第44話 世界で一番甘いキス
二月十四日。 ついにその日は、昨日までの「そわそわ」をすべて飲み込むような、甘く、熱い期待と共に幕を開けた。
校内は、朝から言葉にできない熱気に包まれていた。下駄箱の周辺でソワソワと足を止める男子。教室の隅で、綺麗にラッピングされた袋を大切に抱える女子。そんな光景を横目に、俺と、隣を歩く雫は、いつもより少しだけ静かに、けれどしっかりと指を絡ませて廊下を歩いていた。
授業中も、休み時間も、俺たちの視線は幾度となく重なった。
雫の瞳……そこにあるのは、秘めた想いを今にも零してしまいそうな、熱く、潤んだ光だ。
そんな雫を見て、俺も胸の奥に溜まっていた熱が、もう限界だということを悟った。そして、放課後がやってきた。
校門の近く。大きな桜の木の陰で、俺と雫は足を止めた。 帰宅しようとした俺たちの視線の先に、見覚えのある二人の後ろ姿があったからだ。
「……あら。あれは、佐々木さんと……井上君?」
雫が小さく声を漏らす。
そこには、いつも以上に落ち着きがなく、自分の後頭部を何度も掻き毟っている井上と、その正面で、顔を真っ赤にして俯いている佐々木美紀がいた。
俺と雫は、どちらからともなく顔を見合わせ、そっと物陰に身を隠した。覗き見は趣味じゃないが、友達たちの重大な局面に、どうしても足が止まってしまったのだ。
「……井上君、あんなに焦って。見ていられないわ」
「……佐々木さんも、いつもの威勢がどこかに行っちゃってるな」
遠目に見守る俺たちの前で、美紀が意を決したように顔を上げた。
彼女はカバンの中から、丁寧にリボンがかけられた小さな袋を取り出すと、それを井上の胸に押し付けるようにして差し出した。
「……井上! これ、あげるわ! ……前に……あの…励ましてくれたお礼よ!」
テンプレのようなツンデレ台詞。けれど、彼女の声は震えていて、その指先が小刻みに揺れているのがここからでもわかった。
対する井上は、一瞬、雷に打たれたように硬直した。
「…………っ。……いいのか? これ、俺に」
「……あんた以外に、誰がいるってのよ! ……あーもう、早く受け取ってよ、バカ!」
井上は、おずおずと、けれど壊れ物を扱うような手付きでその袋を受け取った。
そして、彼はニカッと、いつもの太陽のような、けれどどこか泣き出しそうな笑顔を見せた。
「……サンキュー、佐々木。……大事に食うわ。いや、やっぱり、一生保存しとくわ」
「……バカ!手作りなんだから、今日中に食べなさいよ!」
二人は照れ隠しに笑い合い、そのまま並んで歩き出した。 夕日に照らされた二人の背中は、以前よりもずっと距離が縮まっているように見えた。
「……良かった。……美紀ちゃん、頑張ったわね」
雫が、自分のことのように嬉しそうに目を細めた。
友人の勇気が、彼女の背中をさらに強く押したのだろう。雫は俺の方を向き、その手を強く握りしめた。
「悠真君。……帰りましょう。私たちの、おうちに」
「……ああ。帰ろう、雫」
アパートに戻り、俺たちはいつものように台所に並んだ。
バレンタインという特別な日。けれど、俺たちはあえて豪華な夕食ではなく、いつもの「二人で作る夕食」を選んだ。
今夜の献立は、雫の希望で「特製オムライス」。
雫は、以前なら卵を割るだけでパニックになっていたが、今は手際よく野菜を刻み、ケチャップライスの準備を進めていく。
「……見て、悠真君。玉ねぎのみじん切り、こんなに細かくできるようになったわ」
「本当だ。……上手くなったなぁ、雫」
「ええ。……すべては、あなたの隣に相応しくなりたいという、私の執念の結果よ」
雫は誇らしげに胸を張り、俺はフライパンで卵を焼き始めた。
彼女が一生懸命作ったオムライスの中心に、俺がケチャップで大きなハートを描く。それを見て、彼女は「……いつもより大きいわ」と笑いながらも、耳まで真っ赤にして喜んでいた。
食卓を囲み、穏やかな時間が流れる。 食事が終わり、片付けを済ませた後。 部屋の空気が、ふっと密度を増した。
「……悠真君。……少し、待っていて」
雫はそう言い残すと、一度自分の部屋へと戻っていった。 一人残された俺は、心臓の鼓動が耳元まで響くのを感じていた。
今日。今日こそは言わなければならない。
カバンの中のメッセージカードは、結局出すのをやめた。文字ではなく、俺の言葉で、彼女の目を見て伝えたいと思ったからだ。
ドアが開く。 戻ってきた雫の手には、ラッピングされた小箱があった。
「……お待たせ、悠真君」
雫は、俺の正面に座った。 彼女の手は微かに震え、その瞳には強い決意と、わずかな不安が入り混じっている。
「……これ、私からの……贈り物よ。私が作ったチョコレート……受け取ってくれる?」
差し出された箱を、俺は両手で受け取った。
リボンをほどき、蓋を開けると、ツヤツヤと宝石のように輝くチョコレートが綺麗に並んでいた。
明かりを鏡のように反射するその美しい光沢は、不器用な彼女がどれだけ時間をかけて、難しい温度変化と戦い抜いたのかを何よりも雄弁に物語っていた。
立ち上るカカオの芳醇な香りは、少しだけ大人びていて、けれどその奥には鼻腔をくすぐるような、優しくて温かい甘さが隠れている。
