第39話 二人で迎える年
十二月三十一日。大晦日。
年明けに控える学年末考査という「戦い」の真っ只中にいる俺たちにとって、この
二日間は奇跡のような休息日だった。
「……悠真君。本当に、今日はペンを握らなくていいのかしら? なんだか、右手がそわそわして落ち着かないのだけれど」
朝、俺の部屋にやってきた雫が、手持ち無沙汰そうに自分の指を見つめて言った。
「ああ。決めたろ? 大晦日と元旦は完全休養だ。脳を休ませるのも、一位を守るための戦略のうちだよ。……それより、今日はやることがたくさんある。まずは、大掃除だ」
俺が軍手と雑巾を差し出すと、雫は「大掃除……。テレビで見たことがあるわ、一年の煤を払う神聖な儀式ね」と、まるで未知の格闘技に挑むような真剣な顔で頷いた。
俺の部屋と、隣の雫の部屋。
二つの空間を往復しながら、俺たちは朝から掃除に明け暮れた。
雫は相変わらず掃除機の扱いに苦戦し、自分の髪の毛を吸い込みそうになったり、窓を拭こうとして逆に真っ白な拭き跡(筋)を作ってしまったりとポンコツぶりを発揮していたが、その表情はどこか楽しげだった。
「見て、悠真君! この棚の裏から、あなたが前に探していた消しゴムが出てきたわ!」
「お、助かるよ。……雫、そっちは埃がすごいから、マスクしろよ?」
「ええ。……ふふ。二人でこうして家を掃除していると、本当に……その、夫婦みたいね」
雫は雑巾を絞りながら、少し照れくさそうに微笑んだ。
以前の彼女なら、大晦日も家族のいない家で一人、寂しく過ごしていただろう。こうして埃にまみれ、笑いながら新年を迎える準備をすること。そのささやかな幸せが、彼女の心を内側から温めているのがわかった。
日が落ち、街に除夜の鐘の音が響き始める少し前。
俺たちのキッチンには、実家の母・佳代子から届いた段ボールが置かれていた。
「あら。佳代子さんから、また贈り物が?」
「ああ。年越しそば用の生麺と、立派な車海老だ。……『二人で仲良く食べなさい』だってさ」
「まあ……佳代子さん、本当にお優しいわ。……いつか、本当の『お義母様』とお呼びできたら、嬉しいのだけれど」
「……っ、本人の前で言うなよ? 絶対に調子に乗って、親戚中に『お嫁さんができた』って触れ回るからな」
雫はクスクスと楽しそうに笑いながら、俺の腕に体重を預けてきた。
「あら、望むところだわ。……もう、『お義母様』公認の仲なんだから」と悪戯っぽく笑った。
今夜の献立は、年越しそば。メインは、佳代子が送ってくれた車海老を使った天ぷらだ。
「悠真君。……海老の天ぷら、私にやらせてみてくれないかしら? お嫁さんとして、揚げ物の一つくらいマスターしておきたいの」
雫がやる気満々で袖を捲り、油の入った鍋に手を伸ばそうとした。
その瞬間、俺は全力で彼女を制止した。
「待て待て待て! 雫、ストップだ!」
「……どうして? 私は至って真面目よ」
「……天ぷらは温度管理が命なんだ。まずは、俺のやり方を横でしっかり見て、覚えろ。……わかったな」
俺が厳しく言うと、雫は「……わかったわ、悠真君」と少し不満げに頬を膨らませた。だが、俺が調理を始めると、彼女はすぐに真剣な「見習いお嫁さん」の顔に戻り、手元のノートを開いた。
「いいか、雫。海老は腹側に切り込みを入れて、筋を伸ばす。こうすることで、揚げた時に丸まらず、ピンと真っ直ぐな天ぷらになるんだ」
「……なるほど。海老の背筋を正すのね。メモしたわ」
「衣は混ぜすぎないこと。ダマが残るくらいでいい。冷水を使うのがコツだ」
俺が手際よく海老を衣にくぐらせ、パチパチと心地よい音を立てる油の中に放り込む。黄金色の花が咲くように衣が広がり、香ばしい匂いがキッチンを満たしていく。
「……綺麗。……悠真君が揚げると、海老がまるでドレスを纏っているみたいだわ」
「大袈裟だよ。……ほら、揚がったぞ。雫、食べてみるか?」
俺が菜箸で一尾差し出すと、雫は「あーん」と口を開けた。
サクッ、という完璧な咀嚼音。
「…………んんっ! 美味しい……! 外は信じられないくらいサクサクなのに、中の海老は驚くほどプリプリだわ……。悠真君、あなたやっぱり天才よ!」
「はいはい。……雫も、次は一緒にやろうな。今日は俺の味をしっかり覚えておいてくれ」
