表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/7

第5話 開かずの扉(202号室)と、秘密の契約

冬の朝の空気は、鋭い刃物のように刺す。

 

カラスの鳴き声が遠くで響く中、俺は、厚手のパーカーの上に一枚羽織り、片手にゴミ袋を提げて部屋を出た。

 

今日は燃えるゴミの日だ。一人暮らしにおいて、ゴミ出しをサボることは生活の崩壊を意味する。朝の七時半。共用廊下に出た俺は、そこである「異様な光景」を目にして、足をとめた。

 

隣の202号室の前。

先週、俺の部屋でチャーハンを二合半も平らげた「氷の令嬢」こと氷室雫が、まるで彫像のように立ち尽くしていた。

 

学校指定の制服に身を包み、夜の闇をそのまま形にしたような、艶やかな黒髪を背中に流している。相変わらず、溜息が出るほど美しい。だが、その手には不釣り合いな半透明のゴミ袋が握られていた。


「…………」


「……おはよう、氷室さん。朝から何してるんだ?」

 

声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせ、ゆっくりとこちらを振り向いた。

その漆黒のつぶらな瞳には、かつてないほどの困惑と、そして深い絶望の色が浮かんでいた。


「……佐藤、君。おはよう」


「おはよう。……そのゴミ袋、出さないのか? 集積所、あっちだぞ」


「それは……わかっているわ。わかっているけれど……」

 

雫は手元のゴミ袋を、まるで見得みえを切るように突き出した。中には、適当に丸められた雑誌や、昨日食べたと思われるコンビニパンの袋、そしてあろうことか、中身が半分残ったままのペットボトルが混ざっている。


「……これ、どうすればいいの?」


「……どうすればいいって、分別だよ。ペットボトルは洗ってラベル剥がして、プラスチックは別だろ。今日は燃えるゴミの日だぞ」


「……ふんべつ?」

 

雫が、聞いたこともない外国語を耳にしたような顔をした。

まさか、と思ったが、その「まさか」だった。


「氷室さん。もしかして、ゴミの捨て方、知らないのか?」


「……知らなくて当然でしょう。今までは、お手伝いさんが全部やってくれていたもの。私がやるのは、ゴミ箱に物を入れるところまでよ」

 

お嬢様……! と叫びたくなった。

学校でのあの完璧な振る舞いは、一体どんな教育の賜物なんだ。生活能力という土台がすっぽりと抜け落ちている。


「貸せ。俺がやってやる。……というか、その袋のまま出したら回収してくれないからな」


「あ……待って、佐藤君。それは……っ!」

 

俺が手を伸ばした瞬間だった。

雫が慌ててゴミ袋を後ろに隠そうとして、バランスを崩した。

 

彼女の背中が、半開きになっていた202号室のドアに当たる。

ガチャン、という音と共に、扉が大きく開いた。


「………………」


「………………あ」

 

朝の光が、開かれた202号室の内部を無慈悲に照らし出す。

俺の視界に飛び込んできたのは、先週、彼女のコートを預かった時に想像していた「美少女の清楚な部屋」とは、あまりにもかけ離れた光景だった。

 

玄関から続く廊下には、脱ぎ捨てられたタイツや制服のブラウスが散乱し、山積みになった段ボール箱が壁を作っている。奥の居間らしき場所には、読みかけの雑誌や、適当に放り出されたクッション、そして「失くした」と言っていた鞄が、何故かテレビの上に鎮座していた。

 

それはゴミ屋敷、と呼ぶにはまだ早いかもしれない。

だが、「家事という概念を放棄した人間が住む部屋」であることは間違いなかった。


「………………見ないで」

 

