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第1話 高嶺の花は、隣の部屋に住んでいる

私立光星高校には、冬が年中無休で居座っている場所がある。

 

二年生の教室、その窓際の特等席。そこに座る少女の周囲だけは、目に見えない薄氷が張り詰めているかのように、常に凛として、そしてひどく冷ややかだ。

 

氷室ひむろしずく

 

それが彼女の名前であり、同時にこの学校における一つの「聖域」の名称でもあった。

 

夜の闇を溶かしたような真っ直ぐな黒髪と透き通るような白い肌。彫刻家が心血を注いで削り出したかのような鼻筋に、すべてを拒絶するかのように静謐な、漆黒の瞳。

 

彼女がただそこに座っているだけで、教室の空気はピンと張り詰め、騒がしい男子生徒たちも無意識に声を潜める。


「……今日も相変わらずだな、氷室さんは」


「ああ。綺麗すぎて、同じ空気を吸ってるのが申し訳なくなるレベルだよな」

 

休み時間、教室の隅でそんな囁き声が聞こえてくる。

 

そんな声を意に介することもなく、氷室雫は難解そうな洋書に目を落としていた。彼女が誰かと親しげに話している姿を、俺はこの一年半、一度たりとも見たことがない。

 

話しかけようとした勇気ある男子が、彼女の一瞥――文字通り「氷」のような視線――を受けただけで、石のように固まって退散していった光景なら、何度か目撃したことがあるけれど。

 

俺、佐藤さとう悠真ゆうまは、そんな光景を教室の端にある自分の席から、ぼんやりと眺めていた。

 

俺にとって、彼女はテレビの中の女優や、歴史の教科書に載っている偉人と大差ない存在だ。同じ空気を吸い、同じチャイムの音を聞いてはいるが、住む世界が違いすぎる。

 

彼女が「高嶺の花」だとしたら、俺はせいぜい道端に生えている「名もなき雑草」だろう。それも、手入れの行き届いた庭園ではなく、コンクリートの隙間からひっそりと顔を出しているような。


「さて、今日の夕飯はどうするかな……」

 

俺の頭の中にあるのは、氷の令嬢の美しさよりも、近所のスーパー『アキバ屋』の特売情報だった。

 

共働きの両親は現在、地方へ移り住んでいる。仕送りはもらっているが、将来のために貯金もしておきたい。結果として俺の趣味は、いかに安く、いかに美味い飯を自炊で作るか、という一点に集約されていた。

 

キーンコーンカーンコーン、と放課後を告げるチャイムが鳴る。

 

氷室雫は、流れるような動作で本を鞄にしまい、誰に挨拶することもなく教室を後にした。その背中を見送る男子たちの視線には、崇拝と、そして決して届かないことへの諦めが混じっていた。


「……ま、俺には一生縁のない話だよな」

 

自分に言い聞かせるように小さく呟き、俺もまた、生活感に満ちた日常へと足を向けた。


 


 


学校から徒歩十五分。

古びた商店街を抜け、さらに路地裏へ入った先に、俺の城はある。

『コーポ・サザンカ』。築二十年、家賃四万五千円。

 

壁は薄く、冬は寒く夏は暑い。だが、駅から少し離れているおかげで静かだし、何より近くのスーパーが激安なのが最高だ。

 

俺は片手に、ずっしりと重いレジ袋を提げていた。

中身は、三割引のシールが貼られた豚バラ肉のパックと、一玉九十八円の大きなキャベツ、それに特売の卵一パックだ。


「今日は回鍋肉ホイコーローにするか。キャベツの芯もしっかり使えば、明日明後日のおかずも作れるな……」

 

そんな所帯じみたことを考えながら、俺はアパートの外階段を一段ずつ上っていく。

二階の廊下。俺の部屋は201号室だ。


廊下には、夕暮れ時の少し湿った冷たい空気が溜まっている。

自分の部屋の前まで来たとき、俺は違和感を覚えた。

 

俺の部屋のすぐ隣――202号室。

 

少し前まで空室だったはずのその扉の前に、何かが「落ちて」いた。

いや、物ではない。人だ。


誰かが、コンクリートの床に直接膝をつき、力なく項垂れている。

高級そうな濃紺のダッフルコート。その下から覗くのは、見覚えのあるチェックのスカート。


「……え?」

 

心臓がドクンと嫌な跳ね方をした。

 

その人物の肩が、小刻みに震えている。

そして、指の間からこぼれ落ちそうなほど、滑らかな黒髪。

 

まさか。そんなはずがない。

ここは、家賃四万五千円のボロアパートだぞ?

 

あんな、宝石をちりばめたような世界に住んでいる住人が、こんな場所にいるわけが――。


「……あの、大丈夫ですか?」

 

気づけば、声をかけていた。

 

その人物が、ゆっくりと顔を上げる。

潤んだ黒色の瞳。真っ白な肌は、寒さのせいか少し赤らんでいる。


そこにあったのは、冷徹な仮面が剥がれ落ちた、今にも消えてしまいそうなほど脆い少女の顔だった。


「…………ひ、むろ……さん?」

 

氷室雫だった。

学校の誰もが跪く「氷の令嬢」が、そこにはいた。

 

彼女は、自分の隣の部屋のドアの前で、絶望を形にしたような顔をして座り込んでいたのだ。

 

俺の手に提げられたレジ袋の中で、安売りの卵パックがカサリと音を立てた。

彼女の視線が、俺と、俺の提げたレジ袋と、そして俺の背後にある「201号室」のプレートを往復する。


「な……さ、佐藤……君……?」

 

彼女の唇が、震えながら俺の名前を呼んだ。

学校で見せる冷ややかな声ではない。掠れて、震えて、ひどく心細そうな声。

 

俺はこの時、まだ知らなかった。

この「ありえない遭遇」が、俺の平穏な自炊生活を、そして彼女の凍てついた日常を、根底からひっくり返してしまうことになるなんて。


「……氷室さん、なんで、こんなところで……」


「……ないの」


「え?」


「……ないのよ……。どこにも……」

 

彼女はそう言うと、再び顔を膝の間に埋めてしまった。

冬の風が、廊下を吹き抜けていく。

 

俺の隣の部屋に住むことになったらしい「氷の令嬢」は、どうやら俺が想像していたよりも、ずっと大きな問題を抱えているようだった。

 

これが、俺と彼女の、最悪で最高な「隣人生活」の幕開けだった。


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