第43話 バレンタイン前夜、そわそわする二人
二月十三日。 カレンダーの数字が、まるで時限爆弾のカウントダウンのように、俺の焦燥感を煽っていた。
登校中の校舎。廊下のあちこちで、女子たちがひそひそと笑い合い、男子たちは不自然なほどに背筋を伸ばして「期待などしていない」というポーカーフェイスを装っている。
そんな中、俺――佐藤悠真の心境は、複雑怪奇を極めていた。
「(……絶対、作ってるよな。あのカカオの香り、隠せてないし)」
隣を歩く雫からは、数日前から微かに甘い、けれど少しビターな香りが漂っていた。「放課後の戦術会議」という名目のチョコ特訓も、俺はすべて察している。けれど、彼女が必死にサプライズを通そうとしている以上、俺にできるのは「何も気づかないふり」をすることだけだ。
それよりも、俺にはもっと大きな問題があった。 今日。今日こそは、彼女に自分の気持ちを伝えなければならない。
二人で期末考査を乗り切り、今の、この日常を大切に守り抜いた後の、確かな想いとして。
「……悠真君。どうかしたかしら? さっきから、私の顔をじっと見て……」
「えっ? あ、いや、なんでもない。……雫、今日も放課後は佐々木さんたちとか?」
「ええ。……最後の、その、『会議の総仕上げ』があるの。……帰りが少し遅くなるわ」
雫は少し悪戯っぽく微笑み、俺の腕を軽く触れた。その指先が触れただけで、俺の心臓は跳ね上がる。
「好きだ」という三文字。いや、「大好きだ」の四文字……それが、喉の奥にへばりついて出てこない。俺は、自分自身の不甲斐なさに、小さく溜息をついた。
◇◇◇◇◇
放課後。西日の差し込む家庭科室。 私は、昨日以上の真剣さでボウルと向き合っていた。
周囲では、佐々木美紀をはじめ数人の女子たちが、それぞれの「本命」や「義理」の準備を終え、ラッピングの相談で盛り上がっている。
「よし! 雫ちゃん、良く出来てる! ツヤッツヤだよ、これ! 完璧なテンパリング!」
美紀が歓声を上げる。私の目の前には、美しく結晶化したチョコレートたちが並んでいた。私はそっと、自分の頬に手を当てる。
「……良かった。……これで、悠真君をガッカリさせずに済むわ」
「ガッカリなんてするわけないじゃん。佐藤君、氷室さんがおにぎり一個握っただけでも泣いて喜ぶタイプでしょ」
女子たちの笑い声が響く中、一人、また一人と準備を終えて帰宅していく。 やがて家庭科室には、後片付けをしていた私と美紀の二人だけが残された。
「……ねえ、美紀ちゃん」
ボウルを洗っていた私が、ふと手を止めて声をかけた。
「ん? なに、雫ちゃん」
「……その。美紀ちゃんは、誰にチョコをあげるのか、聞いてもいいかしら?」
私の問いに、美紀は少しだけ意表を突かれたように瞬きをした。いつも元気いっぱいの彼女が、一瞬だけ、年相応の乙女らしい、少し困ったような笑みを浮かべる。
「……あはは。やっぱり気になる? ……まあ、雫ちゃんには隠してもしょうがないかな。……井上だよ。あの、佐藤君の腐れ縁の」
「……井上君?」
私は驚きで目を丸くした。あの、いつも悠真君と軽口を叩き合い、賑やかで少しデリカシーのない――けれど、悠真君が「あいつはいい奴なんだ」と全幅の信頼を置いている、あの井上君の姿が浮かぶ。
「意外でしょ? 私も、自分でもびっくりしてるんだ」
美紀は、ボウルに残ったチョコの跡を見つめながら、少し照れくさそうに笑った。
「あいつってさ、いっつもバカなこと言って、クラスを騒がせてるじゃない? デリカシーないし、うるさいし、佐藤君みたいにスマートに助けてくれるわけでもない。……でもね、あいつ、誰かが俯いてるのを見つけると、一番に気づいてくれるんだよ」
美紀は、ラッピング用のリボンを指に絡めながら、かつての思い出を語り始めた。