雫の声が、地を這うように低く響いた。

彼女は顔を真っ赤にし、涙目でドアのノブを掴んだ。


「今のは……見なかったことにして。お願いだから。忘れて。消去して。上書き保存も禁止よ」


「……無理だ。網膜に焼き付いた。というか、氷室さん。お前……あんなに偉そうにしてたのに、自分の部屋これかよ」


「うるさいわね! 先週引っ越してきたばかりなのよ! 荷解きの仕方も、掃除機の使い方も、洗濯機のボタンの意味もわからないんだから仕方ないじゃない!」

 

雫は半ば逆ギレするように叫ぶと、その場にへなへなと座り込んでしまった。

学校での凛とした「氷の令嬢」の姿は、もはや影も形もない。あるのは、慣れない一人暮らしに完全に敗北した、一人のポンコツな美少女の姿だけだった。


「……洗濯も、してないのか?」


「……予備の制服があるから、まだ大丈夫よ。でも、それが尽きたら……」


「尽きたらどうするんだよ」


「…………裏返して着るわ」


「美少女がなんてこと言うんだ!」


 俺は深く、深く溜息をついた。

 チャーハンの件といい、この惨状といい。

 

このまま放っておいたら、彼女は一週間もしないうちに、文字通り生活の荒波に飲み込まれて沈没するだろう。


「……おい、氷室さん」


「なによ。笑いたいんでしょう。笑えばいいわ。私は、自分の部屋すら管理できない、不完全な個体よ……」

 

頭を垂れて俯く雫。長い黒髪が、サラサラとこぼれ落ちる。その姿は、自信をなくした子猫のようだった。

俺は、彼女に手を差し伸べた。


「笑わないよ。……ただ、条件がある」


「条件?」


「俺が、お前の部屋の掃除と、洗濯のやり方を教えてやる。ついでに、毎日の夕飯も俺が作る。お前、自炊なんて絶対無理だろ」

 

雫が顔を上げ、期待と不安の混じった瞳で俺を見た。


「その代わり。食材費と諸々、つまり生活にかかる経費は、全額お前が持て。もちろん、俺の分の食費も込みだ。……俺も、仕送りの中でやりくりするのが結構キツいんだよ。お前は金だけはあるんだろ?」

 

俺の提案は、冷静に考えれば、彼女の「生活能力」と俺の「労働力」を等価交換する、ある種の契約だった。

 

俺は安く美味い飯が食えて、掃除もついでに済ませられる。彼女は、ゴミ屋敷化と餓死の危機から救われる。


「……あなたが、全部やってくれるの?」


「全部じゃない。やり方を教えるから、少しずつ覚えろ。……とりあえず、今日の夕飯からだ」


雫はしばらくの間、俺の手と、自分の散らかった部屋を交互に見ていた。

そして、意を決したように俺の手をギュッと握った。その手は少し震えていて、でも、驚くほど柔らかかった。


「……わかったわ。その契約、受ける。……佐藤君が、私のお世話をしてくれるのね?」


「お世話っていうか、これはビジネスだ。……いいな、学校では絶対に秘密だぞ。俺が隣の『氷の令嬢』の部屋を掃除してるなんてバレたら、俺の命がいくつあっても足りないからな」


「…………わかってるわよ。……佐藤君」

 

手を握ったままの雫は、まだ頬に赤みを残したまま、少しだけ誇らしげに胸を張った。


「契約成立ね。……私、もうお腹空いたわ。今日の夕ご飯、何かしら?」


「気が早いな。まだ学校にも行ってないだろ」

 

俺は苦笑いしながら、彼女の持っていたゴミ袋を取り上げた。

艶やかな黒髪を揺らし、完璧な美少女として学校へ向かう彼女。

 

だが、その背中を見送りながら、俺はまだ、わかっていなかった。

この「共同生活」とも呼べる秘密の契約が、俺たちの日常を昨日以上に、どうしようもなく変えてしまうことを。


「……さて。まずはこのゴミの分別から教えないとな」

 

俺は自分の部屋のゴミ袋と一緒に、彼女の「敗北の証」を持ち、もう一度自分の部屋に戻った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