第40話 指先だけの接吻
(雫side)
冬休みが終わり、学年末考査まで残り二週間。
校内は、嵐の前の静けさとでも言うような、独特の緊張感に包まれていた。
特に、学年一位を争う私と東郷瑛太の周囲には、触れれば切れるような鋭い空気が漂っている。東郷は廊下ですれ違うたび、無言で眼鏡のブリッジを押し上げ、その冷徹な視線で「準備はできているか」と問いかけてくる。
だが、今の私には、その重圧を跳ね返すための「秘密の支え」があった。
休み時間。
私は自分の席で猛然と参考書に向かっている……と見せかけて、時折、佐々木美紀たちのグループに近寄り、ひそひそと秘密の相談をしていた。
「――それでね、雫ちゃん。試験が終われば、すぐに『あの日』でしょ? 準備の方は順調?」
「ええ……。美紀ちゃんに教わった通り、材料の選定は済ませたわ。でも、温度管理が……。私の情熱(強火)が、また災いしないか心配なの」
「あはは! チョコは中火どころか湯煎だからね! 大丈夫、試験が終わったら、放課後に女子みんなで特訓しよう!」
美紀たちが話している「アレ」――それは、試験の後にやってくるバレンタインデーに向けた、手作りチョコ作りの計画だった。
悠真君には「試験勉強の進み具合を友達と話しているだけ」と伝えているが、実際にはそれが私の最大のモチベーションになっていた。
(……試験で一位を守り抜き、悠真君に最高に甘いチョコを届ける。そのためには、今は目の前の難敵(東郷)を排除しなければならないわ)
私は再び席に戻ると、以前のような悲壮感ではなく、どこか楽しげな光を瞳に宿してペンを握った。
その日の夜、悠真君の部屋。
こたつの中で私たちの足が時折触れ合い、カチカチという時計の秒針だけが響く静かな時間が流れていた。
「……悠真君。そこの積分の計算、符号が逆だわ。マイナスとマイナスを掛けて、どうしてマイナスになるのかしら?」
私は自分の指先で、彼がノートに綴ったミスを的確に指し示した。
「あ……。本当だ。ごめん、つい焦って」
「焦りは最大の敵よ。東郷君に三点差まで迫られたのも、私が最後に『慢心』という焦りを見せたからだわ。……悠真君には、同じ轍を踏んでほしくないの」
私はそう言いながら、悠真君のノートの余白へ、さらさらと補足の説明を書き込んでいく。
学年の中位にいる彼にとって、私の教えは目から鱗の連続であるようだった。私は単に解法を教えるのではなく、「なぜこの式が導き出されるのか」という本質を、彼に分かる言葉で一つずつ噛み砕いていった。
「……なあ、雫。教えてもらってて思うんだけど。雫って、教えるの上手いよな。これ、自分でも理解が深まってるんじゃないか?」
悠真君の言葉に、私はペンを動かす手を止めた。
少し意外な心地がして、まじまじと自分が書いた数式を見つめる。
「……ええ。自分でも驚いているわ。以前の私は、ただ機械的に問題を解くだけだった。でも、悠真君にどう伝えれば理解してもらえるかを考えるうちに、私の中にあった知識が、別の温もりを持ち始めたというか……血の通ったものに変わっていくような感覚があるの」
自分の頬に、ふわりと柔らかな赤みが差すのが分かった。
東郷君から宣戦布告を受けて以来、ずっと強張っていた私の心が、今は穏やかに解けている。
教えるという行為が自分自身の焦燥感を和らげ、知識の再構築を助けてくれる――。それは、嬉しい誤算だった。
「……悠真君に勉強を教えている時が、一番心が落ち着くわ」
ふと、独り言のように言葉が零れた。
「え?」
「……一人で勉強していると、どうしても東郷君やお父様の足音が聞こえてくるような気がしてしまうの。でも、こうしてあなたの隣で、あなたの『わからない』を一緒に解決している間は、自分が『氷室雫』という完璧を強いられる記号ではなく、ただの『雫』でいられる気がするから」
