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第6話 すれ違いざまの耳打ち

私立光星高校の廊下は、休み時間ともなれば喧騒に包まれる。

だが、その一角だけは、まるでモーセが海を割った後のように、静謐な道が出来上がっていた。

 

その中心にいるのは、言うまでもなく氷室雫だ。


今朝、自分の部屋の前でゴミ袋を手にフリーズし、「裏返して着るわ」などという迷言を残した少女と同一人物だとは、到底信じられない。

 

背中まで届く艶やかな黒髪は、一筋の乱れもなく整えられ、歩くたびに夜の海がうねるような、重厚で美しい光沢を放っている。凛と前を見据える漆黒の瞳は、近づく者すべてを凍らせるような冷徹な光を宿していた。


「……はぁ、やっぱり別格だな。氷室さんは」


「ああ。横を通るだけで、なんか背筋が伸びるよ」

 

男子生徒たちが、畏怖と憧憬の入り混じった溜息をつく。

俺、佐藤悠真は、そんな光景を少し離れた位置から眺めていた。

 

今朝結んだばかりの『契約』の主、そして俺の隣人。その圧倒的なオーラを前にすると、数時間前の「ゴミの分別すらできないポンコツ姿」が、まるで質の悪い白昼夢だったのではないかという錯覚に陥りそうになる。


(……いや、あれは現実だ。俺の網膜には、あのカオスな部屋がばっちり記録されてる)

 

二時限目の終わりのチャイムが鳴り、教室が騒がしくなる。三時限目は理科室での授業。移動の準備を始めるクラスメイトたちの中で、彼女だけが、まるで時間が止まったかのような静謐を纏って席を立った。


「……やっぱり、話しかけづらいよな」


「ああ、あのオーラ。まさに『氷の令嬢』だぜ」

 

クラスの連中が遠巻きに囁き合う中、雫は誰と連れ立つこともなく、一人で教室を出ていく。


(……一人で移動するのが当たり前、か)

 

友達を作ろうとしないのか、それとも周りが恐れ多くて近づけないのか。

どちらにせよ、廊下を一人で進む彼女の背中は、どこか寂しげで、けれど同時に他人を拒絶するような鋭さがあった。

俺は少し遅れて教科書を抱え、男子数人と共に理科室へ向かう。


事件が起きたのは、混雑する連絡通路の踊り場だった。

二時限目のクラスが理科室から戻ってくる波と、俺たちのクラスが向かう波がぶつかり、廊下は一時的な渋滞を引き起こしていた。

 

人混みの中、不意に、前方から歩いてくる雫の姿が目に入る。

彼女は一足先に移動を開始したはずだが、どうやら反対側から来た生徒の列に阻まれていたらしい。


俺は一瞬、足を止めるべきか迷ったが、不自然に避けるのもおかしい。俺は「その他大勢のクラスメイト」の一人として、彼女の横を素通りしようと決めた。

 

距離が縮まる。

 

彼女の周囲だけ、やはり空気が冷え冷えとしているように感じる。

あと三メートル。二メートル。一メートル。

雫の無表情な顔が近づく。俺の方など一瞥もせず、彼女はただ真っ直ぐ前を見据えていた。

 

(よし。このまま何事もなく――)

 

そう思った、その時だった。

グイッ、と。

左腕の袖が、力強く引かれた。


「……っ!?」

 

驚いて視線を落とす暇もなかった。

すれ違う一瞬、俺と彼女の身体が、周囲の生徒たちの死角で重なる。


すると、氷室雫が不自然なほどに俺の方へと身体を寄せた。

サラサラと、夜を溶かしたような黒髪が俺の肩に触れる。

彼女は自分の長い髪で周囲の視線を遮るようにして、俺の耳元に顔を近づけた。

 

そして、氷の令嬢とは思えない、熱を帯びた吐息が耳朶を打つ。


「…………今日の夕ご飯、なに?」

 

囁かれた声は、甘く、そしてどこか切実だった。

今朝の「契約」を思い出し、早くも空腹に耐えかねているような、そんな幼い声。

心臓が、跳ねるどころか爆発しそうになった。

 

耳元をくすぐる吐息の熱。鼻腔をくすぐる、石鹸と彼女自身の柔らかな匂い。

学校中が跪く美少女が、今、俺の服の袖を掴み、二人だけの秘密を囁いている。

時間にして、わずか一秒にも満たない。

雫は何事もなかったかのように袖を離し、再び凛とした足取りで歩き去っていった。

 

呆然と立ち尽くす俺の背後で、クラスの男子たちの騒ぎ声が聞こえた。


「おい、佐藤! 大丈夫かよ!」


「……え、あ、ああ」


「今、氷室さんに思いっきり睨まれてただろ。凄まじい眼力だったぞ……」


「佐藤、お前何か悪いことしたのか? あんなに冷たい目で見られるなんて、お蔵入り確定だな、ご愁傷様」

 

クラスメイトたちが、憐れみの視線を俺に向けてくる。

どうやら、彼女が俺に接近した一瞬の動作は、周囲の目には「不快な奴を威圧し、睨みつけた」ように映ったらしい。


「あ……いや。まあ、ちょっと目が合っただけだよ」

 

俺は、熱くなった耳の裏を隠すように首をさすりながら、必死に平静を装った。

 

誰も知らない。

あの時、彼女の瞳が少しだけ潤んでいたことも。

冷たい仮面の下で、夕飯の献立を心待ちにしていたことも。

そして、俺の袖を掴んだ彼女の指先が、ほんの少しだけ震えていたことも。


(……やばい。これ、心臓が持たないぞ)


優越感、なんて高尚なものじゃない。

ただ、この世界で俺だけが知っている「氷の令嬢の秘密」が、あまりにも多すぎて、その重みに押し潰されそうだった。

 

授業中、理科室の窓の外を見つめながら、俺は必死に夕飯の献立を考えた。

今日の夕ご飯、なに? と聞かれた時の、あの期待に満ちた声。

あんな風に聞かれて、ただの野菜炒めで済ませるわけにはいかないだろう。


「……ハンバーグ。いや、煮込みハンバーグか」

 

ボソリと呟いた俺の声は、幸いにも教師の説明にかき消された。



 

放課後。

俺はいつも以上に足早に校門を抜け、激安スーパー『アキバ屋』へと向かった。

合挽肉のパックを手に取りながら、脳裏に浮かぶのは、今朝のあの「ふにゃっ」とした笑顔と、廊下での甘い囁き。

氷の令嬢は、一度溶け始めると、どうしようもなく甘いらしい。

 

アパートの廊下を歩く俺の足取りは、いつの間にか軽くなっていた。

隣の202号室のドアを見つめ、俺は小さく息を吐く。


「……よし、気合入れて作るか」

 

自分でも驚くほど、俺は「お世話」を楽しみにしているようだった。

学校でのハラハラ感と、家でのニヤニヤ感。


この二重生活は、俺が思っていたよりもずっと、中毒性が高いのかもしれない。

ドアを開け、買い物袋をキッチンに置く。


まだ誰もいないはずの部屋に、ふと、あの石鹸の香りが残っているような気がして、俺は再び顔を赤くした。

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