第42話 女子たちの「チョコ特訓」秘密会議
学年末考査という巨大な山を越え、校内に漂っていたあの殺伐とした空気は、一気に霧散した。代わりに廊下を満たしたのは、どこか浮き足立った、甘くて落ち着かない芳香だ。
そう、二月。男子にとっては一年で最も落ち着かない「あの日」が近づいていた。
「……はぁ。今年もチョコ・ゼロの記録を更新しちまうのか。俺の人生、マイナスからのスタートだな」
休み時間。俺の隣で、井上が魂の抜けたような声で机に突っ伏していた。
「大袈裟だな。まだ数日あるだろ」
「佐藤、お前はいいよな。黙ってても『学年一位の絶世の美少女』から、特上の、それこそ食べたら寿命が延びるようなチョコが確定してるんだからよ。……くそ、その余裕が腹立つぜ。お前、ちゃんと彼女に言いたいこと言えてんのか?」
「……言いたいこと?」
「決まってるだろ。『愛してる』とか『大好きだ』とかさ。お前、そういうの、ちゃんと口にしてんのか?」
「…………っ」
井上の言葉に、俺は言葉を詰まらせた。
試験が終わったら雫に伝えようと思っていた大切な三文字の言葉。日常に戻った今、改めてその三文字を口にするのは、想像以上にハードルが高い。
少し離れた席に座る雫を見る。彼女は今、佐々木さんたちと何やら楽しそうに……いや、非常に険しい顔で小声で相談をしていた。
「(……温度管理が、一分一秒の遅れが、結晶の構造を破壊するのね?)」
「(そうそう! チョコは繊細なんだから、雫ちゃん。勉強みたいに正解が一つじゃないのが難しいところなんだよね)」
雫の瞳は、試験前よりも鋭いかもしれない。
俺は「大好きだ」という言葉をいつ言おうか、この数日間ずっと機会を伺っている。けれど、何より、いざ二人きりになると心臓がうるさすぎて喉の奥で言葉が詰まってしまうのだ。
「……悠真君。今日の放課後、私、佐々木さんたちと大事な会合があるから。……先に帰っていていいわよ?」
「え、ああ。わかった。……遅くなるようなら迎えに行くから連絡しろよ?」
「ええ。……私の『誇り』にかけて、やり遂げてみせるわ」
誇り。……チョコ作りを、彼女は国家予算の策定か何かのように捉えているらしい。
◇◇◇◇◇
放課後。静まり返ったはずの校舎の片隅、家庭科室には、数人の女子生徒たちが集まっていた。 「さあ、始めようか! 第一回『本命チョコを成功させよう!』の会!」
佐々木美紀の号令に、女子たちが「おー!」と拳を突き上げる。その中に、誰よりも真剣な面持ちでエプロンを締めるのは私だ。
調理台の上には、高級なクーベルチュールチョコレート、生クリーム、そして私が持参した「精密温度計」が置かれている。
「……美紀ちゃん。確認させて。チョコの湯煎は、五十度を超えてはいけないのね?」
「そうだよ、雫ちゃん。五十度を超えるとチョコが分離しちゃうから。で、そこから二十七度まで下げて、また三十度まで上げる。これが『テンパリング』。チョコをツヤツヤにするための、一番の難所だよ」
「……二十七度から、三十度……。わずか三度の変化で、運命が決まるというのね。……まるで、あの期末テストの三点差のようだわ」
私は、ボウルの中のチョコをじっと睨みつけた。 私の脳内では、もはや料理ではなく、熱力学のシミュレーションが始まっている。
「ねえねえ、氷室さんは佐藤君に渡すんだよね? どんなチョコにするの?」
作業をしながら、一人の女子がニヤニヤしながら聞いてきた。
「……ええ。……私は、型抜きチョコと、生チョコの二段構えで行くつもりよ。……悠真君は、あまり甘すぎるのは得意じゃないけれど、苦すぎても疲れが取れないと思うから。カカオ六十パーセントのブレンドにしたわ」
「うわぁ、細かい! さすが氷室さん」
「……私は、彼に救われたから。……彼が作ってくれるご飯のように、食べた瞬間に『生きててよかった』と思えるような、そんな温かさをチョコに込めたいの」
