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第7話 ハンバーグと、無造作な黒髪

玉ねぎを炒める甘い香りが、部屋に満ちていく。

 

飴色になるまでじっくりと火を通した玉ねぎをボウルに移し、牛豚の合挽肉、卵、パン粉、そして隠し味のナツメグを加える。手の熱が伝わりすぎないよう、手早く、かつ粘りが出るまでこねていく。

 

空気を抜くために左右の手でキャッチボールをするような乾いた音が、静かな部屋に響く。

 

俺は、今まさに人生で最も気合を入れて「煮込みハンバーグ」を作っていた。

 

理由は、言うまでもない。

学校の廊下で、あんな甘い声で「今日の夕食、なに?」と聞かれてしまったからだ。あの時の吐息の熱を思い出すだけで、握っている肉の塊まで熱くなってしまいそうだった。

 

フライパンで両面に焼き色をつけ、肉汁を閉じ込める。そこへ赤ワイン、ケチャップ、ウスターソース、それに少しのコンソメを加えた特製ソースを投入した。


グツグツとソースが煮立ち、ハンバーグがふっくらと膨らんでいく。

そのタイミングで、玄関のチャイムが控えめに鳴った。


「はいはい、今開ける」

 

手を拭き、ドアを開ける。

そこに立っていたのは、間違いなく「氷の令嬢」こと氷室雫だったのだが――その姿に、俺は思わず言葉を失った。


「……お邪魔するわ、佐藤君」

 

そこにいたのは、学校での凛とした制服姿ではない。

上は少し大きめのグレーのプルオーバーパーカー。ダボッとしたシルエットのせいで、彼女の華奢な体つきがより強調されている。下は柔らかな素材のショートパンツに、黒いタイツ。

 

何より俺の目を釘付けにしたのは、その髪だった。

夜を溶かしたような、あの艶やかな黒髪。


学校では一筋の乱れもなく真っ直ぐに下ろされていたそれが、今は青いシュシュで無造作なお団子状にまとめられていた。

うなじ、が見えていた。

 

透き通るような白磁の肌。後れ毛が数本、細い首筋に張り付いている。

普段は鉄壁の防御を誇る彼女の「素」の部分を突きつけられたようで、俺は慌てて視線を逸らした。


「……なんだ、その格好」


「部屋着よ。……変かしら? 佐藤君の部屋に行くんだから、リラックスした格好の方がいいと思って」


「変じゃない。……というか、あまりにも無防備すぎるだろ。一応、俺は男だぞ」


「あら。……佐藤君に、何か変なことをされる心配なんてしてないわよ?」

 

雫は少しだけいたずらっぽく微笑むと、するりと俺の脇を抜けて部屋に入ってきた。

ふわっと、石鹸の香りに混じって、彼女自身の甘い匂いが鼻をくすぐる。

 

「……いい匂い。ハンバーグね?」


「ああ。ちょうど煮込み終わったところだ」

 

俺は平静を装いながら、キッチンに戻った。

雫は、ローテーブルの前にちょこんと座った。

 

「はい、おまちどうさま」

 

 湯気を立てる煮込みハンバーグ。添え物は彩りを考えてブロッコリーとミニトマト、それにマッシュポテト。

 

雫は目を輝かせ、子供のように身を乗り出した。


「いただきます……!」

 

箸でハンバーグを割ると、中から溢れ出した肉汁がソースと混ざり合う。

彼女はそれを大きく一口、口に運んだ。

 

「…………っ、んぅ!」

 

瞬間、雫の両肩がビクリと跳ねた。

彼女は目を閉じ、じっくりと、本当に愛おしそうに咀嚼を始める。

そして。


「…………ふにゃっ」

 

出た。

学校の生徒たちが見たら、その場で失神するであろう、とろけるような脱力スマイル。


黒色の瞳が潤み、頬が林檎のように赤らんでいる。


「おいしい……。佐藤君のハンバーグ、世界一おいしいわ……。ソースが濃厚なのに、お肉の味がしっかりして……もう、止まらない……」

 

そこからの彼女は、まさに「夢中」という言葉がぴったりだった。

お団子にまとめた髪が揺れるのも気にせず、一心不乱にハンバーグを口へ運ぶ。マッシュポテトをソースに絡めて食べる仕草は、もはや芸術的なまでの執着を感じさせた。


「……そんなに喜んでもらえると、作った甲斐があるよ」


「本当よ。……私、お昼休みもずっとこの時間を楽しみにしてたんだから。廊下ですれ違った時なんて、正直、佐藤君に抱きついて献立を聞き出したいのを必死で我慢してたのよ?」


「……さらっと恐ろしいこと言うな」

 

もしそんなことをされていたら、今頃俺は学校中の男子から物理的に抹殺されていただろう。

 

やがて、二個あったハンバーグと大盛りのライスを完食した雫は、幸せそうな溜息をついて、背後のソファにもたれかかった。


「……ふぅ。お腹いっぱい……。幸せすぎて、このまま溶けてしまいそう……」

 

お団子にしていた髪が少し崩れ、サイドの毛が頬にかかっている。

彼女はそのまま、ソファの上で膝を抱え、丸くなった。

 

「おい、氷室さん。食後すぐに横になると牛になるぞ」


「……いいわよ、牛になっても。佐藤君の家の牛なら、きっと美味しいものをたくさん食べさせてもらえるもの……」

 

雫はうとうとと目を細めながら、猫が喉を鳴らすような声で呟いた。

パーカーの袖から覗く白い指先が、眠気を誘うようにソファの布地を小さく弄っている。

 

学校では、誰一人として近づけない「氷の令嬢」。

でも、俺の部屋にいる今の彼女は、ただの、お腹いっぱいで眠たくなった可愛らしい女の子だった。

 

つややかな黒髪が、部屋の明かりを受けてしっとりと輝いている。

無防備に晒されたうなじと、規則正しくなった吐息。

 

(……これ、本当に反則だろ)

 

俺は、彼女に風邪をひかせないよう、予備のブランケットをそっと掛けた。

雫は「ん……ありがと……」と小さく呟き、さらに深く丸まって寝息を立て始めた。

 

誰も知らない、俺だけの特等席。

俺は、眠る彼女の顔を眺めながら、自分もまた、不思議な満足感に包まれていることに気づいた。

 

俺の胃袋と心は、どうやら思っていたよりもずっと深い場所で、この「氷の令嬢」に掴まれてしまったようだった。

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