第41話 タッパーの応援歌、そして決戦へ
学年末考査、一週間前。 学校内の空気はもはや「緊張」を通り越し、一種の殺伐とした熱を帯びていた。
廊下ですれ違う東郷瑛太は、もはやこちらを見ることもない。ただ、彼の周囲には、分厚い参考書から放たれる圧倒的な知識の圧力が渦巻いているようだった。
「……雫。今日から一週間、さらにルールを厳しくする」
夕食の時間。俺の部屋の玄関先で、俺は雫に告げた。 彼女は驚いたように目を見開く。
「さらに厳しく? ……悠真君、まさか、顔を見るのも禁止だなんて言わないわよね?」
「まさか。……今日から試験が終わるまで、夕食を一緒に食べるのはやめる。もちろん、俺の部屋での勉強会もしばらくお預けだ」
「……っ!? どうして!? 私、あなたに教える時間が……」
「雫。今は、一分一秒が惜しい時だ。俺へ教える時間、部屋への移動時間や、夕食の片付けの時間も。今は雫の勉強に回してほしい。……東郷に勝つためだ」
俺は、手に持っていた二つのタッパーを彼女に差し出した。
一つには、生姜をたっぷり効かせた豚の生姜焼きと、彩り豊かな野菜のおかず。もう一つには、ふっくらと炊き上げた白米。
「俺が作った料理をタッパーに入れて毎日渡す。雫は自分の部屋で、これを食べてすぐ机に向かってくれ。……いいな?」
雫は差し出されたタッパーを受け取り、その温かさに瞳を揺らした。
「……悠真君。あなたは……」
「俺も、頑張るよ。……雫に教えてもらったところ、絶対に間違えたくないからな。俺の目標は、百五十二位からの脱却だ。雫の隣にいても笑われないくらいには、這い上がってみせる」
俺がそう言って笑うと、雫はタッパーを胸に抱きしめ、深く、深く頷いた。
「……わかったわ。悠真君の『献身』、無駄にはしない。……私も一人で頑張るわ。最高の戦果を持って、またここに戻ってくるために」
彼女はそう言い残すと、翻って自分の部屋へと戻っていった。
それからの数日間は、まさに「個」の戦いだった。 俺は自分の部屋で、雫から教わったノートを何度も読み返していた。
彼女の字は、どこまでも几帳面で、論理的だ。解説の端々に「ここは悠真君が間違えやすいところだから注意して」といった、俺への気遣いが溢れている。
ペンを握る右手が痛む。
けれど、壁を隔てた向こう側で、彼女がもっと過酷な戦いをしていると思うと、休んでいる暇なんてなかった。
夜、自分の部屋で一人、机に向かう俺の耳に、隣の部屋から微かな物音が聞こえてくることがある。
本を閉じる音。椅子を引く音。 ただそれだけの音が、俺にとってはどんな応援歌よりも心強く響いた。
◇◇◇◇◇
一方、 煌々と照らされたデスクライトの下で、私は悠真君から受け取ったタッパーを開けていた。
「……まだ、温かいわ」
立ち上る湯気と共に、食欲をそそる生姜の香りが広がる。 野菜は細かく刻まれ、勉強の合間でも食べやすいように工夫されていた。
おかずの端に、小さなメモが添えられているのに気づき、私はそれを手に取った。
『無理しすぎるなよ。疲れたらチョコを一粒。……俺がついてる。 悠真』
「…………っ」
私の目から、涙が零れ落ちた。
以前の私なら、試験前の一人きりの食事は、ただの「栄養補給」でしかなかっただろう。味も、匂いも、何も感じないほどに心を殺して、ただ知識を詰め込むだけの孤独な時間。
けれど今は違う。 タッパーから伝わる温もり。丁寧に作られた料理の味。 そして、短いけれど力強いメッセージ。
「……美味しいわ、悠真君。……とっても」
私は一口ずつ、噛みしめるように食べた。 悠真君の想いが、自分の血となり、肉となり、戦う力に変わっていくのを感じる。
私は箸を置くと、そっと自分の唇に指を当てた。
あの日、寝ている彼の唇に落とした、あの秘めやかな儀式を思い出す。
(……私はもう、一人じゃない。守るべき場所がある。……大好きな人がいる)
私は再びペンを握った。
その瞳に宿っているのは、他者を拒絶するための「氷」ではない。
大切な人との一緒の時間を守り抜くための、誇り高く、気高い輝きだった。
◇◇◇◇◇
そして迎えた、学年末考査、当日。
冬の朝の冷たい空気が、校庭の木々を白く染めている。 俺はアパートの前で、雫を待っていた。
