第45話 運命の掲示板
二月の冷たい風が、校舎の窓をガタガタと揺らしている。
バレンタインという甘い喧騒が過ぎ去り、学校全体を包んでいたのは、合格発表にも似た、静かで、それでいて刺すような緊張感だった。
今日、学年末考査の結果が貼り出される。
俺と雫は、いつもより少し早く登校した。校門から昇降口までの短い道のり。雫の指先は、俺のコートのポケットの中で、かすかに震えていた。俺はその手を、ポケットの中でそっと握り返す。
「……大丈夫だ、雫。あんなに頑張ったんだから」
「ええ。……わかっているわ。でも、掲示板を見るまでは……あの『氷の檻』の幻影が、私の背中を追いかけてくるような気がして」
雫の声は小さかったが、そこには以前のような絶望はなかった。彼女は一度深呼吸をすると、キッと前を見据え、俺と一緒に廊下を歩き出した。
二学年の掲示板前には、すでに人だかりができていた。溜息、歓喜の叫び、そして沈黙。様々な感情が渦巻く中、俺たちは人混みを掻き分け、最上段の右端へと視線を走らせた。
1位 氷室 雫 495点
そこには、一分の揺らぎもなく、彼女の名前が刻まれていた。
俺が真っ先に確認したのは、その点数差だ。二位、東郷瑛太との差。
前回はわずか三点差だった。だが、今回の結果は――。
「……十五点差」
雫が、ポツリと呟いた。
五教科五百満点のうち、雫は驚異の495点。ケアレスミスすらほぼ皆無の、完璧な勝利だった。
「やったな、雫! 圧倒的一位だ!」
「…………あ」
雫は掲示板を見つめたまま、その場にへなへなと崩れ落ちそうになった。俺は慌てて彼女の肩を支える。
彼女の目から、一粒の、そしてまた一粒と、涙が溢れ出した。
「良かった……。私……まだここに、悠真君の隣に、いられるのね……」
それは、父親・宗一郎への勝利であり、自分を縛り付けていた恐怖からの解放だった。
そして、俺もまた、自分の名前を探した。
前回、三百人中百五十二位。真ん中の住人だった俺の名前は――。
「……八十八位」
「悠真君……! あなた、二桁に入っているわ!」
雫が自分のこと以上に顔を輝かせる。
彼女に教えてもらった「エレガントな解法」は、確実に俺の武器になっていた。雫の隣にいても笑われないように、俺もまた、彼女に救われていたのだ。
「フン……。ふざけるなよ」
背後から、低く、苛立ちを隠しきれない声が響いた。
振り返ると、そこには掲示板を、血走ったような瞳で睨みつける東郷瑛太が立っていた。
十五点もの差をつけられた二位。彼は、この結果がどうしても受け入れられないといった様子で、拳を握りしめている。
「……東郷君」
雫が居住まいを正し、静かに彼に向き合う。
東郷は眼鏡をクイッと押し上げると、雫に向かって一歩踏み出した。
「納得がいかないな、氷室さん。……君は、佐藤君と浮ついた時間を過ごし、以前のような完璧な学習マシーンではなくなったはずだ。それなのに、なぜ僕との差がこれほどまで開いたんだ! これは何かの間違いだ、論理的におかしい!」
東郷は敗北を認めていなかった。それどころか、雫の変化が「良い結果」をもたらしたという事実を、全力で拒絶しようとしていた。
「君は弱くなったはずなんだ。感情という不純物を混ぜ、生活能力の欠如を隣の男に補ってもらっているような惰弱な存在が、なぜ一点の曇りもない僕を圧倒する!? 僕は認めない。君の今の姿は、氷室雫の偽物だ!」
東郷の執念に満ちた叫びに、周囲の生徒たちも静まり返る。
だが、雫は微塵も動じなかった。彼女は悲しむことも、怒ることもなく、ただ一人の人間としての凛とした佇まいで、東郷を見つめ返した。
「……東郷君。あなたは一つだけ、大きな勘違いをしているわ」
「何だと……?」
「私は、悠真君に甘やかされて弱くなったのではないわ。……私は、彼のおかげで『心の余裕』という武器を手に入れたの。以前の私は、一位から落ちることを恐れるあまり、自分のミスばかりを気にして、思考が縮こまっていた。……でも今は、彼がいてくれるという安心感があるから、どんな難問にも冷静に、広い視野で向き合えるようになった。……あなたの言う『完璧なマシーン』よりも、今の私の方が、ずっと自由で強いのよ」
雫の言葉は、静かだが重みがあった。
東郷はぐっと言葉を詰まらせ、言葉にならない悔しさに肩を震わせる。
「……ふん。屁理屈を。……僕は認めないぞ。次の試験こそ、その『余裕』ごと君を叩き潰してやる。……君がその男と仲睦まじくしていればしているほど、僕は君の隙を突いてみせる!」
東郷はそれだけ言い残すと、激しく足音を立ててその場を去っていった。
敗北を認めない頑固なライバル。だが、彼の放った「君がその男と仲睦まじくしていればいるほど」という言葉は、期せずして、雫の今のあり方が成績向上に直結していることを逆説的に認めているようでもあった。
「……ふふ。……あんな風に言われてしまったわね、悠真君」
「まあ、あいつらしいよ。……でも、雫。今の言葉…雫がまた一歩、大人になった気がするよ」
「ええ。……他人に認められなくても、私は私が信じる道で一位を獲れる。それを証明できたのが、何よりの収穫だわ」
俺たちは、掲示板から離れて教室へと向かった。
掲示板の前にはまだ多くの生徒が残っていたが、廊下を歩く俺たちに向ける視線は、以前の「好奇心」や「嫉妬」から、ある種の「敬意」へと変わりつつあった。
教室に入ると、案の定、佐々木美紀を中心とした女子グループが雫に駆け寄ってきた。
「雫ちゃん、一位おめでとう! しかも十五点差って、やったね!」
「氷室さん、本当にかっこいい! あの東郷君が、顔を真っ赤にして廊下を走って行くのが見えたよ。あんな彼、初めて見たかも」
雫は、かつての彼女なら決して見せなかったであろう、穏やかで親しみやすい笑顔で応えた。
「ありがとう。みんな。……でも、一人で頑張ったわけじゃないわ。……みんなが試験の後のチョコ作りのことを教えてくれたから、あれが私の支えになったから、私は集中できたの」
「うわぁ、雫ちゃんにそんなこと言われたら、私たちまで一位獲った気分になっちゃう!」
美紀が照れくさそうに笑い、次に俺の方を振り返った。
「で、佐藤君! あんたもすごいじゃない! 八十八位って、前回から何人抜き!? クラスの男子がみんな『佐藤が覚醒した』って騒いでるよ!」
「はは……。雫にみっちりしごかれたからな。先生が良かったんだよ」
俺がそう言うと、隣で雫が少しだけ胸を張った。
「悠真君は、私が教えたことを完璧に吸収してくれたわ。……彼の努力の結果よ」
「はいはい、ごちそうさま!」
美紀が肩をすくめ、クラス全体が温かい笑いに包まれる。
この場所が、雫にとってのもう一つの「居場所」であることを、俺は改めて実感していた。
明日からの日々も、こうして二人で笑いながら、一つずつステップを上っていく。
春の空のように、どこまでも晴れ渡った未来。
誰も俺たちを引き離せない。そんな全能感すら抱かせるほど、俺たちは幸福のど真ん中にいた。




