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第2話 令嬢のピンチと、鳴り響いた音

夕闇が迫るアパートの廊下。

 

外灯がチカチカと不規則に瞬き、コンクリートの床に不吉な影を落としている。

そんな、およそ「美少女」という言葉とは無縁の場所に、氷室雫は座り込んでいた。


「……氷室さん。とりあえず、立ったらどうだ? 床、冷たいだろ」

 

俺が恐る恐る声をかけると、彼女の肩がビクリと跳ねた。

 

ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳には、まだ動揺の色が濃く残っている。しかし、俺が同じクラスの佐藤悠真だと認識した瞬間、その瞳にいつもの「拒絶」の光が宿った。


「……放っておいて。佐藤君には、関係のないことよ」

 

声は、鋭い。

学校で何度も耳にしてきた、他者を寄せ付けない氷の刃。

 

だが、その刃はボロボロに欠けていた。語尾がわずかに震え、白い指先が自分の膝を強く握りしめている。強がっているのがバレバレだった。


「関係ないって言われてもな……。俺の部屋、そこなんだよ。隣の奴がそんな顔して座り込んでたら、気になるだろ」


「…………隣?」

 

雫が、信じられないものを見るような目で、俺と201号室のプレートを見比べた。


「そうよ……不動産屋さんが言ってたわ。隣には、真面目そうな学生さんが住んでるって。まさか、佐藤君だったなんて……」

 

彼女は絶望したように溜息をつき、再び項垂れた。

 

どうやら「真面目そうな学生」という評価には合格していたらしいが、それがクラスメイトだったことは、彼女にとって計算外の恥辱だったらしい。


「それで、さっきの『ない』ってのは、何がないんだ?」


「………………」

 

雫は黙秘を決め込もうとしたようだが、俺がレジ袋を提げたままじっと待っていると、ついに観念したように小さな声を出した。


「……鞄。全部、入ってたの。お財布も、スマートフォンの予備バッテリーも、この部屋の鍵も……。どこかに、置き忘れてきちゃって」


「……え、スマホ本体も?」


「それは……あったんだけど、さっき電池が切れたわ。充電器も鞄の中」

 

それは、現代人にとって致命的な状況だった。

スマホが死に、財布がなく、鍵もない。

 

つまり、彼女はこの異国の地……ではなく、この安アパートの廊下で完全に孤立してしまったわけだ。


「家族は? 連絡つかないのか?」


「……父は、今朝から海外出張よ。しばらく帰ってこないわ。……予備の鍵を預かってる親戚も、今は旅行中で捕まらなくて」

 

氷室雫という少女の完璧なイメージが、音を立てて崩れていく。

 

学校ではあんなに隙がないのに、プライベートではこんなにも不運……というか、抜けているのか?


「とにかく、警察に行くか、管理会社に連絡して……」


「……嫌よ。警察なんて。それに、管理会社に電話したくても、スマホが使えないし、公衆電話の場所も、番号もわからないわ……」

 

彼女のプライドが、助けを求めることを拒んでいる。

 

だが、冬の夜気は情け容赦なく体温を奪っていく。彼女の着ているコートは高価そうだが、このまま朝までここで過ごせるほど、日本の冬は甘くない。


「……とにかく、ここに居続けるのは無理だ。風邪ひくぞ」


「大丈夫よ。慣れてるわ……寒さなんて」

 

何に慣れているんだ、と言いたくなった。氷の令嬢だから寒さに耐性でもあると思っているのだろうか。

 

彼女は頑なに視線を逸らし、自分の世界に閉じこもろうとする。

その様子は、まるで怪我をして威嚇している野良猫のようだった。


沈黙が流れる。

遠くで車の走る音と、アパートの裏の木々がざわめく音だけが聞こえる。

 

そして――。

 ぐうぅぅぅぅぅぅぅぅ……。

 

静寂を切り裂くように、その音は鳴り響いた。

控えめな音ではない。

空っぽの胃袋が、全力で「燃料をよこせ」と主張するような、深くて長い、生命の鼓動。

 

時が止まった。

雫の体が、石像のように硬直した。

 

白磁のような彼女の頬が、耳の付け根から首筋にかけて、一瞬で鮮やかな朱色に染まっていく。


「…………っ」

 

彼女は両手で顔を覆い、丸まった。

その震えは、もはや寒さによるものではなかった。


「……いまの、は……」


「…………聞いてない。俺は何も聞いてない」


「……嘘つき」

 

消え入るような声。

あんなに気高く、冷徹だった氷の令嬢が、今や羞恥心で爆発しそうな一人の女子高生に成り下がっていた。

 

俺は、手に持ったレジ袋を見た。

中には、特売の豚肉とキャベツ、そして卵。

本来なら俺一人の質素な夕飯になるはずだった食材たちだ。

 

正直、関わり合いになるのは面倒だと思っていた。

学校一の有名人と、こんな形で接点を持つなんて、これからの平穏な高校生活に支障が出るかもしれない。

 

だが、目の前で空腹に耐えかねて震えている女の子を見捨てて、自分だけ温かい飯を食うほど、俺の心臓は毛深くなかった。


「……おい」


「……あっちに行って。お願いだから、消えて……」


「無理。俺の部屋、ここだから」

 

俺はポケットから鍵を取り出し、201号室のドアに差し込んだ。

ガチャリ、という乾いた音が、静かな廊下に響く。


「……とりあえず、入れよ」


「えっ……?」

 

雫が顔を上げ、驚いたように俺を見た。


「充電器くらいなら貸せるし。親戚とか誰かに連絡つくまで、ここで待てばいいだろ。……それに」


「それに……?」


「……そんな派手な音が鳴るほど腹減ってんなら、何か食わせなきゃ、隣の住人として寝覚めが悪い」

 

雫は困惑したように目を泳がせた。

知らない男子の部屋に入る。それは彼女のような立場の女子にとって、本来なら論外の選択肢だろう。


「……佐藤君、は……変な人ね」


「よく言われるよ」

 

俺はドアを開け放ち、彼女を招き入れるように横に避けた。

雫はしばらく躊躇していたが、再びお腹が「きゅる……」と小さく催促の声を上げると、絶望したように肩を落とし、小さな声で言った。


「……失礼、します……」

 

おぼつかない足取りで、彼女は俺の城――6畳1Kの生活感溢れる空間へと足を踏み入れた。

 

学校中が憧れる氷の令嬢が、俺の部屋に。

その事実に、俺の心臓も少しだけ騒がしくなり始めていたが、俺はそれを「特売の肉をどう調理するか」という悩みで塗りつぶした。


「……適当に座ってて。今、すぐ作れるもの出すから」

 

これが、俺の平凡な日常が、少しだけ騒がしく、そして「甘く」変わり始めた瞬間だった。


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