それはまさに、誰よりも一途で真っ直ぐな、雫の真心そのものを形にしたような贈り物だった。これ一粒を完成させるために、彼女がどれだけの失敗を重ね、どれだけ俺の喜ぶ顔を想像してくれたのか……。そう思うと、手の中にある小さな箱が、何キロもの重みを持って俺の胸に響いた。
「ありがとう、雫。……大切に食べるよ」
雫が、俺の服の裾をギュッと握りしめた。 彼女は一度、深く息を吸い込み、真っ直ぐに俺を見つめた。
「出会った頃の私は、ただの凍りついた人形だった。感情を殺して、一人で生きていくのが当たり前だと思っていたわ。……でも、悠真君が私を溶かしてくれた。美味しいご飯で私を温めて、ポンコツな私を笑いながら受け入れてくれた……。今の私があるのは、全部、あなたのおかげなの」
雫は、震える声で言葉を重ねる。
「……私は、悠真君の隣で泣いて、笑って、甘える、ただの雫でいたいの。……これからも、ずっと……ずっと、あなたの隣にいさせて」
「……大好きよ、悠真君。……」
雫の、心の底からの告白。その言葉が、俺の胸の中にあった最後の躊躇いを、鮮やかに消し去った。
「……ああ、俺もだ。……雫」
俺がそう答えた瞬間。
「えっ……」
雫の動きが、ぴたりと止まった。
彼女は驚いたように目を見開き、俺の顔をじっと見つめる。いつもなら照れて茶化したり、優しく受け流したりする俺が、今、真っ直ぐに彼女の目を見ていたからだ。
俺は、深呼吸を一つした。
喉の奥で詰まっていた言葉が、熱い奔流となって溢れ出す。
「俺も、雫が大好きだ。……俺の前でだけ見せる、泣き虫で、甘えん坊で……でも、誰よりも一生懸命な『氷室雫』のことが、たまらなく好きなんだ」
ようやく、言えた。 一人の男として、一人の女を愛しているという、揺るぎない事実。
その三文字を口にした瞬間、俺の視界は一気に開け、胸の中にあった重荷が、嘘のように軽くなっていくのを感じた。
「悠真、君……」
潤んだ瞳から、ついに涙が零れ落ちる。
「雫。俺にとっては、このチョコを一生懸命作ってくれた雫の方が、ずっとずっと誇らしい。……俺の方こそ、これからもずっと、隣にいてくれ」
雫は俺の胸に顔を埋め、肩を震わせて泣き始めた。 安堵と、喜び。そして、お互いの想いが完全に重なり合った確信。
俺は、彼女の背中に腕を回し、その震えを包み込む。
しばらくして。 雫は涙を拭うと、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
「ねえ、悠真君。……せっかくだから、今、食べてみて? ……私が、食べさせてあげる」
雫は箱の中から、一粒のチョコレートを指先で摘み上げた。 それは、あの日に彼女が俺の唇に落とした指先と、同じ動き。
「はい。……あーん」
雫が、少しだけ首を傾げて、期待に満ちた目で俺を見る。 俺は、彼女の指先にあるチョコを、静かに口に含んだ。
「…………っ」
口の中に広がる、濃厚で、少しビターなカカオの香り。 そして、驚くほど滑らかに溶けていく食感。
「……どうかしら。……美味しく、できている?」
「……ああ。……世界で一番、甘くて美味しいよ、雫」
俺がそう答えると、 雫が、花が綻ぶような最高の笑顔を見せた。
見つめ合う、あまりにも短い距離。
重なり合う吐息。
もう、言葉なんて必要なかった。
俺の手が、自然と彼女の柔らかな頬に触れる。雫は逃げることもなく、むしろ求めるようにそっと目を閉じた。
「……雫……」
触れた唇は、想像していたよりもずっと柔らかく、そして驚くほど熱かった。
口の中に残るチョコレートの甘みが、互いの体温と混ざり合い、ゆっくりと溶けていく。
「……んっ」
ほんの一瞬。羽が触れるような短いくちづけ。
けれど、それだけではずっと前から降り積もった、ダムの決壊寸前のような恋心を押し止めることはできなかった。
一度顔を離すと、すぐ目の前で雫が肩を震わせ、今にも泣き出しそうな、それでいてこの世で一番幸せそうな瞳で俺を見つめていた。その熱に当てられるように、俺は再び、彼女の唇を探した。
二度目、三度目……。
今度はもう少し長く、確かめるように何度も唇を重ねる。
重なるたびに、雫の細い指が俺のシャツをギュッと掴み、彼女の小さな溜息が俺の肌に伝わった。甘いチョコの残り香、そして彼女という一人の少女の温もりが、逃れられないほどの鮮烈さで脳内を白く染め上げる。
「…………あ……」
最後に深いくちづけを交わして顔を離すと、雫は驚くほど顔を真っ赤にして、視界を熱く潤わせていた。その瞳は、涙を湛えながらも確かな光を放つ宝石のように、真っ直ぐに俺を射抜いている。
「……あ。……すごいわ、悠真君。心臓の音が、頭のてっぺんまで響いているみたい……」
雫は自分の唇をそっと指先でなぞり、それから幸せを噛みしめるように深く、深く俺の胸に頭を預けてきた。
「……チョコよりも、ずっと。……あなたの味が、一番甘いわ」
俺たちは、吸い寄せられるように再び寄り添い合った。
もう、言葉なんて必要なかった。
キスを、体温を、隠しきれない本心を知ってしまった今。
ただただ幸せで、少しだけ恥ずかしくて、胸が張り裂けそうに苦しい。
俺たちの「本当の始まり」を肯定するように、部屋の中にはどこまでも温かな、愛の沈黙だけが満ちていた。




