらしい。
急ぐな。
休め。
一人で潜るな。
だが聞かなかった。
聞けなかったのだろう、とエアハルトは言う。
ここで少しだけ、彼の表情が苦くなった。
「あいつはな」
そこで言葉が詰まる。
探検家らしくない沈黙だった。
やがて出てきた言葉は短い。
「可哀想な奴だった」
意外な評価だった。
英雄でもない。
天才でもない。
怪物でもない。
詐欺師でもない。
可哀想。
それが長年のライバルから送られた言葉だった。
理由を尋ねると、エアハルトは少しだけ笑った。
「今なら分かる。あいつは最速になりたかったんじゃない……最速でなきゃいけなかったんだ」
その言葉の意味を、この時の筆者は理解できなかった。
だが後になって思えば。
おそらく彼だけは、本当に近くでモンブを見ていたのだろう。
少なくとも。
詐欺師と呼ばれた男が、栄光を追って走っていたわけではないことを知る程度には。