少しだけ照れくさくなって、私は悠真君の袖を指先でちょんと引いた。
「……ありがとう、悠真君。あなたが私を一人にしないでくれたから、私はまた、こうして前を向けるようになったわ」
「……俺の方こそだよ、雫。教えてもらって、少しずつ手応えが出てきた。雫の隣にいても恥ずかしくないくらいには、俺も本気で順位を上げたいと思ってるんだ」
「ふふ。ええ、その意気よ。佐藤悠真の『本気』、楽しみにしているわ」
再び静寂の中へと戻る。
私は、必死に数式の山に挑んだ。悠真君の足を引っ張りたくない。一位を守るために再び「氷」に戻る必要がないように。彼の隣で「最強」であり続けられるように。
けれど。
食後の満腹感と、連日の慣れない猛勉強。そして、この部屋の心地よい暖かさが、少しずつ悠真君の意識を深い微睡みへと引きずり込んでいったようだ。
「……あと一問……次の、古文を……」
悠真君の思考は、そこで途絶えたらしい。
カタン、と手に持っていたシャーペンが畳の上に落ちる。
「…………ん……」
規則正しい寝息。
すぐ隣にあるその温かな気配に触れながら、私は安らかな充足感の中にいた。
私は、自分のノートを閉じると、隣で力尽きた彼の方を向いた。
机に突っ伏したまま、規則正しい寝息を立てている悠真君。
彼の指先には、ペンを握りしめていた跡がうっすらと残っている。
「…………頑張り屋さんね、悠真君は」
私は小さな声で囁き、そっと彼を覗き込んだ。
学校で見せる、お節介だけど頼りがいのある顔。
キッチンで手際よく料理を作る時の、誇らしげな顔。
そして今、目の前にある、無防備な寝顔。
私は、自分の胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚に陥った。
悠真君は、私のために勉強を頑張っている。
学年一位という「呪縛」に怯える私を、彼は美味しいご飯と、ルールという名の優しさで、支えてくれた。
もし、次の試験で負けてしまったら。
この寝顔を、もう見られなくなってしまう。
彼が私のために作ってくれるあったかいご飯も、私のポンコツさを笑う彼の声も、すべてが思い出の中に封じ込められてしまう。
「……そんなの、絶対に嫌だわ」
私は、悠真君の寝ている手に、自分の手をそっと重ねた。
指先から伝わってくる彼の熱。
それは、どんな分厚い教科書よりも、私に確かな「勇気」を与えてくれた。
「東郷君……。あなたが私をどう評価しようと勝手だけれど。……私はもう、昔の私じゃないわ」
(私は、悠真君の隣にいるための、私になる。……あなたの言う『無価値な情愛』が、どれほど強いものか、試験の結果で教えてあげる。……そして、その先にある『甘いご褒美』も、絶対に諦めないわ)
私は、悠真君の寝顔を見つめたまま、心の中で誓った。
私は、絶対に負けない。
一位を守るためじゃない。
『佐藤悠真のお嫁さん』という、私の本当の居場所を守り抜くために。
私は、一度自分の唇を指先でなぞると、顔を熱くしながら、震える指をゆっくりと伸ばした。
そして。
「…………っ」
そっと、羽が触れるような心許なさで。
自分の唇に触れたばかりの人差し指を、眠りの中にいる悠真の唇へと、静かに落とした。
それは、言葉にできない私の誓いと、溢れ出した愛おしさが形になった、秘めやかな儀式。
間接的であっても、彼の体温が指先を通じて直接心臓に届いたような気がして、私はたまらず目を閉じた。
(……好きよ、悠真君。……世界で一番)
指先から伝わる彼の呼吸が、私の決意をさらに強固なものへと変えていく。
「おやすみなさい、悠真君。……明日も、一緒に頑張りましょうね」
窓の外では、冬の星座が冷たく輝いている。
けれど、この小さな部屋には、私の決意が満ちていた。




