第3話 黄金のチャーハンと、溶けた氷
俺の部屋は、お世辞にも「高嶺の花」を招き入れるような場所じゃない。
六畳1Kの部屋。古びた木目調のクッションフロアに、小さなローテーブル、それから壁際を占拠する自作の書棚。生活感という名の、飾り気のない空気が部屋中に満ちている。
氷室雫は、まるで異世界の遺跡に迷い込んだ冒険者のような顔をして、玄関先で立ち尽くしていた。
「……狭いわね」
「悪かったな。家賃相応なんだよ」
俺は苦笑いしながら、彼女のコートを預かった。安物のハンガーにかけるのが少し申し訳なくなるような、手触りの良い上質なウール。
彼女は、まるで壊れ物を扱うような慎重さで、ローテーブルの前に座った。膝を揃え、背筋をピンと伸ばしたその姿は、このボロアパートの中では明らかに浮いている。
「適当に寛いでていいから。……とりあえず、お腹空いてんだろ」
「…………少しだけ」
強がりな返事。だが、彼女の視線は無意識に、キッチンの方を向いている。
俺は冷蔵庫を開け、中身を確認した。
回鍋肉にするつもりだったが、まずは手早く、そして空っぽの胃袋に優しく、かつ満足感のあるものを出すべきだろう。
「よし。とりあえず、これでも食ってろ」
俺は手際よく準備を始めた。
まずは冷蔵庫から、ラップに包んで冷やしておいた白米を取り出す。冷や飯の方が水分が飛んでいて、パラパラに仕上がるからだ。
次に卵を二つ。ボウルに割り入れ、菜箸で手早く解く。味付けはシンプルに鶏ガラスープの素と、ほんの少しの塩胡椒。
カチッ、という音と共に、ガスコンロに火が灯る。
中華鍋――といっても、ホームセンターで買った安い深型フライパンだが――が十分に熱せられるのを待ち、油を引く。
じゅわっ、と心地よい音がした。
「……何、してるの?」
座っていたはずの雫が、いつの間にかキッチンの入り口まで歩いてきていた。
不思議そうな顔で俺の手元を覗き込んでいる。どうやら、料理というプロセスそのものが、彼女にとっては珍しい光景らしい。
「チャーハンだ。すぐできるから」
溶き卵を流し込み、半熟になるかならないかのタイミングで冷や飯を投入する。
ここからは時間との勝負だ。強火のまま、お玉で米を押し広げるようにして、卵のコーティングを全粒に行き渡らせる。
黄金色に染まっていく米粒。
パチパチとはぜる音。
そして、卵と油が熱されて立ち上る、暴力的なまでに食欲をそそる香ばしい匂い。
「…………っ」
隣で、雫が小さく唾を飲み込む音が聞こえた。
さっきまでの「氷の令嬢」の面影はどこへやら、彼女の黒色のつぶらな瞳は、フライパンの中で踊る黄金の米粒に釘付けになっている。まるで餌を待つ雛鳥のような、無防備な視線。
仕上げに、鍋肌から醤油を一回し。
ジッ、という激しい音と共に、焦がし醤油の香りが爆発的に広がる。
刻みネギを散らし、最後に強火で一煽り。
「よし、完成だ。……『黄金チャーハン・特急仕上げ』、おまちどうさま」
俺は皿に盛り、スプーンを添えてテーブルに運んだ。
雫は吸い寄せられるように席に戻り、立ち上る湯気をじっと見つめている。
「……食べていいの?」
「毒なんて入ってないぞ」
「わかってるわ。……いただきます」
彼女は小さく手を合わせ、スプーンを手に取った。
一口。黄金色に輝く米粒を掬い、ふうふうと丁寧に息を吹きかける。
そして、薄い桜色の唇を開け、それを運んだ。
「…………」
雫の動きが止まった。
噛みしめるたびに、米一粒一粒に纏わせた卵のコクと、醤油の香ばしさが口の中に広がっているはずだ。
「……あ」
雫の目元が、不意に潤んだ。
長い睫毛が震え、そこから大粒の涙がぽろりとこぼれ、頬を伝った。
「おい、どうした!? 熱すぎたか? それとも味が変だったか?」
「……ちがうの」
彼女は首を振り、もう一口、また一口と、今度は止まることなくチャーハンを口に運んだ。
涙を拭おうともせず、一心不乱に。
「……おいしい。すごく……あったかいわ」
その声は、震えていた。
「私……ずっと、一人だったから。ここ数日、まともな食事もしてなくて……冷たいコンビニのパンとか、そんなのばかりで……」
彼女の父親は海外出張中だと言っていた。母親は…?
学校ではあんなに完璧に振る舞い、誰の手も借りずに凛と立っている彼女だが、家を一歩出れば、ただの寂しがり屋な、お腹を空かせた女の子に過ぎなかったのだ。
温かい出来立ての料理。それだけで、彼女の張り詰めていた心の糸は、ぷつりと切れてしまったらしい。
「そうか。……なら、遠慮しないで全部食え。おかわりもあるぞ」
「……うん」
そこからの彼女は、凄まじかった。
学校での優雅な立ち振る舞いはどこへやら。スプーンを動かす速度はどんどん上がり、頬をリスのように膨らませて、夢中でチャーハンを詰め込んでいる。
「ははっ、……あはは」
「……何よ」
「いや、氷室さんにもそんな一面があるんだなと思って」
「……見ないで」
顔を赤くしながらも、彼女の手は止まらない。
俺は、彼女が食べ終えるのを、向かい側の席で黙って眺めていた。
やがて。
最後の一粒を綺麗に掬い取った雫は、ふぅー……と、深いため息をついた。
空っぽになった皿を見つめ、それから俺を見る。
「…………ふにゃっ」
それは、言葉ではなかった。
お腹がいっぱいになって、緊張から解放され、心からの満足感に浸った人間だけが漏らす、吐息のような音。
彼女の頬が、柔らかく緩んでいた。
冷徹さのカケラもない。鋭い氷のような視線も、どこにもない。
ただ、春の日差しを浴びた子猫のような、柔らかで、無防備で、そしてとびきり可愛い笑顔。
「ごちそうさま、佐藤君。……生きててよかったわ」
そう言って笑った彼女の顔は、学校で見せるどんな美しい表情よりも、ずっと俺の心に深く突き刺さった。
「……そりゃよかった。……一応、聞くけど。……おかわり、いるか?」
俺が冗談めかして聞くと、雫はほんの少しだけ恥ずかしそうに、でも力強く頷いた。
「……お願いします」
どうやら「氷の令嬢」の心の氷は、俺の作った一皿のチャーハンで、跡形もなく溶けてしまったらしい。
そして俺は、目の前で幸せそうに笑う彼女を見て、不覚にも思ってしまった。
(……やばい。今の顔、可愛すぎるだろ……)
自分の心拍数が、少しだけ早くなるのを感じながら、俺は再びフライパンを握るために立ち上がった。