やがて、階段から降りてくる彼女の姿が見えた。
以前のような、自分を追い詰めるような険しさはない。けれど、その足取りは凛としていて、真っ直ぐにゴールを見据えていた。
「……おはよう、雫」
「おはよう、悠真君。……よく眠れた?」
「ああ。言った通り、六時間は確保したよ。頭はスッキリしてる」
「それは重畳ね。……私もよ。あなたの料理のおかげで、最高のコンディションだわ」
俺たちは、どちらからともなく手を伸ばし、指を絡めた。 指先から伝わってくる、確かな熱と、共通の覚悟。
昇降口に入り、上履きに履き替える。
周囲には、直前まで参考書を握りしめる生徒たちの独特の緊張感が漂っていた。
いつもならその空気に飲み込まれそうになるが、繋いだ手から伝わる彼女の鼓動が、俺の心を不思議と落ち着かせてくれる。
カツン、カツンと、静かな廊下に二人の足音が重なる。
やがて、俺たちの教室が近づき、雫がふと視線を鋭くした。
「……東郷君が、いるわよ」
隣の教室の入り口。
そこには、獲物を待つ鷹のような鋭い眼差しで、こちらを射抜く東郷瑛太の姿があった。
参考書を閉じてこちらを睨みつけている。 その視線は、必ず学年一位をとるという執念に満ちている。
俺は、雫の手を少しだけ強く握り返した。
雫は不敵に微笑むと、俺の手を離し、ゆっくりと東郷瑛太の方へ歩み寄った。かつての彼女なら、東郷の視線に「拒絶」で応じていただろう。だが今の彼女は違う。堂々と、一人のライバルとして彼を見据えていた。
「余裕そうだな、氷室さん」
東郷が冷徹な声で言い放つ。
「その隣の男と『おままごと』に興じた結果が、前回の三点差だ。君の氷が溶けて脆くなったことを、僕がこの試験で証明してみせよう。……今の君に、僕に勝つ力は残っているかな?」
東郷の言葉は鋭い。だが、雫は微塵も動じなかった。それどころか、憐れむような、それでいて柔らかな笑みさえ浮かべてみせた。
「私に勝てると信じているなら、やってみなさい。……私は、私の大切な場所を守るために、あなたを絶望させてあげるわ」
「…………なんだと?」
東郷の表情が、驚愕に歪む。
雫の纏う空気は、以前よりもずっと高く、気高く、そして何より「熱かった」。
予鈴が鳴る。
雫は俺の方を一度だけ振り返り、小さくガッツポーズをして見せた。俺もそれに頷き、自分の席へと向かう。
試験開始の合図。
一斉に響く、紙をめくる音とシャーペンの音。
俺は問題用紙に目を走らせた。……驚いた。雫に教えてもらった数式の解き方が、英語の構文が、面白いように頭に浮かんでくる。
(……わかる。雫が言っていた『エレガントな解き方』は、これだ)
彼女の丁寧な教え方が、俺の中に確かな武器を植え付けてくれていた。
一方の雫も、解答欄を迷いなく埋めていた。
いつもなら孤独に戦い、自分を追い詰めていた試験。だが今は、胸の奥に悠真の作ってくれた数々の料理の温もりが残っている。
(……負けられないわ。悠真君が、私を信じてタッパーに詰めてくれたあの温もりを、結果に変えてみせる)
彼女は、解答を書く手を止めない。最後の一問まで、一分の隙もなく、彼女は「完璧」を体現していた。
三日間にわたる試験が、ついに幕を閉じた。
最終日の放課後。教室から出てきた雫は、疲労の色を見せつつも、晴れやかな顔をしていた。
「……悠真君」
「お疲れ様、雫。……どうだった?」
雫は俺の前に立つと、ふらりと体を預けてきた。俺は慌てて彼女を支える。
「……出し切ったわ。……しばらく教科書も参考書を見たくないわ…」
「はは、相当追い込んだんだな」
「ええ。……だから今日は、アキバ屋へ行く前に駅前のケーキ屋さんに寄りましょう。頭を使いすぎて、体がとびきり甘いものを求めているの。……それを買って帰って、お家で……一週間分、悠真君に思い切り甘えるの。『悠真君成分』が、足りなくて死んでしまいそうだから」
「……あはは、大袈裟だな。……でも、わかった。……今日は雫のわがまま、全部聞くって決めてるからな。ケーキだけじゃなく、夕飯も雫のリクエストを全部受け付けるぞ」
冬晴れの午後、俺たちは廊下を手を繋いで歩き出した。
結果が出るのは二週間後。けれど、俺たちの心には、もはや不安なんて一欠片も残っていなかった。




