1.5話
失踪の三年前、セナが病に倒れる前のことである。
モンブが四日がかりの探索を終え、探索酒場へ入った瞬間だった。
誰かが吹き出した。
「あ」
たった一言。
それが火種となり、隣の席からも笑い声が漏れる。
ひそひそ話。
わざと聞こえる声量。
いつものことだった。
深淵詐欺師。
その名前は酒場では便利な娯楽になっていた。
本人が来ればなおさらである。
「おい」
モンブの背後から声が飛ぶ。
モンブは無視した。
「おい、深淵詐欺師」
酒場には誰もこの絡みを咎めるものはいない。
エアハルトやラザは今日は酒場に顔を出していないらしい。
2人とも揃いも揃って冗談が通じず面倒な質だが、こういう場で顔が効く分、隣に置いておけば蚊取り線香くらいの効果はあるのだが。
嘆いて軽口に逃避していても仕方ない
仕方なく振り返る。
目の前の男は楽しそうに笑っている。
敵意も悪意もない。
ただ面白がっていた。
それが一番面倒だった。
「今日は何階層だ?」
「忘れた」
笑いが起こる。
揶揄い、野次、嘲笑の類い。
「また始まったぞ」
「昨日は60階層だったもんな」
「今日は70か?」
「明日は深淵100階層制覇だな」
モンブは肩を竦める。
適当に手を振る。
いつも通りだった。
「で」
男が続ける。
「今回も単独探索なんだろ?」
「そうだな」
「単独って何人だ?」
酒場が爆笑する。
いつもの流れ。
いつもの冗談。
いつもの嘘つき扱い。
モンブは笑う。
作り慣れた笑顔だった。
本当に一人だった。
最初から最後まで。
本当に。
笑えるくらい。
だが言わない。
いう必要がない。
説明するだけ無駄だから。
「どうした?」
「答えろよ」
「何人連れてったんだ?」
モンブは少し考える。
そして答えた。
「昨日は俺含めて三百人」
酒場がさらに沸いた。
机を叩いて笑う者までいる。
「いきなり増えすぎだろ!」
「王国軍か!」
「いや国家連合だろ!」
モンブは調子者の如く適当に手を振る。
「実は魔王もいた」
捻りのない軽口だが、退屈な酔っぱらいどもと相手はこの程度で良い。
別段彼らに深い悪意はないのだ。
常識の側に立って、浮いた変な奴をみんなと息を合わせて叩くだけ。
周囲に合わせることが趣味の可哀想な奴らなのだ。
酒場にはさらに笑いが起きる。
その時だった。
「別にいいじゃない」
静かな声。
酒場が少しだけ静まる。
窓際。
セナだった。
「何がだよ」
男が聞く。
自分が仕切っていた場が崩されて気に食わないといった態度を隠そうともしない。
対するセナは本から顔すら上げず応える。
「本当でも嘘でも。生きて帰ってきたら、あとはギルドが踏破認定するかしないか、それだけでしょ?」
ページをめくる。
そして続けた。
「貴方たちが黒白をつけることじゃない。ギルドの裁定にケチをつけるなんて、ただの負け惜しみでしょ?」
静かになる。
男は苦笑する。
「甘いなぁ」
セナは首を傾げた。
「そう?」
「どうせまた嘘ついてるぞ」
そこで初めてセナが顔を上げた。
「モンブ」
「ん」
「三百人もいたの?」
モンブは鼻で笑う。
「自分が不利になる嘘をつくような奴は探検家なんかできねえよ」
「魔王も?」
「いた」
「へえ」
酒場が少し笑う。
眼前のセナも笑う。
「じゃあ一人だったんだ」
モンブが顔をしかめる。
「話聞いてたか?」
「違うの?」
「違う」
「ふふ、そう」
セナが笑う。
「それなら、お疲れさま」
今度はモンブが黙った。
酒場も静かになる。
その言葉だけは。
いつも反応に困る。
褒められるのは苦手だった。
感謝されるのも苦手だった。
心配されるのも嫌いだった。
だから軽口を叩いてばかりだった。
でも。
この腐れ縁の女だけは、モンブに逃げることを許さない。
どう返せばいいのか最後まで分からなかった。
「まだ疲れてない」
セナは頷く。
「じゃあ帰ったら休もう」
「天邪鬼だな。それに偉そう」
「偉いから」
「誰が決めた」
「私」
即答だった。
酒場に転々と笑いが起こる。
吹き出した奴は一瞬腐しそうに眉を顰めたが、そうなった以上は笑ってしまった者の負けだ。
伝播していく今度の笑いは優しかった。
モンブはため息を吐く。
「面倒な女だな」
セナは本を開き直しながら答える。
「知ってる」
そして少しだけ口元を緩めた。
「だからちゃんと帰ってきて」
その言葉に。
モンブは何も返さなかった。
返せなかった。
「もう貴方しか相手してくれないもの」




