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第9話 変装した令嬢は、誰よりも目立つ 

土曜日の朝。

冬の柔らかな陽光が、結露した窓ガラスを白く透かしている。

 

俺、佐藤悠真は、自室の姿見の前で、一応申し訳程度に寝癖を直し、トレーナーに細めの黒パンツ、そして、クローゼットの中から一番ましなダッフルコートを選んで羽織った。

 

ただのスーパーへの買い出しだ。

本来ならにジャージにパーカーでも羽織っていけば十分な用事。だが、今日は事情が違う。


(……何やってんだろ、俺)

 

鏡の中の、少し緊張した顔の自分に苦笑する。

隣の部屋に住む、あの「氷の令嬢」こと氷室雫と一緒に買い物に行く。

 

昨日、彼女から「一緒に行きたい」と言われた時の、あの不安げで、でも期待に満ちた瞳を思い出すと、どうしても「適当な格好」で済ませるわけにはいかなかった。

 

コンコン、と。

控えめだが、どこか弾むようなノックの音が響く。


「はい、今開ける」

 

俺は一つ深呼吸をして、ドアを開けた。

そして、その場に固まった。


「……おはよう、佐藤君。準備、できたかしら」

 

そこに立っていたのは、俺の知っている「学校の氷室雫」でも、「家でのポンコツな雫」でもなかった。

 

頭には、深いネイビーのキャスケット帽。そこから、夜の静寂をそのまま紡いだような艶やかな黒髪が、しっとりと肩に流れ落ちている。

大きな縁の伊達メガネをかけているが、その奥にある漆黒の瞳の輝きを隠すことはできていない。

 

服装は、白いタートルネックのニットに、落ち着いたチェックスカート。その上にベージュのロングコートを羽織り、足元は黒いタイツに小洒落たショートブーツ。

一言で言えば、どこかのファッション誌からそのまま飛び出してきたかのような、完璧な「冬の令嬢」だった。


「………………」


「……佐藤君? どうしたの。そんなにじっと見つめられると、少し……落ち着かないわ」

 

雫は少し頬を赤らめ、キャスケットのつばを指先でクイッと下げた。


「……いや、えーと。変装、してきたんだな」


「ええ。完璧でしょう? これならきっと、クラスの誰かに会っても、氷室雫だとは気づかれないはずよ」


雫は少しだけ自慢げに、くるりとその場で回ってみせた。

コートの裾がふわっとなびき、石鹸の香りが廊下に広がる。


「……氷室さん。一つ、言っていいか?」


「なにかしら。称賛の言葉なら、歩きながら聞くわよ?」


「それ、変装になってない。というか、逆に目立ってる」

 

雫は「えっ?」と足を止め、信じられないという顔で俺を見た。


「そんなはずないわ。帽子も被ったし、メガネもしたのよ? 芸能人のプライベートみたいな格好だし……」


「芸能人がそんな格好するから目立つんだよ。……お前、自分のオーラってものを自覚しろ。そんなにスタイルが良くて、そんなに髪が綺麗で、そんなに服の着こなしが完璧だったら、帽子被ってようがメガネしてようが、道ゆく人が全員振り返るぞ」

 

実際、今の彼女は「バレないように隠れている美少女」ではなく、「お忍びで歩いている超人気モデル」にしか見えない。

隠そうとすればするほど、その「隠しきれない特別感」が際立ってしまっている。


「……じゃ、じゃあ、ダメかしら。着替えてきたほうが……」


「いや。……いいよ、似合ってるし。それに、お前がせっかく選んだ服だろ」

 

俺がそう言うと、雫はぱぁっと顔を明るくした。


「……そう。似合ってる、ならいいわ。行きましょう、佐藤君。スーパーの特売、終わってしまうわ」


「お前、いつの間にそんな主婦みたいなこと覚えたんだよ……」

 

俺たちは並んでアパートの外階段を下りた。

 

商店街へと続く道を歩き始めると、案の定、すれ違う人々の視線が次々と雫に吸い寄せられていく。

 

散歩中の老夫婦が目を丸くし、自転車に乗った大学生が危うく電柱にぶつかりそうになり、幼い子供が「あ、お姫様!」と指を差す。

 

雫は緊張しているのか、キャスケットを深く被り直し、無意識のうちに俺との距離を詰めてきた。

 

「……ねえ、佐藤君。みんな、こっちを見てる気がするわ。やっぱり、変装が甘かったのかしら」


「だから言っただろ。……ほら、そんなに不安なら、もっとこっちに寄れ。俺が壁になってやるから」


「……ええ。お願いするわ」

 

雫は小さく頷くと、俺の左腕の裾を、指先でギュッと掴んだ。

昨日、廊下ですれ違った時に耳打ちされた時と同じ、あの控えめな、でも確かな拒絶できない甘い力。

隣を歩く彼女から、微かな体温が伝わってくる。


周囲からは、この美少女が俺のような地味な男を連れて歩いているのが不思議に見えるだろう。だが、俺だけは知っている。

この完璧な「冬の令嬢」が、実はゴミの分別もできず、ハンバーグ一口で「ふにゃっ」と笑い、今こうして俺の袖を掴んで震えている、寂しがり屋な女の子だということを。


「……佐藤君、あの看板……」


「ん?」


「『卵お一人様一パック限り・九十八円』……。急がないと」


「……情緒もへったくれもねえな」


俺は苦笑いしながら、自分を頼ってくる美少女の歩調に合わせて、少しだけ足を早めた。

 

冬の冷たい空気の中。

秘密を抱えた二人の「買い物デート」が、今始まった。

 

この時の俺は、まだ知らなかった。

スーパーという日常の戦場が、俺たちにとってどれほど「甘い」場所になるのかを。

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