第8話 不器用な手伝いと、週末の約束
カチッ、カチッ、と壁の時計が規則正しい音を刻んでいる。
ハンバーグを食べて満足し、ブランケットに包まって猫のように丸まっていた氷室雫が、ようやくパチリと目を覚ました。
「……ん、……私、寝ちゃったのかしら」
「ああ、三十分くらいな。おはよう、氷室さん」
「……おはよう、佐藤君。……じゃなくて、もう夜よね」
お団子にまとめていた黒髪が少し崩れ、数筋の髪が彼女の白い頬にかかっている。寝起きのせいで少し潤んだ瞳が、ぼんやりと俺を捉えた。学校で見せる、すべてを見透かすような鋭い視線はどこにもない。
「……悪いわね。ご飯まで作らせて、その上、片付けもさせたままで」
「いいよ、契約だろ。俺はお前の生活を支える係なんだから」
「……ううん。作ってもらってばかりじゃ、申し訳ないわ。……食器洗い、私がやるわ」
雫はそう言うと、気合を入れるようにブランケットを跳ね除けて立ち上がった。
「おい、大丈夫か? お前、洗い物なんてしたことないだろ」
「馬鹿にしないで。お皿を洗うくらい、私にだってできるわ。……これでも、学校では理科の実験器具の洗浄、得意なんだから」
「……ビーカーと飯の皿は別物だと思うけどな」
だが、雫の意志は固かった。彼女は俺のキッチンへ向かうと、俺の外したエプロンを勝手に手に取り、自分の腰に巻いた。
ダボッとしたパーカーの上からエプロンを締める姿は、どこかちぐはぐで、でも、言葉にできないほど家庭的で――俺はまた、不自然に鼓動が早くなるのを感じて視線を逸らした。
しかし、その後の展開は、俺の予想を遥かに下回るものだった。
「……氷室さん。洗剤、出しすぎだ」
「えっ? でも、泡立たないと汚れが落ちないでしょう?」
「泡立ちすぎだ! シンクが雲の上みたいになってるぞ!」
雫がスポンジに洗剤をドバドバとかけたせいで、キッチンは一瞬で真っ白な泡に包まれた。さらに彼女は、油汚れがついた皿を素手で掴もうとして――。
「わっ、……滑る、わね。これ」
「おい、危ない!」
泡だらけの手から、俺の愛用しているお皿がスルスルと脱落しそうになる。
雫が慌ててそれを掴もうとし、さらに体勢を崩した。
「あ……っ!」
「あっ――」
咄嗟だった。
俺は彼女の背後から手を伸ばし、彼女が落としそうになった皿と、その皿を握っていた彼女の手を、後ろから包み込むようにして支えた。
「…………っ」
時間が、止まった。
俺の胸が、彼女の背中に。
俺の腕が、彼女の細い肩を囲うように。
そして俺の両手が、雫の泡だらけの手を、上からそっと重ねる形になっている。
背後から抱きしめるような格好。
雫の崩れかけたお団子から、艶やかな黒髪がひと房、俺の頬に触れた。
石鹸の香りと、彼女自身の体温。
そして、俺の腕の中で、雫の身体がビクンと強張るのが伝わってくる。
「……あ、……その」
「………………」
俺の声が、彼女の耳元で震えた。
雫の首筋が、耳の裏が、みるみるうちに鮮やかな赤に染まっていく。
彼女の吐息が、一気に荒くなったのが分かった。
「……さ、佐藤、君……」
「……わりぃ。……でも、皿、割りそうだったから」
「…………近い、わ」
「……そう、だな。悪い」
俺は弾かれたように彼女から離れた。
雫もまた、泡だらけの手を胸の前で握りしめたまま、一歩、二歩と後ずさる。
二人の間に、重苦しい、でもどこか甘ったるい沈黙が流れる。
雫は俯き、長い黒髪で顔を隠してしまったが、それでも隠しきれないほど、彼女の首筋は熱を帯びていた。
気まずさを誤魔化すように、俺はわざとらしく咳払いをし、冷蔵庫を指差した。
「……あー、とにかく。危ないから、後は俺がやる。……それより、明日のことなんだけどさ」
「……あ、……明日?」
「明日、土曜だろ。冷蔵庫の中身がもう空なんだ。……だから、午前中に近くのスーパーまで買い出しに行こうと思って」
俺は、今この瞬間を切り抜けるための話題として、実務的な話を振った。
だが、雫はまだ赤みが引かない顔をゆっくりと上げ、俺の服の裾を、指先でギュッと掴んだ。
「…………私も」
「え?」
「……私も、一緒に行きたい。佐藤君の、買い物」
「いや、でも、俺が行くのはあそこの激安スーパーだぞ? お前みたいなのが行くような場所じゃないし、それに……」
言いかけて、俺は言葉を飲んだ。
雫が、まるで迷子になった子供のような、不安げな瞳で俺を見上げていたからだ。
「……佐藤君が選ぶ食材を、私も見てみたいわ」
「……氷室さん」
「ダメ、かしら。……契約には、入ってない?」
そんな顔で、そんな声で言われたら、断れるわけがない。
俺は頭を掻きむしり、大きな溜息をついた。
「わかったよ。……一緒に行こう。その代わり、ちゃんと変装しろよ? もし学校の奴に見つかったら……」
「……大丈夫よ。完璧に隠してみせるわ」
雫は、ようやくいつもの少し勝ち気な笑顔を浮かべた。
だが、その瞳には明らかな期待の光が宿っている。
買い物。それはつまり、休日を二人で過ごすということで。
世間一般では、それを『デート』と呼ぶのではないか――そんな考えが頭をよぎり、俺は再び顔が熱くなるのを感じた。
学校一の「氷の令嬢」と、二人でスーパーの特売品を漁る。
そんな光景、もし誰かに見られたら、俺の高校生活は間違いなく、今日で終わりを迎えてしまうだろう。
「……はぁ。どうなるんだよ、これ」
キッチンの泡を流しながら、俺は波乱の予感しかしない明日の休日を思い、天を仰いだ。




