第5話 開かずの扉(202号室)と、秘密の契約
冬の朝の空気は、鋭い刃物のように刺す。
カラスの鳴き声が遠くで響く中、俺は、厚手のパーカーの上に一枚羽織り、片手にゴミ袋を提げて部屋を出た。
今日は燃えるゴミの日だ。一人暮らしにおいて、ゴミ出しをサボることは生活の崩壊を意味する。朝の七時半。共用廊下に出た俺は、そこである「異様な光景」を目にして、足をとめた。
隣の202号室の前。
先週、俺の部屋でチャーハンを二合半も平らげた「氷の令嬢」こと氷室雫が、まるで彫像のように立ち尽くしていた。
学校指定の制服に身を包み、夜の闇をそのまま形にしたような、艶やかな黒髪を背中に流している。相変わらず、溜息が出るほど美しい。だが、その手には不釣り合いな半透明のゴミ袋が握られていた。
「…………」
「……おはよう、氷室さん。朝から何してるんだ?」
声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせ、ゆっくりとこちらを振り向いた。
その漆黒のつぶらな瞳には、かつてないほどの困惑と、そして深い絶望の色が浮かんでいた。
「……佐藤、君。おはよう」
「おはよう。……そのゴミ袋、出さないのか? 集積所、あっちだぞ」
「それは……わかっているわ。わかっているけれど……」
雫は手元のゴミ袋を、まるで見得を切るように突き出した。中には、適当に丸められた雑誌や、昨日食べたと思われるコンビニパンの袋、そしてあろうことか、中身が半分残ったままのペットボトルが混ざっている。
「……これ、どうすればいいの?」
「……どうすればいいって、分別だよ。ペットボトルは洗ってラベル剥がして、プラスチックは別だろ。今日は燃えるゴミの日だぞ」
「……ふんべつ?」
雫が、聞いたこともない外国語を耳にしたような顔をした。
まさか、と思ったが、その「まさか」だった。
「氷室さん。もしかして、ゴミの捨て方、知らないのか?」
「……知らなくて当然でしょう。今までは、お手伝いさんが全部やってくれていたもの。私がやるのは、ゴミ箱に物を入れるところまでよ」
お嬢様……! と叫びたくなった。
学校でのあの完璧な振る舞いは、一体どんな教育の賜物なんだ。生活能力という土台がすっぽりと抜け落ちている。
「貸せ。俺がやってやる。……というか、その袋のまま出したら回収してくれないからな」
「あ……待って、佐藤君。それは……っ!」
俺が手を伸ばした瞬間だった。
雫が慌ててゴミ袋を後ろに隠そうとして、バランスを崩した。
彼女の背中が、半開きになっていた202号室のドアに当たる。
ガチャン、という音と共に、扉が大きく開いた。
「………………」
「………………あ」
朝の光が、開かれた202号室の内部を無慈悲に照らし出す。
俺の視界に飛び込んできたのは、先週、彼女のコートを預かった時に想像していた「美少女の清楚な部屋」とは、あまりにもかけ離れた光景だった。
玄関から続く廊下には、脱ぎ捨てられたタイツや制服のブラウスが散乱し、山積みになった段ボール箱が壁を作っている。奥の居間らしき場所には、読みかけの雑誌や、適当に放り出されたクッション、そして「失くした」と言っていた鞄が、何故かテレビの上に鎮座していた。
それはゴミ屋敷、と呼ぶにはまだ早いかもしれない。
だが、「家事という概念を放棄した人間が住む部屋」であることは間違いなかった。
「………………見ないで」
雫の声が、地を這うように低く響いた。
彼女は顔を真っ赤にし、涙目でドアのノブを掴んだ。
「今のは……見なかったことにして。お願いだから。忘れて。消去して。上書き保存も禁止よ」
「……無理だ。網膜に焼き付いた。というか、氷室さん。お前……あんなに偉そうにしてたのに、自分の部屋これかよ」
「うるさいわね! 先週引っ越してきたばかりなのよ! 荷解きの仕方も、掃除機の使い方も、洗濯機のボタンの意味もわからないんだから仕方ないじゃない!」
雫は半ば逆ギレするように叫ぶと、その場にへなへなと座り込んでしまった。
学校での凛とした「氷の令嬢」の姿は、もはや影も形もない。あるのは、慣れない一人暮らしに完全に敗北した、一人のポンコツな美少女の姿だけだった。
「……洗濯も、してないのか?」
「……予備の制服があるから、まだ大丈夫よ。でも、それが尽きたら……」
「尽きたらどうするんだよ」
「…………裏返して着るわ」
「美少女がなんてこと言うんだ!」
俺は深く、深く溜息をついた。
チャーハンの件といい、この惨状といい。
このまま放っておいたら、彼女は一週間もしないうちに、文字通り生活の荒波に飲み込まれて沈没するだろう。
「……おい、氷室さん」
「なによ。笑いたいんでしょう。笑えばいいわ。私は、自分の部屋すら管理できない、不完全な個体よ……」
頭を垂れて俯く雫。長い黒髪が、サラサラとこぼれ落ちる。その姿は、自信をなくした子猫のようだった。
俺は、彼女に手を差し伸べた。
「笑わないよ。……ただ、条件がある」
「条件?」
「俺が、お前の部屋の掃除と、洗濯のやり方を教えてやる。ついでに、毎日の夕飯も俺が作る。お前、自炊なんて絶対無理だろ」
雫が顔を上げ、期待と不安の混じった瞳で俺を見た。
「その代わり。食材費と諸々、つまり生活にかかる経費は、全額お前が持て。もちろん、俺の分の食費も込みだ。……俺も、仕送りの中でやりくりするのが結構キツいんだよ。お前は金だけはあるんだろ?」
俺の提案は、冷静に考えれば、彼女の「生活能力」と俺の「労働力」を等価交換する、ある種の契約だった。
俺は安く美味い飯が食えて、掃除もついでに済ませられる。彼女は、ゴミ屋敷化と餓死の危機から救われる。
「……あなたが、全部やってくれるの?」
「全部じゃない。やり方を教えるから、少しずつ覚えろ。……とりあえず、今日の夕飯からだ」
雫はしばらくの間、俺の手と、自分の散らかった部屋を交互に見ていた。
そして、意を決したように俺の手をギュッと握った。その手は少し震えていて、でも、驚くほど柔らかかった。
「……わかったわ。その契約、受ける。……佐藤君が、私のお世話をしてくれるのね?」
「お世話っていうか、これはビジネスだ。……いいな、学校では絶対に秘密だぞ。俺が隣の『氷の令嬢』の部屋を掃除してるなんてバレたら、俺の命がいくつあっても足りないからな」
「…………わかってるわよ。……佐藤君」
手を握ったままの雫は、まだ頬に赤みを残したまま、少しだけ誇らしげに胸を張った。
「契約成立ね。……私、もうお腹空いたわ。今日の夕ご飯、何かしら?」
「気が早いな。まだ学校にも行ってないだろ」
俺は苦笑いしながら、彼女の持っていたゴミ袋を取り上げた。
艶やかな黒髪を揺らし、完璧な美少女として学校へ向かう彼女。
だが、その背中を見送りながら、俺はまだ、わかっていなかった。
この「共同生活」とも呼べる秘密の契約が、俺たちの日常を昨日以上に、どうしようもなく変えてしまうことを。
「……さて。まずはこのゴミの分別から教えないとな」
俺は自分の部屋のゴミ袋と一緒に、彼女の「敗北の証」を持ち、もう一度自分の部屋に戻った。