茹でたての蕎麦に、出汁の効いた温かいツユ。その上に、今揚げたばかりの巨大な海老天を二尾載せる。
テレビから流れる行く年来る年の映像を横目に、俺たちは並んで蕎麦を啜った。
「……悠真君。私、この一年……ううん、人生で一番、幸せな大晦日だわ」
雫が蕎麦の湯気の向こう側で、目を潤ませて言った。
「……俺の方こそだよ。雫が隣にいてくれるから、俺の平凡な毎日がこんなに騒がしくて、楽しくなったんだ」
除夜の鐘が、最後の一打を響かせる。
窓の外、日付が変わる瞬間に合わせて、俺たちは顔を見合わせた。
「明けましておめでとう、雫。……今年もよろしく」
「明けましておめでとう、悠真君。……今年も、来年も、その先も。ずっと、あなたの隣にいさせてね」
翌朝。元旦。
眩しいほどの初日の出が、アパートの窓から差し込んでいた。
俺たちは朝から台所に立ち、一緒にお雑煮を作った。
雫は『お嫁さん修行』の成果を活かし、鶏肉や小松菜を丁寧な手付きで切ってくれた。
「お餅は、角餅を焼くのが悠真君の実家流なのね?」
「ああ。香ばしく焼いてから、澄まし仕立ての汁に入れるんだ。……ほら、雫、餅が膨らんできたぞ」
「わあ……! 可愛いわね、お餅がぷっくりとして。……あ、悠真君、そっちの餅とこっちの餅がくっついて、まるで……その、私たちみたい……」
「雫……朝から何を言ってるんだ…」
出来上がったお雑煮は、野菜の甘みと出汁の香りが重なり合った、優しい味がした。
雫は「お餅の粘り強さで、試験も粘り抜くわ」と、なんとも縁起の良い(?)感想を言いながら、幸せそうに完食してくれた。
午後。
俺たちは初詣に行くために、外出の準備を整えた。
雫は淡いベージュのロングコートに、俺がクリスマスに贈ったブルーの手袋、そして白いマフラーという装いだった。
長い黒髪を風に靡かせ、白い息を吐きながら俺を待つ彼女の姿は、どんな着物姿の女性よりも可愛くて、美しかった。
「お待たせ、悠真君。……行きましょうか」
「ああ。……寒くないか?」
「ええ。あなたの手袋があるもの。……それに」
雫は俺の手を取り、自分のコートのポケットの中に一緒に滑り込ませた。
ポケットの中、布越しに伝わってくる彼女の指先の熱。
「……悠真君の手、とっても温かいわ。これでは、私の『氷』も全部溶けてしまいそうね」
「……元々、俺の前では溶けきってるだろ」
近くの大きな神社は、大勢の参拝客で賑わっていた。
俺たちは人混みにはぐれないよう、しっかりと手を繋ぎ、長い行列に並んだ。
冬の透き通った空気。お囃子の音。屋台から漂う甘酒や焼きそばの香り。
すべてが新年の訪れを祝っている。
ようやく拝殿の前に辿り着き、俺たちは賽銭を入れ、二礼二拍手一礼をした。
(……雫が、無事に一位を守り抜けますように。そして、試験が終わった後も、ずっと二人で笑い合えますように)
俺の願いは、それだけだった。
隣で目を閉じ、深く頭を下げている雫。彼女は何を願っているのだろうか。
参拝を終え、俺たちは古いお守りを返納し、新しいお守りを買った。
「悠真君。……私、何を願ったか聞きたい?」
帰り道、少し空いた参道を歩きながら、雫が小首を傾げて聞いてきた。
「ん? やっぱり『学年一位』か?」
「ええ、それももちろんあるわ。負けるわけにはいかないもの。……でも、一番強く願ったのは別のことよ」
雫は立ち止まり、俺の正面に回った。
そして、俺の手を両手で包み込み、真剣な瞳で見つめてきた。
「……『悠真君の隣に相応しい、最高の女性になれますように』。……そう願ったの」
「雫……」
「試験の結果も、お嫁さん修行も。……すべては、あなたと一緒にいたいという願いに繋がっているわ。……私、必ず一位を獲る。……そして、あなたの自慢のお嫁さんになってみせるから」
雫の宣言は、神前での誓いよりも力強く、俺の胸に響いた。
「ああ。……わかったよ、雫。……お前なら、絶対に大丈夫だ」
俺たちは再び歩き出した。
明日からは、また厳しい勉強の日々が始まる。
けれど、この二日間で充電した二人の絆があれば、どんな困難も乗り越えられる気がした。
夕暮れの参道、凍えるような冬の風。
けれど、繋いだ手から伝わってくるのは、春の訪れを予感させるような、確かな温かさだった。




