第4話 氷の令嬢の「秘密」を握る
二食分、合計三合近い米を平らげた氷室雫は、満足げにふぅと息を吐き、しばらくの間、夢見心地でぼんやりと天井を眺めていた。
だが、その至福の時間は、脳に栄養が行き渡ると同時に、残酷な終焉を迎えた。
彼女の意識が、徐々に「氷の令嬢」としての自分を取り戻していく。
自分が今、どこにいるのか。
誰の前で、どんな姿を見せたのか。
泣きながらチャーハンを頬張り、お腹を鳴らし、あろうことか「ふにゃっ」などという、およそ彼女の辞書には存在しないはずの声を漏らして笑ったこと。
雫の顔色が、みるみるうちに変わっていった。
白から、赤へ。赤から、熟れすぎたトマトのような深い朱色へ。
「…………っ!」
彼女は弾かれたように立ち上がった。
あまりの勢いに、俺の方が驚いて肩を跳ねさせてしまう。
「ひ、氷室さん……?」
「忘れて」
低く、地を這うような声。
彼女は両手で自分の顔を覆い、指の隙間から、まるで親の仇でも見るような鋭い視線を俺に向けた。
「今の一切合切、一秒残らず、あなたの脳細胞からデリートして。もし……もし一言でも誰かに漏らしたら、佐藤君。あなたの高校生活を、文字通り北極圏より寒くしてあげるから」
さっきまでの、あのふにゃふにゃした笑顔はどこへ行ったのか。
目の前にいるのは、いつもの、いや、いつにも増して殺気立った「氷の令嬢」だった。
だが、凄んでいる割には、その耳たぶが隠しきれないほど真っ赤に染まっている。それが彼女の言葉の鋭さを、半分以下の攻撃力に下げていた。
「安心しろよ。言いふらしたところで、誰も信じないだろ。あの氷室さんが俺の部屋でチャーハン三合食って泣いて喜んでたなんて」
「三合も食べてないわよ!? ……二合半くらいよ!」
「大差ないだろ。……それに、俺だって自分の平穏な生活を壊したくない。秘密は守るよ」
俺が呆れたように言うと、雫は少しだけ肩の力を抜いた。
だが、依然としてその瞳には羞恥の炎がゆらゆらと揺れている。
「……本当ね?」
「ああ。佐藤家の家訓に『受けた恩は返すが、拾った弱みは墓まで持っていく』ってのがあるんだ」
「そんな不穏な家訓、聞いたことないわ……」
彼女は深く、深いため息をつくと、ようやく顔から手を離した。
そこへ、ローテーブルで充電していた彼女のスマートフォンが、控えめな通知音を鳴らす。
「あ……」
「数パーセントは溜まっただろ。管理会社に連絡するか、親戚にメッセージ送るくらいなら十分なはずだ」
「……助かるわ」
彼女はスマホを手に取ると、手早く操作を始めた。
どうやら親戚の連絡先が見つかったらしく、数分後には「今から向かうから、管理会社が着くまで近くのファミレスで待っていなさい」という返信が来たようだった。
「……佐藤君」
帰り際。
玄関のドアノブに手をかけた雫が、背中を向けたまま足を止めた。
外はもう、完全な夜の帳が下りている。
「何だ?」
「……さっきの、こと。……助けてくれたことには、感謝してるわ」
「いいって。隣のよしみだ」
俺がそう言うと、彼女は少しだけ振り返った。
廊下の街灯に照らされた彼女の横顔は、やはりどこまでも美しく、そしてどこか儚い。
「……また、作ってくれる?」
蚊の鳴くような、小さな声。
あまりに意外な言葉に、俺は言葉を失った。
「……チャーハン、おいしかったから。材料費は、出すわ。……それと、お礼も」
「あ、ああ……。まあ、気が向いたらな」
俺が曖昧に答えると、彼女はほんの一瞬だけ、ふいっと唇を尖らせたような気がした。
そして、今度こそ迷いのない足取りで、彼女は自分の部屋……ではなく、迎えを待つために階段の方へと歩いていった。
ドアを閉め、静まり返った自室を見渡す。
テーブルの上には、彼女が綺麗に平らげた二つの皿が残されている。
学校では、誰もが憧れ、誰もが近づくことすら許されない氷の令嬢。
でも、俺の部屋で見せた彼女は、空腹に耐えきれず、温かい飯に涙し、最後にはふにゃりと笑ってしまう……。
「……学校じゃあんなに怖いのに、家じゃあんな……甘えん坊な猫みたいじゃないか」
そんな呟きが、自分の口から漏れたことに驚き、俺は慌ててそれを手で塞いだ。
変な想像はやめよう。
彼女はただの隣人で、俺はただ、困っている人を助けただけ。
明日になれば、また「氷の令嬢」と「その他大勢のクラスメイト」に戻るだけなんだ。
翌朝。
昨日までの寒さが嘘のように、晴れ渡った空から冬の陽光が差し込んでいる。
教室に入ると、そこにはいつも通りの光景があった。
窓際の席で、静かに洋書を開く氷室雫。
彼女の周囲には、相変わらず見えない防壁が築かれ、男子生徒たちは遠巻きにその姿を拝んでいる。
(……だよな。昨日のあれは、幻覚みたいなもんだったんだ)
俺は自分の席に座り、教科書を取り出した。
挨拶なんてする必要はない。昨日、彼女自身が「忘れて」と言ったのだ。
俺たちはあくまで他人のフリを貫く。それが、彼女にとっても俺にとっても最善の選択なはずだ。
だが。
「……あ」
一瞬、本当に偶然、視線が重なった。
彼女がページをめくる手が、ピタリと止まる。
昨日、俺の部屋で「ふにゃっ」と笑った時の、あの柔らかい表情。
それが脳裏をよぎり、俺は気まずくなって、すぐに視線を逸らした。
彼女もまた、何事もなかったかのように本に視線を戻す。
周囲の男子たちは、今の「事故のような視線の交差」にすら気づいていない。
だが、俺は見てしまった。
濡れたように艶めく黒色の長い髪の隙間から覗く、彼女の白い耳が。
俺と目が合ったその瞬間から、じわじわと、鮮やかな赤に染まっていくのを。
彼女は、本を読んでいるフリをしながら、必死に動揺を隠しているのだ。
その必死さが、そして隠しきれていない秘密の共有が、昨日よりもずっと、彼女のことを「ただの女の子」として意識させてしまう。
(……これは、思ったよりも厄介なことになったかもしれない)
俺たちの間だけに流れる、微かな、しかし決定的な空気の変化。
氷の令嬢が溶ける音は、どうやら俺にしか聞こえないらしい。
俺は小さく溜息をつき、授業の準備を始めた。
その日の夕飯、何を作ろうかと考える頭の隅には、昨日「また作って」と呟いた彼女の震える声が、ずっと離れずに残っていた。