雫は、ボウルを回す手を止めずに、ポツリと言った。その頬は、湯気のせいだけではなく、熱い感情で赤く染まっている。
「……でも、私……。悠真君に、まだ『好き』って、言ってもらえてない気がするの」
「えっ!? あんなにラブラブなのに?」
「……悠真君は、いつも言葉以上にたくさんのものを私にくれるわ。美味しいご飯、温かい言葉、そして私が私でいられる居場所。……私は、それを受け取ってばかりで。……だから、このチョコには、私の、私の全霊を込めたいの」
私の真剣な言葉に、家庭科室内が少しだけ静かになった。
彼女の「お嫁さん修行」は、単なる趣味ではない。それは、言葉にできないほど大きな愛を、形にするための必死な手段なのだ。
だが。 「――ああっ! 氷室さん、温度計が三十五度を指してる! 上がりすぎだよ!」
「……っ!? いけない、私の情熱(火力)が強すぎたわ! すぐに冷却水を投入して、熱力学の法則を……!」
「物理で語らないで! ほら、氷水に当てて!」
ドタバタと騒がしい、けれどどこか楽しげな時間が流れていく。
私は何度も失敗し、チョコを固めては溶かし、また固めては溶かした。その度に、私の指先はチョコで汚れ、エプロンには白い粉が飛び散る。
けれど、その顔は、氷の令嬢と呼ばれていた頃の孤独な完璧さとは、正反対の場所にいた。
「……できた。……見て、美紀ちゃん。……ツヤが出たわ。……鏡のように、私の顔が映っているわ」
三時間の格闘の末。 私の手のひらの上には、宝石のように輝く、小さなチョコレートが並んでいた。
「やったね、雫ちゃん! これなら佐藤君、絶対泣いて喜ぶよ!」
「……泣くかしら。……驚いて、またいつものように『雫はポンコツだなぁ』って、呆れながら笑ってくれるだけで、私は十分だわ」
私は、出来上がったチョコを大切に、壊れ物を扱うように袋へと収めた。
◇◇◇◇◇
一方その頃。 校門の外で雫を待っていた俺は、冷たい夜風に吹かれながら、スマホの画面を見つめていた。
画面には、去年のクリスマスの夜、二人で食べたケーキの写真。
あの時、俺の言いたかった言葉。けれど、今はもっと、それ以上の想いが胸に溜まっている。
悠真が決めたルールをを守り抜き、東郷との戦いを終え、一段と強くなった彼女。
友達に囲まれて、不器用ながらも必死に生活を楽しんでいる彼女。 そんな彼女を、俺は今まで以上に愛おしいと思っている。
それを、バレンタインという特別な日までに、ちゃんと言葉にして伝えたい。
「……あ、悠真君!」
校舎から、雫が走ってきた。 その体からは、微かに甘い、カカオの香りが漂っている。
「……お疲れ様、雫。……ずいぶん遅かったな」
「ええ。……佐々木さんたちと、その……『戦術会議』をしていたのよ。……お待たせしてごめんなさい」
雫は、何かを隠すようにカバンを背後に回しながら、少しだけ息を切らして笑った。その鼻先には、小さなチョコの汚れがついていた。
「雫。……鼻、汚れてるぞ」
「え? あ、やだ……」
雫が慌てて顔を拭う。その隙に、俺は一歩だけ彼女に近づいた。 今なら、言えるだろうか。 この静かな、街灯に照らされた帰り道。
「……雫」
「……なあに、悠真君?」
彼女が首を傾げて俺を見る。その真っ直ぐな瞳に見つめられると、俺の勇気は、熱いスープに落とした一欠片のバターみたいに、あっけなく溶け去ってしまう。
「……いや。……なんでもない。……お腹、空いたな。今日は何を作ろうか」
「……ふふ。そうね、私もぺこぺこだわ。……今日は、私がキャベツを切るお手伝いをするわよ? 野菜炒めはどうかしら?」
結局、三文字は喉の奥に押し戻されてしまった。
俺たちはまた手を繋ぎ、いつもの帰り道を歩き始める。
隣を歩く彼女のカバンの中に秘められた、甘い決意。
そして、俺の胸の内側にずっと隠されたままの、伝えたい言葉。
二つの想いは、まだ完璧に重なり合う前の「テンパリング」の途中のようだった。そんな、じれったくて温かい熱の中に、俺たちはいた。