「去年の秋、私が部活の大会で失敗して、放課後の部室裏で一人で泣いてたことがあったの。誰にも見られたくなくて、声を殺してたんだけど……。そこに井上が、鼻歌を歌いながら現れてさ。慰めるのかと思ったら、あいつ、いきなり全力でコケて、持ってた炭酸飲料を自分の頭からぶっかけたんだよ」
「……頭から、炭酸を?」
「そう! それで『あーあ、俺の頭がバブル経済だわー』なんて、顔中泡だらけでバカなこと言って。……私、可笑しくて、悲しいの全部吹っ飛んじゃって、お腹抱えて笑っちゃった。あいつ、私が笑うのを確認してから『お、やっと笑ったな。炭酸代、百円貸しだぞ』って言って、泡だらけのまま帰っていったんだよ」
美紀の瞳が、冬の夕暮れのような温かい色に潤んだ。
「その時に思ったんだ。……ああ、この人は、自分がピエロになってでも、誰かの心を温めようとする人なんだなって。あいつのうるさい声って、実は寂しい人がいないか探してる合図なのかもしれない。……気づいたら、あいつのバカ騒ぎを聞いてる時が、一番安心するようになっちゃって。……不思議だよね」
美紀は、自分がラッピングした小さな、けれど丁寧にリボンを結んだ袋を、慈しむように見つめた。
「……私にとっては、あいつが世界で一番かっこいい『ヒーロー』なんだ」
「……美紀ちゃん」
私は、美紀の言葉を一つも漏らさぬように胸に刻んだ。
自分の隣にいることが当たり前になって、その音が、その温度が、なくてはならないものだと気づく。それは、私が悠真君に対して抱いている感情と、本質的には同じものだった。
「……素敵ね。……とても、素敵な恋だわ。井上君も、きっと喜んでくれるはずよ。……だって、美紀ちゃんのこんなに温かい想いが、このチョコには詰まっているのだもの」
「……雫ちゃん、ありがとう。誰かに言うつもりなかったんだけど、聞いてもらえてうれしかった!……よし、お互い頑張ろうね! 明日は最高の一日にしなきゃ!」
美紀はそう言って笑い、私の肩を叩いた。 私は、友人の秘めたる想いに触れ、自分の胸の中にある熱い感情がさらに深まるのを感じていた。
恋は、誰かを強く、そして優しくする。
午後十時。私はベッドの上に、ラッピング用品を広げて座っていた。 一つずつ、丁寧に箱に入れ、リボンをかける。
その作業をするたびに、チョコの甘い香りが鼻をくすぐり、今日の、そしてこれまでの思い出が溢れ出してくる。
(……悠真君。……喜んでくれるかしら)
ふと、私の手が止まった。 脳裏に蘇ったのは、学年末考査前の、あの夜の光景。
――悠真君の部屋で勉強中、疲れ果てて眠ってしまった彼の寝顔。 あの時、勇気を出して、自分の唇に触れた指先を、悠真君の唇へと落とした。
「…………っ、あ……!」
思い出した瞬間、私の顔が沸騰しそうなほどに熱くなった。 私はバタバタと足を動かし、抱き枕に顔を埋めて悶絶する。
(私、私、なんて大胆なことを……! あの時は必死だったけれど、今思うと……! 悠真君にバレていたら、私、どうなっていたのかしら……!)
間接的な、けれど私にとっては初恋のすべてを懸けたような、秘めやかなキス。 その指先の感触が、まだ残っているような気がして、私は自分の指先をじっと見つめた。
(……明日。……明日こそは、指先じゃなくて……)
そこまで考えて、私はさらに顔を赤くし、ベッドの上で転がり回った。 氷の令嬢、全面解凍。 いや、もはや沸騰である。
(……ダメよ、落ち着きなさい、氷室雫。……明日は、まずはチョコを渡して。……そして、ちゃんと私の口から伝えるのよ。……私は、あなたを――)
私は、ラッピングし終えたチョコを大切に胸に抱えた。
◇◇◇◇◇
隣の部屋では、悠真がメッセージカードに「大好きだ」と書くべきか、「愛してる」と書くべきか、それとも直接言うべきかで、やはり頭を抱えていた。
壁一枚を隔てて、二人の「そわそわ」は深夜まで続いた。 明日のバレンタイン。 それは、ただの行事ではない。
二人にとって一生に一度の記念日になろうとしていた。




